仏教を信じている多くの人は、多分好きな仏像を、それぞれ心に秘めて居られのではないかと思っています。私も沢山の仏像を訪ねて旅を重ね、多くの仏像に出会いました。
そして、今一番好きな仏像は、と聞かれたならば、迷わず中宮寺の弥勒菩薩と答えます。
最初に出会ったのは高校の修学旅行の時でした。以来奈良へ行き、法隆寺へ行く度に、必ず中宮寺へ回ってお会いしてきます。時間が許す日は、長い時間を魅入られたように、無言で御前に座っています。
微かに微笑みをたたえ、スラリとした指を頬に当てるしぐさと、深い思惟の中に身を置いておられる姿に何ともいえない慈悲と愛と美を感じます。
多くの人の中には京都の広隆寺の弥勒菩薩の方を好む人もいるようですが、何度見比べても私は中宮寺の弥勒菩薩により惹かれます。
勿論興福寺の阿修羅像とか法隆寺の百済観音とか、東大寺の戒壇院の四天王とか、浄瑠璃寺のお堂全体がお仏壇になっている九体の釈迦如来とか、様々な仏像にも心を引かれますが、この仏像からは、何とも言い表しようのない心の安らぎを感じるのです。
御仏はその美しさだけではなく、中から湧き上がってくる優しさや慈悲や思慮深さが、眺める度に私の心を揺さぶって、伝わってくる何とも言えない手応えがとても堪らないのです。何時まで眺めていても飽きない何かがあり、何時も満たされた心で帰ってきます。
次は何時お会い出来るだろうか、といった期待に胸を膨らませながら名残惜しい心を抱いて、振り返り振り返り中宮時を後にします。
東大寺の三月堂の御仏群もどれもどれも素晴らしいと思いますし、東寺の曼荼羅の仏像群、新薬師寺の十二神將など、何度見てもそのたびに感動します。
清涼寺の阿弥陀如来は毎月8日の11時ころに拝観出来ると伺って、時刻を計って出かけました。美しい襞のお衣を召しておられ、とても整ったお姿で、渡来仏といわれていますが、宝物殿で布で作られた内蔵を見た時は本当に驚きました。
とても古い仏像なのに、既に五臓六腑が解っていた事と、更にそれを布で作って、仏像の中に入れてあったという事に感嘆したのです。仏様が人間と同じ内蔵を持っていらっしゃるとする発想は、いにしえの人々は仏様を今よりずっと身近な存在と考えていたのでしょうか。
毎年春の旅や、四国遍路の帰り道などに、必ず奈良や京都に寄りましたから、もうどれ程お寺を巡り、仏像を拝んで来たか解りません。お寺を巡っていますと、偶然「祖師の250年忌」とかに出会うことがあります。永平寺でも、鎌倉の円覚時でもその機会に恵まれました。壮大な法要には、それはそれは感動したものです。大勢の僧による読経は全山を揺るがして、その地の底から湧き上がってくるような迫力には、震える程の感動を受けます。そんな滅多にない出来事にめぐり逢えるのも、御仏のお計らいだと、いつもそう思わずにはいられません。たまにお寺ではなく、国立博物館などで、素晴らしい御仏にお会いする事もありますが、ついお賽銭を差し上げたくなったり、眺めて鑑賞するだけでなく、可笑しいようですが、気が付けば私達二人共いつの間にか手を合わせてお参りしています。
「お会い出来て、嬉しゅうございます。お守り下さいまして、有り難うございます。」と何時も心の中でお礼を言って来ます。その感動は感謝以外の何物でもないからです。
そして、今一番好きな仏像は、と聞かれたならば、迷わず中宮寺の弥勒菩薩と答えます。
最初に出会ったのは高校の修学旅行の時でした。以来奈良へ行き、法隆寺へ行く度に、必ず中宮寺へ回ってお会いしてきます。時間が許す日は、長い時間を魅入られたように、無言で御前に座っています。
微かに微笑みをたたえ、スラリとした指を頬に当てるしぐさと、深い思惟の中に身を置いておられる姿に何ともいえない慈悲と愛と美を感じます。
多くの人の中には京都の広隆寺の弥勒菩薩の方を好む人もいるようですが、何度見比べても私は中宮寺の弥勒菩薩により惹かれます。
勿論興福寺の阿修羅像とか法隆寺の百済観音とか、東大寺の戒壇院の四天王とか、浄瑠璃寺のお堂全体がお仏壇になっている九体の釈迦如来とか、様々な仏像にも心を引かれますが、この仏像からは、何とも言い表しようのない心の安らぎを感じるのです。
御仏はその美しさだけではなく、中から湧き上がってくる優しさや慈悲や思慮深さが、眺める度に私の心を揺さぶって、伝わってくる何とも言えない手応えがとても堪らないのです。何時まで眺めていても飽きない何かがあり、何時も満たされた心で帰ってきます。
次は何時お会い出来るだろうか、といった期待に胸を膨らませながら名残惜しい心を抱いて、振り返り振り返り中宮時を後にします。
東大寺の三月堂の御仏群もどれもどれも素晴らしいと思いますし、東寺の曼荼羅の仏像群、新薬師寺の十二神將など、何度見てもそのたびに感動します。
清涼寺の阿弥陀如来は毎月8日の11時ころに拝観出来ると伺って、時刻を計って出かけました。美しい襞のお衣を召しておられ、とても整ったお姿で、渡来仏といわれていますが、宝物殿で布で作られた内蔵を見た時は本当に驚きました。
とても古い仏像なのに、既に五臓六腑が解っていた事と、更にそれを布で作って、仏像の中に入れてあったという事に感嘆したのです。仏様が人間と同じ内蔵を持っていらっしゃるとする発想は、いにしえの人々は仏様を今よりずっと身近な存在と考えていたのでしょうか。
毎年春の旅や、四国遍路の帰り道などに、必ず奈良や京都に寄りましたから、もうどれ程お寺を巡り、仏像を拝んで来たか解りません。お寺を巡っていますと、偶然「祖師の250年忌」とかに出会うことがあります。永平寺でも、鎌倉の円覚時でもその機会に恵まれました。壮大な法要には、それはそれは感動したものです。大勢の僧による読経は全山を揺るがして、その地の底から湧き上がってくるような迫力には、震える程の感動を受けます。そんな滅多にない出来事にめぐり逢えるのも、御仏のお計らいだと、いつもそう思わずにはいられません。たまにお寺ではなく、国立博物館などで、素晴らしい御仏にお会いする事もありますが、ついお賽銭を差し上げたくなったり、眺めて鑑賞するだけでなく、可笑しいようですが、気が付けば私達二人共いつの間にか手を合わせてお参りしています。
「お会い出来て、嬉しゅうございます。お守り下さいまして、有り難うございます。」と何時も心の中でお礼を言って来ます。その感動は感謝以外の何物でもないからです。