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ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

猫の涙

2009年03月09日 | 日記
 近くに一人暮らしをしている友達がいます。今朝会いましたら、長年可愛がって育てていた猫が亡くなったというのです。遠くに住む娘さんが、たまたま昨日帰って来た時は、もうすっかり動けなくなっていたのに、弱々しく尻尾を振り、ゴロゴロと喉を微かに鳴らして、力の限り歓迎をしたといいます。
 帰る娘さんを送り出して戻ってみると、何と猫が涙を流していたというです。「猫の涙を初めて見た」と友達はいい、今朝自分の手の中で静かに旅だった、と涙ながらに話してくれました。長い間共に暮らすと、猫も人間も別れの辛さは同じです。
 私には生涯を独身で過ごし、独り残った母と最後まで一緒に暮らして、それはそれは良く面倒を見た弟がいます。離れて暮らす私が、時折母の所へ様子を見に行くと、母は昼食に弟が出勤前に作り置いたお弁当を食べていました。そのお弁当は実に細やかな愛情に満ちていて、歯の無い老人にも食べやすい様に柔らかく、栄養が整っていて色合いも工夫され、男の人が作ったお弁当とは、とても思えない見事なものでした。こんなに細やかな心遣いが果たして私にも出来るだろうか、と考えさせられたものです。 
 母の面倒を見る事を生き甲斐のようにして過ごした弟だったせいか、母が亡くなって間もない或る夜、泣きながら電話を掛けて来ました。「もっと良く母の面倒を見てやれば良かった」という後悔が湧いてきて堪らないというのです。義父母を見送った経験があり、どんなに心を尽くして看病しても、亡くなられると必ず「もっとこうして上げていれば」という後悔に苛まれる事を良く知っていた私は「どんなに完璧に看病しても生じる後悔だ」と慰め、母が生きていた頃「私は日本一幸せ者だ」と口癖のように云っていた事を伝えました。母は弟には、面と向かってそんな事は言わなかったのでしょう。私の言葉に驚いた様子でしたが、暫く涙を流した後電話は切れました。でも共に暮らしてきた人が居なくなってみると、淋しさはつい後悔を呼ぶらしく、何日も何日も夜になると泣きながらの電話が来ました。感謝の涙、優しさの涙はみな美しい、と思った朝でした。

父の手紙

2009年03月08日 | 日記
昨夜はWBCの対韓国戦を見ながら、手紙を三通書きました。時折夫の解説入りでしたが、14対2の大差で、コールドゲームの試合を最後まで見ました。手紙を書きながら、ふと父がとても筆まめで、良く手紙をくれた事を思い出しました。
 学生時代に家を離れて以来、受け取った手紙は、百通に近くなるでしょうか。文字の上手い父の手紙は、さりげない言葉の端はしに、何時も温かい愛情が伝わってきて、受け取る度に嬉しいものでした。父が年老いて、もう何年も生きていないのではないか、と思った頃から、私は将来読み返す事を考えて、父の手紙を残しておこうと思い立ちました。
 以来私の手元に十数通の手紙が残りました。内容はその時々で葉書であったり、長い手紙であったりですが、例えば母と二人で私の嫁ぎ先へ来てくれた日の帰り道は、月が煌々と輝き心地よい春風の中を、駅から家迄歩いて帰ったとか、共働きで子供を育てながら親にも仕え、偉いものだと母さんと話し合っている、とか云ったような内容が、淡々と綴られているのです。
 父が亡くなって三十数年が経ちましたが、今でも時折取り出して、父の文字や温かい心に触れると、その時々の思いが鮮明に蘇り感慨深いものがあります。父の年齢にはまだ及びませんが、家族への愛情という面でも、私は父に遠く及ばなかったと思いながら手紙を書きました。せめて真心を込めて書いた積もりです。


幼い目と心

2009年03月06日 | 随筆・短歌
 私が4歳の頃、転勤族だった父と家族はA市に住んでいました。お向かいには警察官のご両親と順子さん、隣に1歳年上の道子さんが住んでいました。お隣へは良く遊びに行き、近所の友達と鬼ごっこやかくれんぼをしました。
 ある日お隣に遊びに行った私は、かくれんぼで押し入れに隠れました。道子さんには直ぐに見つけられてしまいました。道子さんは私にミカンを一つ手渡して、食べなさいと云い、食べ終わると次に皮を食べる様に少し怖い顔で云いました。ミカンの皮など食べた事のない私は、道子さんの顔を覗って「これは食べなければならない」と判断して少し囓りました。苦い味がして顔をしかめながら飲み込んだた私に、道子さんは「あんた、明日までに死ぬぞ」と云ったのです。「えっ、どうして?」と聞いたら、「だって、そのミカンの皮を食べたでしょ」と云うのです。心臓が止まる程驚いた私は、飛ぶようにして家に帰り、母を捜しました。
 母は廊下で弟を抱いて、新聞を読んでいました。「ミカンの皮を食べると死ぬの?」と聞くと、母は新聞を膝に下ろして、にっこりと微笑み「死なないよ、ミカンの皮を食べたって」といったので、気持ちが動転するほど心配して帰ってきた私は、思わずらっくりして、涙が少し滲んだ程です。あの時の母の優しくて温かい顔は、今も鮮明に覚えています。
 しかし、心の何処かに道子さんの言葉が引っかかっていて、もし死んだらどうしよう、とか人は死んだらどうなるのかな、等と考えましたが分かる筈もなく、その日はそれで寝てしまいました。翌朝早めに目覚めた私は、直ぐに自分が死んでいるかどうか、確かめました。目は見えるし、両腕にさわってみましたら、確かに腕もありました。ナーンダ矢っ張り死なないんだ、とホットしました。
 その出来事は、A市を引っ越ししてからも、ずっと心に残っていて、他愛もない子供のいたずらを本気にしていた私の幼さを、今でも時折思い出し、幼かった自分が何だか愛しい感じになるのです。私達が引っ越した後で、A市にアメリカ軍の爆撃機がやって来て、空襲がありました。A市の被害は甚大でした。
 成人してから父の計らいで、あの頃の友達に、昔住んでいた家を案内して貰いました。昔の家は陰も形もなく、順子さんの家も道子さんの家も無くなっていました。順子さんが、負んぶされて逃げる時に焼夷弾で 亡くなられたと聞いた時は、戦争がとても身近に感じられて、そのむごさに身震いし、順子さんを悼みました。 家から左に三軒程離れた所に、子供一人では横切るのが恐ろしい程の、砂利道の大通りが交差して通っていた筈だと思って聞きましたら、「これです」といって指さされた道は、何と一車線ほどの幅の道なのです。「えっ、これですか」と思わず確かめましたが、子供と大人の尺度の違いに気付いて、思わず笑ってしまいました。
 幼児の見ること、聞くことはみな幼児の感じたまま心に残り、何時までも新鮮に思い出されることに、心が洗われる思いがするのは、私だけでしょうか。

もう一つの平等

2009年03月05日 | 日記
 いよいよ2兆円の血税を使って、定額給付金が支給される事に決定しました。全国民に平等に支給するから、閣僚のような高額所得者にも等しく配るという事ですが、これを国家の政策として、平等と考えていいのでしょうか。
 ある時、あまり裕福とは思えない老婦人が、「私はなんとか暮らしていけるから恵まれない人にあげて欲しい」と云っておられ、その温かさに心を打たれました。
 政府は当初の趣旨を変更して、「景気浮揚のために使うのだから、所得に関係なくもらって使えばよい」と云い出し、「さもしい」と云った人も「使って国策に寄与する」と云っていますが、税金をもらって使う事は、矢張り利益を享受する事に変わりはありません。血税は国民が等しく人間らしい暮らしが出来る為に使われてこそ役立つのであって、富める人は受け取らず、大いに消費していただくのが、本当の意味で平等とは云えないでしょうか。
 富める人はせめて給付金の何倍も消費して、日本経済の浮揚に寄与して頂けるように、ばあさまからのお願いです。

子供の存在

2009年03月04日 | 日記
 昨日テレビで映画「クレーマー・クレーマー」を見ました。実は三回目だったのですが、もう一度見たくなって、歳のせいもありましょうが、最後は涙をポロポロ零しながら見ました。
 父親と子供の深いつながりに心を打たれたり、最後に母親がもう一度家庭を築き上げる努力をしてくれたら、と残念に思ったりしました。
 長い人生の中では、色んな出来事が起こり、道は真っ直ぐではありません。しかし家庭は、夫婦がお互いに短所をカバーしあって築き上げるものであって、ましてや子供のいる家庭では、子供も一人の人間として尊重されなければなりません。
 最近は直ぐに離婚する傾向にあって、そのため傷つく子供が増えている事が気がかりです。子供の立場に立って、もう少し温かくしっかりした家庭を築く努力は出来ないものでしょうか。安易な離婚によって、取り残された子供の心について、もっとしっかり考えて頂きたい、と切に感じるこの頃です。