ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

有り難うのサイン

2009年06月14日 | 随筆・短歌
 私は車の運転が出来ませんので、夫の車に乗せて貰って出かけることが多いです。そんな時は何時も助手席に乗って、道路標識や、信号、左側の歩行者や自転車、右折して来る車などに注意しています。
 ところで狭い道路で対向車が来ると、夫は早めに道幅の広い場所で止まって待っています。そんな時軽く会釈したり、手を挙げて有り難うのサインをして行く人が少ないのが気になります。
 夫は対向車が停車してくれた場合必ず手を挙げて、有り難うのサインを出しますし、私も助手席で軽く会釈して、お礼の意を表します。お互い一寸した心遣いでとても気持ちよく、しかも安全にすれ違うことが出来ます。
 ところが何時でしたか、狭い路地で対向車があり、そのまますれ違えない道幅で、向こうから来た車の左前に空き地があったので、当然向こうの車が其処で自分の車を左に寄せて待っていて呉れると思っていました。ところが相手はピカピカとライトを点滅させて、来るなと合図するのです。こんなことに出会うのは初めてなので、夫もまごつきましたが、既にその道に入っているのですから、仕方なく徐行しつつ、私達の車の右側の空き地に寄せて対向車をやり過ごすしかありませんでした。
 これはとても危険なことです。対向車は右を通る筈なのに、左側を通って擦れ違うのですから。30代の男性と思しきその人は、平然と手を挙げるでもなく、夫の車の左をすり抜けて行きました。自分が通るから道を空けよと云わんばかりの態度に、この人はこの人間社会の中でどういう生き方をしているのだろうと心配に思うと同時に、このような運転ではきっと事故を起こす人だと直感しました。
 話は少し違いますが、自転車に乗っている人が最近はベルを鳴らさなくなったように思います。年を取ってくると、耳が聞こえにくくなって、後ろから自転車が来ていることに気が付かないことが多く、うっかり一歩横に寄ったら、追突されるところだったという場面が良くあります。 私達はウォーキングが日課ですから、一時間くらい歩いていますし、高校の近くに住んでいますので、自転車に追い越されることが多いのです。しかし、ベルを鳴らされたことは一度もありません。ベルはそこのけそこのけと云っている訳ではなく、安全の為に鳴らすように付いているのです。ベルを鳴らしたくなかったら、「済みません」と声でも掛けて貰えれば、気付いてしっかり道を譲ります。
 何時でしたか「ベルは絶対鳴らさないので、付ける必要がない」と新聞の投書に出ていて驚きました。理由は歩行者に失礼だから、というのです。でも果たしてそうでしょうか。 音も無く近づいて歩行者に怪我をさせることを考えたら、どんどん鳴らして、事故を防ごうとする方がむしろ親切ではないでしょうか。凄いスピードで横をすり抜けられると、身が縮む思いをします。
 この広い世界の中で、たまたまこの日本という国に住んで、同じ時代を生きている事は、本当に奇跡に近く、しかも擦れ違うとはこれも縁あってのこと。お互い気持ちよく譲り合って、事故のないように、そして有り難うの感謝の心を持って擦れ違えば、その日はきっとお互いに爽やかな一日となることでしょう。

 近付かんとすれども及ばぬ思いあり遠き信号赤に変われり
 渋滞にそれぞれの時間乗せたまま共有したる空白の時
      (全て実名で某誌に掲載)
 

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仁左衛門の擂り粉木

2009年06月11日 | 随筆・短歌
 夫の生家は仁左衛門という屋号を持っています。今は我が家の関係の人しか知りません。擂り粉木はご存じだと思いますが、すり鉢にゴマなど摺る時に使うものですが、我が家に引き継がれているのは、大昔から家に伝わってきた榧(かや)で出来ています。榧はとても固くて、手頃な太さの榧を山で探すのは、中々難しい事だと聞いています。
 先祖代々が使って、恐らく今は初めの頃の半分位の長さになっていいると思います。この家が建って、義父母が引っ越してきた時に、引き払った田舎の家から持って来たものです。きっと義母もそのまた義母もずっとさかのぼって、代々の女達の手で使われて来たものでしょう。
 私もこの榧の擂り粉木が大好きで、良く胡麻和えや白和え胡麻のおはぎなどをを作るのに使います。何だか祖先が喜んでくれているようで 、とても気に入っています。
 嫁から嫁へと引き継がれてきた、きっと嫁の誇りの調理器具だったと思います。それが今私の手元で活躍していると思うと、何とも言えない嬉しさと力強さを覚えます。
 義母は昔の人らしく、お裁縫も良く出来たし、編み物が好きで私達の子供のセーターなどはみな義母のお手製です。私も肩掛けなど編んで貰いました。手編みは機械で編んだものより、手触りも温かさも格別に感じられます。まさに愛情を編み込んでいるからだと思えます。冬の夜など義母の編んだ毛糸の肩掛けは、何とも言えぬ温かさで私を包んでくれました。仕事を持ち帰ってする事も多く、夜中まで掛かることが度々でしたから、それはそれは重宝しました。
 私は編み物のような辛苦な仕事は苦手ですが、子供服は沢山作りました。娘が勤めるようになっても、娘の希望で型紙を作り、スカートやワンピースなどを作って送ってやりました。買えばもっと素敵な洋服も買えたでしょうに、そう思うといじらしくも思えます。
 石垣りんの「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」という詩をご存じでしょうか。次に少し抜粋させて下さい。

 それはながい間  私達女の前にいつも置かれてあったもの
 (中略)
 劫初からうけつがれた火のほてりの前には  
 母や祖母やまたその母たちがいつも居た
 その人たちはどれほどの愛や誠実の分量を  
 これらの器物にそそぎ入れたことだろう
 (中略)
 台所では  何時も正確に朝昼晩への用意がなされ 
 用意のまえにはいつも幾たりかの
 あたたかい膝や手が並んでいた。
 ああその並ぶべきいくたりかの人がなくて
 どうして女がいそいそと炊事など繰り返せたろう?
 (中略)
 私たちの前にあるものは  鍋とお釜と燃える火と 
 それらのなつかしい器物の前で
 お芋や肉を料理するように  深い思いをこめて 
 政治や経済や文学も勉強しよう
 それはおごりや栄達のためでなく 
 全部が  人間のために供せられるように
 全部が愛情の対象であって励むように
 
なんと素晴らしい詩だろうと読む度に感動します。
 たった一本の炊事用の器具、その中に女達の家族を愛する温かい心情が脈々と引き継がれて行くことのすばらしさ、そして希望、そんなものを私も引き継ぎそして又次に送って行きたいものです。

 仁左衛門と屋号刻みし擂り粉木は嫁のわたしの手に馴染みたり
 器にも魂あらむとささやかな魚菜を盛りて夕餉ととのふ
                 (全て実名で某誌に掲載)

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人間だもの

2009年06月08日 | 随筆・短歌
 「つまづいたって いいじゃないか にんげんだもの」これは皆さんも良くご存じの 相田みつをの本にある言葉です。私の手元に1997年発刊の一冊があります。今は閉店した近くの本屋さんで手に入れたものです。
 「にんげんだもの」と云う言葉が好きで、更にその筆跡のかもしだす、何とも云えない優しさ、素朴さ、正直さ、そういった感じが好きで、求めて来て以来時々出して読んでいます。そしてその度に安心するのです。
 私は自分を、とても生きるのが下手な人間だと思っています。あれこれと気を遣って疲れたり、腹を立てて怒ってから悔やんだり、後ろばかり振り返って後悔する事が多いのです。後悔とは済んでしまった事を悔いる事ですから、極めて非生産的な行為です。そして嘆いたり悲嘆にくれる事になります。
 私は夫と毎日一時間程のウオーキングをするのが日課で、雨でも雪でも歩きます。私がうつ状態の時に、無理矢理夫がウォーキングに引っ張り出して呉れて、それが立ち直りのきっかけになった事は先に書きましたが、歩きながら私は先立った娘や義父母に充分な事をしてやれなかった事などを思い出して、度々後悔を口にしていました。そんな私に夫は、精神科医の神谷恵美子がその著書「こころの旅」に、「過去を切り捨てられないことの不決断こそ人生後半を悔いの多い、ぐちの多いものにしてしまう恐れがある」と書いているが、そう後ろばかり向いて生きていては、悲惨な老後を過ごす事になる、とさんざん注意しました。
 何時もその通りだな、と思うのですが、翌日にはもう後悔や愚痴を口にして歩いているのです。何ともどうしようもない人間でした。
 鬱が去った今ではそのような事は少なくなりましたが、気が弱くて、神経質なのは生まれつきですので、なかなか開き直るという事が出来ないのは今も同じです。
 やがて元々好奇心が人一倍強かった私が、夫に勧められたり、息子に励まされたりして、短歌を詠む、クラシック音楽を聞く、随筆を書く、通信講座を学ぶなど、そしてフィットネスクラブに通うようになって、ついにこのようなブログまで手を伸ばすようになりました。
 どれも半人前なのですが、とても楽しくて、つい夢中になりすぎてしまいます。今日実行したい仕事をメモにして、終わると消していくのですが、毎日のように残ってしまって、なかなか予定通り完了しません。それでも「にんげんだもの、いいじゃないの」と思って、自分を許せるようになりました。
 「うばい合えば足らぬ わけ合えばあまる うばい合えば憎しみ わけ合えば安らぎ」
これも相田みつをのことばです。今の世の中は、お金を多く稼ぐ人が勝者だと信じる人が多くなって、その為には奪うことに心が走り、与えたり分け合ったりすることは、価値観に逆行する行為だと思っている人がとても多いように思います。かつて貧しかった時代に、私達は分け合って暮らして来ましたし、自分がひもじくとも、もっとひもじい人に分ける優しさを持っていました。その心は何処へ行ってしまったのでしょう。私ももっと優しい人間であるように努力したいと思っていますが、今一番人間を愛する優しさが欲しいのは、政治家であり、官僚の皆さんだと思っています。彼等がもう少しでいいから、優しくなってくれたら、この国はどれ程生きやすくなることでしょうか。相田みつをの本を開いて、今日もまたそんなことを感じています。

  振り向いてばかりの自分が情けなく玉葱刻むみじんに刻む
  あるがままそのままがいいと君はいふ鬱を抱へし我に優しく
  めぐりゆく日日は平穏に過ぎれども秘めたる悲しみ時折還る 
              (全て実名で某誌に掲載)




コメント (1)
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短歌との出会い

2009年06月05日 | 随筆・短歌
 私が短歌の道に入ったのは、本当にひょんなことからでした。鬱にかかって外出もあまりせず、閉じこもっていた私に、何気なく夫が「短歌でも詠んでみたら」と言うので、それもそうだと少し詠み始め、やがて偶然出したNHKの歌壇に選ばれて、教育テレビで私の作品が放送される事になりました。岡井隆先生の選で入選したので、是非番組を見るようにとNHKからも連絡を頂きましたので、当日はテレビの前に夫婦して座っていました。
 やがて番組が始まって、入選十首の発表があり、その中で秀作三首を選ぶ事になりました。まさかと思っていましたら、何と第二席に入賞したのでした。その瞬間から急に心臓がバクバクしてきて、体調が悪くなってきましたので、慌てて夫も私も床に入って寝てしまいました。何ともぶざまな話ですが、思っても見ない事が突然起きると、それがたとえ目出度い事であっても、半病人のように成ってしまうということを初めて経験しました。
 それが契機になって、以来ずっと詠み続け、いろいろな雑誌や新聞に投稿し、掲載して頂くようになって今日に至っています。何が契機になるのか、私の何処にそんな素質が潜んでいたのか、全く気が付きませんでしたし、退職後にこのような生活が待っていたとは本当に不思議です。今こうして、ブログを書いていることもその一つです。
 先祖に俳句を好んだ人が居て、実家の庭に私の背丈より高い、芭蕉の句碑があります。裏にその人の辞世の句が彫られています。遠い昔からそんな遺伝子が受け継がれていたのでしょうか。
 10年以上前になりますが、松山に行った時に、子規記念館に立ち寄った事がありました。とても立派な記念館で、松山の人達が如何に子規を誇りに思っているか良く伝わって来ました。
 その後子規100年祭に子規顕彰全国短歌大会がありましたが、たまたま出品していた私が、入選となりました。その春に四国遍路に行っていましたので、とても遠いし出席を遠慮させて頂きましたら、後で立派な賞状が送られてきて恐縮しました。子規は今でもなお短歌の師として生きていると思った事でした
 歌人の記念館と言えば、私が一番好きな啄木の記念館を、岩手県の盛岡市渋民に訪ねた事、山形県の上山に斎藤茂吉記念館を訪ねた事が思い出されます。洋風な白い啄木記念館には、裏手に渋民尋常高等小学校と、斉藤家が移築されていました。校舎の片隅の古いオルガンが当時を懐かしく偲ばせてくれました。 
 茂吉記念館へ行ったのは、燃える様な紅葉の美しい季節でしたが、静かな館内には、茂吉の愛用の品々や、作品が並べられていて、現代の歌人の短歌も並べられていました。
 茂吉を慕う歌人の多い事を思いながら「自然道」と大書されている記念館を後にしました。
  
  静寂の中に「自然道」と書きてあり鈍き光さす茂吉記念館
  歌人(うたびと)の色紙並みいて立ち上がる心模様が透けゆく秋日
  厳しかる冬の陸奥思ほへば逆白波(さかしらなみ)が目に浮かびくる
                    (全て某誌に実名で掲載)
 

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素晴らしい仏像に出会う喜び

2009年06月02日 | 随筆・短歌
 仏教を信じている多くの人は、多分好きな仏像を、それぞれ心に秘めて居られのではないかと思っています。私も沢山の仏像を訪ねて旅を重ね、多くの仏像に出会いました。
 そして、今一番好きな仏像は、と聞かれたならば、迷わず中宮寺の弥勒菩薩と答えます。
最初に出会ったのは高校の修学旅行の時でした。以来奈良へ行き、法隆寺へ行く度に、必ず中宮寺へ回ってお会いしてきます。時間が許す日は、長い時間を魅入られたように、無言で御前に座っています。
 微かに微笑みをたたえ、スラリとした指を頬に当てるしぐさと、深い思惟の中に身を置いておられる姿に何ともいえない慈悲と愛と美を感じます。
 多くの人の中には京都の広隆寺の弥勒菩薩の方を好む人もいるようですが、何度見比べても私は中宮寺の弥勒菩薩により惹かれます。
 勿論興福寺の阿修羅像とか法隆寺の百済観音とか、東大寺の戒壇院の四天王とか、浄瑠璃寺のお堂全体がお仏壇になっている九体の釈迦如来とか、様々な仏像にも心を引かれますが、この仏像からは、何とも言い表しようのない心の安らぎを感じるのです。
 御仏はその美しさだけではなく、中から湧き上がってくる優しさや慈悲や思慮深さが、眺める度に私の心を揺さぶって、伝わってくる何とも言えない手応えがとても堪らないのです。何時まで眺めていても飽きない何かがあり、何時も満たされた心で帰ってきます。
 次は何時お会い出来るだろうか、といった期待に胸を膨らませながら名残惜しい心を抱いて、振り返り振り返り中宮時を後にします。
 東大寺の三月堂の御仏群もどれもどれも素晴らしいと思いますし、東寺の曼荼羅の仏像群、新薬師寺の十二神將など、何度見てもそのたびに感動します。
 清涼寺の阿弥陀如来は毎月8日の11時ころに拝観出来ると伺って、時刻を計って出かけました。美しい襞のお衣を召しておられ、とても整ったお姿で、渡来仏といわれていますが、宝物殿で布で作られた内蔵を見た時は本当に驚きました。
 とても古い仏像なのに、既に五臓六腑が解っていた事と、更にそれを布で作って、仏像の中に入れてあったという事に感嘆したのです。仏様が人間と同じ内蔵を持っていらっしゃるとする発想は、いにしえの人々は仏様を今よりずっと身近な存在と考えていたのでしょうか。 
 毎年春の旅や、四国遍路の帰り道などに、必ず奈良や京都に寄りましたから、もうどれ程お寺を巡り、仏像を拝んで来たか解りません。お寺を巡っていますと、偶然「祖師の250年忌」とかに出会うことがあります。永平寺でも、鎌倉の円覚時でもその機会に恵まれました。壮大な法要には、それはそれは感動したものです。大勢の僧による読経は全山を揺るがして、その地の底から湧き上がってくるような迫力には、震える程の感動を受けます。そんな滅多にない出来事にめぐり逢えるのも、御仏のお計らいだと、いつもそう思わずにはいられません。たまにお寺ではなく、国立博物館などで、素晴らしい御仏にお会いする事もありますが、ついお賽銭を差し上げたくなったり、眺めて鑑賞するだけでなく、可笑しいようですが、気が付けば私達二人共いつの間にか手を合わせてお参りしています。
 「お会い出来て、嬉しゅうございます。お守り下さいまして、有り難うございます。」と何時も心の中でお礼を言って来ます。その感動は感謝以外の何物でもないからです。

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