ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

年賀状に寄せて

2009年12月18日 | 随筆・短歌
 今年も年賀状の季節になり、私も先日書き上げてあった賀状を今日投函しました。私の賀状は、毎年同じく、「迎春」と大きく書き、その下に極小さく「本年もよろしくお願い申し上げます」というゴム印を押して、自分の住所氏名もゴム印です。けれども空いたところに手書きで一人一人心を込めてこまごまと書くことにしています。
 パソコンで書いた賀状をプリンターで印刷して、プリンターを一台壊してから、ずっとこのスタイルです。毎年工夫をこらした賀状を頂くと申し訳なく恥ずかしい気持ちになります。
 ところで毎年届く賀状の中で特に忘れられないものがあります。古い順に二枚上げると、その一枚目は、横浜市の或るホームから届くものです。私は卒後直ぐに実家へ帰らずに、そのまま東京の目黒区鷹番町というところに下宿して、勤め始めたのですが、そこの下宿の奥さまからのものです。奥さまはご両親と一緒に自分の5歳になる男の子供を育てておられました。立派な洋間の応接間もある大きな家で、お父上は偉いお役人だった人でした。広いお屋敷でしたので、他にも大勢下宿していましたが、一部屋離れた所にいた私は他の人とは交流もありませんでしたが、そこの家の息子さんが可愛くて、とても仲良くしていました。一緒に動物園に二人で行ったりもしましたし、その子は私の睫毛が長いと言って、物差しを持ってきて、今日は少し伸びたかな、などと測ったりして、とても楽しく過ごしました。奥さまとの賀状交換は、五十年以上も続いています。電話で話すことはあっても、その後一度もお会いしたことはありません。目も良く見えなくなってきて、手紙などはホームの方に読んでもらっていると言われますが、ご自分の賀状は今も達筆です。90歳近くなられます。何時でしたか近影の写真を送って、と言って来られましたので、鎌倉の明月院で写したものをお送りしました。その方は、井の頭公園で写したものを送って下さいました。二人とも昔の面影があって、懐かしかったです。
 二枚目は、私の亡くなった娘が外語大の学生だった時に、下宿した家のおばさんからのものです。大学に合格してから、その日の内にアパートを探すのは容易なことではなく、結局女子学生会館 というマンシヨン風で、食事は食堂でも取れるし自室で作ることも出来るという所へ取りあえず入れました。ところが娘は、こういう贅沢はしたくないと言って、やがて自分で探して引っ越しました。そのお宅は奥様の一人暮らしで、お世話になる時と、その家を去る時と、お世話になっていた頃に娘が短期留学する前後に訪ねて、奥様にお会いしたのですが、とても温かくて上品で良い方でした。娘が亡くなってからも、毎年欠かさずに賀状を下さいます。内容には必ず娘との思い出のひとこまを書いて下さるのです。今も娘が生きているかと思わせられるほど、温かいもので、しみじみと有り難く頂いています。
 想い出話にお付き合いさせてしまったようですが、年に一度しかやり取りのない賀状であっても、差出人の個性があり、人格が偲ばれ、何年経っても懐かしく、お付き合いしていた日々が想い出されて、過去を想い出すよすがとして有り難いのが年賀状だと思います。
 私の母が私の息子に宛てた最後の賀状は、大小入り交じった震える文字で書かれた、「心を大きく持って頑張って」という意味の短歌一首でした。孫に送る精一杯の気持ちだったのでしょう。また義父のところへは、亡くなる前年まで元教え子という人の賀状が一枚届いていました。
 賀状は多ければ良いというものではありません。たった一枚でも心の籠もった温かい一枚が、相手の心を支えるものだと信じています。やがて私も歳をとって、次第に賀状も減っていくことでしょう。既に義理だけの交換は止めていますし、少しずつ減って、何時か書けなくなった時が最後だと思っています。私の賀状が少しでも励ましになり、また往時を偲ぶよすがに役立てば嬉しいと思っています。

  今日も来ぬ待ち人からのよき便り日が経つ毎に不安のきざし
                       (実名で某誌に掲載)

 
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