ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

死なないで

2015年11月14日 | 随筆
 このブログを書き始めて、8年目の半ばを過ぎました。長い間のようでもあり、アッと言う間のようでもあります。段々次の文を載せる間隔が長くなって、もう書き始めのような速さでは、とても書けません。
 この度の号数が、正しければ360号になると思います。一文だけ後で消去しましたし、数え方が不正確かも知れません。日々思い付いたことを書いて来ましたから、何回か同じことを書きました。例えば子育ての大切さとか、マスコミの果たす役割の大切さなど、浅智慧にも拘わらず、世の中の出来事を批判したり、臆面もなく書き散らしたものだと、5冊目になった保存用の活字のファイルを眺めて恥じ入っている始末です。
 最近は、世の中が段々おかしくなってきて、人間が人間らしく無くなってきてはいないか、と心配症の私は、不安です。植物も動物も宇宙もみな同じような営みを続けていると思ったりしていますが、その一方で地球の温暖化などを考えると、知らず知らずの内に、みな変化していって、想像も付かない世の中になってしまうのではないか、等と思えて心配です。
 例を取ると、最近は想像出来ないような死に方をする人が多くなりました。「殺してみたかった」と言う動機や、身内や日頃は友人であったり知人の筈の人を簡単に殺すといった、どうにも理解出来ない殺人事件が増えています。一方高齢者や若年の方の自殺が多くなって居るようです。
 「君死に給うことなかれ」と題して、2013年5月12日にブログを書きましたが、最近またまたいじめで、いたいけない小学生にまで自殺者が出る程、いじめが多くなって来ているようです。未だ若い小・中学生まで自殺したり、自殺願望を持つのかと思うと、想像するだけで痛ましいことです。
 私は、声を大にして言いたい。「死なないで」と。いじめのひどい学校へは行かなくていい、必ず別の道が開けます。ゆっくりと自分で取り返すことも出来ます。学校は尊い命を代償にするだけの価値のある処ではありません。 
 なぜそこまで追い詰められるのか、と時折考えます。様々な要因が思い当たりますが、少子化になって、子供がひ弱になっていることもありましょうし、子供の立場に立てば、親からの期待感が重いプレッシャーになって耐え難いこともあるでしょう。しかし、それ以上に、いじめる側に「もしいじめられている子が自分だったら」と立場を変えて考えることが足りないのと言ったら、時代錯誤と笑われるでしょうか。
 ゲ―ムで殺戮を繰り返し、リセットして又生き返らせる遊びも多いようで、人間が死んでもリセット出来るとまでは考え無くとも、いとも簡単に人を殺める遊びを繰り返す内に、命は一片の木の葉のように軽く思う心が育つのではないかと不安です。
 テレビなどのバーチャルな画像が余りにリアルになって来ています。しかし現実と非現実と区別できなくなったら、これは正常ではありません。この種の病める人が増えたのかもしれません。
 政治家と言われる人にも、嘘を平気で言ったり、ごまかしたり、法に触れることをしながら反省しない人もいるようです。これでは子供たちに、正しく生きよとは言えません。
 教師の居る前では、決していじめないけれど、居ないといじめる、人気の無いところへ呼び出していじめる、一対一ではいじめられないが大勢でいじめる、いじめる側の仲間から外れると、その子がいじめに遭う、そういういじめの構造が、見え隠れします。 
 行いの正しい優秀でおとなしい子が標的になったり、ややかけ離れて裕福な家庭の子、またはその反対、兎に角集団から少し離れて居ると思われると、いじめの対象になりがちのようです。いじめはいつの世にもありますが、最近のいじめはとことん追い詰めて死ぬ迄いじめ抜く訳ですから、恐ろしいです。
 我が家の息子は、昔のいじめはガキ大将が居て、この辺までという限度を心得ていて、やめさせたといいます。仲良くなればみんな一緒で、直ぐに泣くような弱い子は、むしろガキ大将が守ったといいます。
 何故このような卑劣ないじめ体質を持つようになったのか、親にも、社会にも、学校にも、政治にも、その原因がありそうです。
 共働きが増えて、愛情不足の子が増えました。愛情が不足すると情緒不安定な子供になったり、自分の気持ちを理解して貰えないとかんしゃくを起こしたり、何時も不満ばかり持つ様になったりしがちだと言います。だから共働きがいけないと言って居るのではありません。女性も社会の中で、働いて生きて行けるように、政治もその方向で動いています。でもじっくりと愛情を持って育てる時間や施設が不十分なのです。そこをしっかりとしないと、国全体に乾いた心の持ち主が増えて、殺戮や自殺が増えるでしょうし、優しさが減って、感謝の心が薄れ、住みにくい社会になるでしょう。
 教師や親も、自分がいじめられる立場になったらどう思うか、そこをしっかり考えて行動できるように導く必要を感じます。親子の対話は充分でしょうか。生きとし生けるものを大切にする指導をしているでしょうか。花や動植物などを育てたり、可愛がったりする経験を大切にしているでしょうか。
 子供たちは親の背中や教師の背中を見て育っています。事件があってから、「命を大切にしましょう」と口で言うだけでは、何とも白々しい違和感を感じます。「もしその人があなただったらどう思いますか。どうしますか。」と問いかけて欲しいです。「相手の立場になってものを考える事の出来る人」「他人に苦痛を与えるようなことをしない人」になって欲しいと思うのです。口で言うほど優しいことではありませんが、大切なことだと思います。又恵まれている自分に気付いて、感謝出来る人になり、何かの形で恩返しの出来る人になって欲しいと思います。良く水害などのボランティアに来られる人の中に、「私達も助けて頂きましたから、その恩返しです」と言われる人がいるそうで、立派なことだと思います。
 こういうことが受け継がれて行けば、きっと過ごし安い温かい社会になると思うのです。

 今日葉ボタンやパンジーの花苗を買ってきて、午後から鉢に植え、冬仕度の半分を済ませました。残りは雪囲いです。葉ボタンは、毎年我が家に来る鵯(ひよどり)が、いよいよついばめる餌が無くなった時に食べられるようにと、毎年植えます。勿論観賞用ですが、餌がなくなって痩せて行く鵯はかわいそうです。必ず近くの木の枝で、一羽が見張っていて一羽がついばみます。食べ終わると交替します。とても仲のよいつがいです。今年も4鉢植えました。
 雪の下になるパンジーは、翌春の花付きが遅いですが、咲けば強く根を張って、沢山花を付けます。春一番に買い増す花と共に春を待つ仕度でもあります。
 ヤマボウシもハナミズキもモミジもみな真っ赤になって、散って行っています。毎朝夫が飛んだ落ち葉を追いかけて、遠くの家の前まで掃き寄せに行き、息子が「庭には少しは落ち葉がはある方が、苔の緑に映えて風情がある」といっても、たった一枚落ちても拾いに行く位です。私は苔の間に顔を出す小さな草や、ゼニゴケ退治に眼を光らせています。
 つれづれ草に、「木の葉の落つるも、まづ落ちて芽ぐむにはあらず。下よりきざしつはるに堪へずして落つるなり。」とあります。下からきざしつはってくる木の芽に、堪えきれず押されて落ちる木の葉に、些か心が動かされます。今からもう芽を出して来る木の若々しさに、心温まる思いをしています。萌えだした柔らかく温かい若芽に押されて、私も静かに散っていきたいものです。 
 

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