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ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

歌に涙する

2009年03月16日 | 随筆・短歌
 私達夫婦は「さだ まさし」のファンです。特に古い歌の方が好きですが、コンサートには揃って可成り通い詰めました。住んでいる市に来た時は必ず行きました。電車で2~3時間だと、夜のコンサートに一泊で出かけました。
 何度も「秋桜」を聞いては涙し、「空蝉(うつせみ)」を聞いては泣いたものです。「償い」や、「案山子(かかし)」、「銀杏散り止まず」、「鳥辺山心中」、「遍路」なども好きな曲です。
 私くらいの歳になりますと、親が子を思う心、子が親を思う心に感激することが多くなって、よく涙を流します。子供達が成人して遠くに住むようになって、尚更涙もろくなりました。
 さだまさしは人の心を巧みに掴んで、実に上手く表現しています。或る有名な人が彼を「詩人」と評価していましたが、本当にその詩には心を打つものがあると思います。
 ある時、歌うことが好きな夫が、それまで全く親しみのなかったカラオケに行こうと云い出し、二人して下手な歌を歌いに出かけるようになりました。夫は娘を思って「秋桜」を真っ先に歌う事が多く、私は良く息子を思って「案山子」を歌いながら泣き、途中で度々歌えなくなりました。
 夫はそんな私を見るのが辛いのか、「泣けてきて歌えなくなるような歌は歌わない方がいいのじゃないか」といいましたが、矢っ張り離れて苦労しているかも知れない子供を思うと歌いたくなるし、また泣けてくるのです。
 約二時間歌って帰るのですが、歌う事はストレスを解消し、体力を使い、心身の健康には良いものだと思い、清々しい気持ちになって帰ってきました。涙を流すことも時として心を洗ってくれました。
 涙を流す歌、として今たびたび聞きたいのは、島津亜矢の「帰らんちゃよか」です。父親が離れて住む子を思って歌う詩ですが、しみじみと心を打つものがあり、なぜ彼女はもっとこの歌を歌ってくれないのか残念です。
 最近は 歌いに行かなくなって久しくなります。お互いが自分の趣味で忙しく、揃って歌いに行っている時間が無くなったことが一番の理由です。70歳を過ぎて、忙しい趣味を持つことができる事は喜ばしい事だと感謝しつつ、時には良い歌に感激して涙する事も、良いことなのではないかと思っています。

殉教の海碧くして

2009年03月15日 | 随筆・短歌
 旅行好きの私達夫婦は、毎年春には一週間余りの旅を計画します。去年は長崎の平戸島から 外海町(そとめちょう)にかけて、隠れキリシタンの殉教の地を巡りました。平戸島の根獅子ヶ浜では、70余名も処刑されたキリシタン信者の血で、碧い海が真っ赤に染まり、浜は遺体で埋まったと聞きました。棄教すれば死なずに済み、むごい拷問からも逃れられる事は分かっていても、信仰を棄てようとしなかった村人達の信仰の強さに、キリスト教信者ではない私も、心を打たれたのでした。
 近くに「おろくにん様の聖地」という森があって、入り口に「根獅子での切支丹弾圧は烈しく、昇天石がある砂浜では多数の信者が処刑された。これらの遺体をこの地に葬り聖地とし、今も信者は素足でお参りしている」と書かれていました。
 密告によって処刑された一家六人の悲劇も伝えられていて、やや明るい雑木林の中の小高くなっている場所には、沢山の遺体が埋められているということでした。 そこに続く小道があり、歩くと腐葉土の柔らかく湿った感触が足裏に伝わってきて、ここを素足で歩くという信者達の、殉教した祖先を敬う思いが伝わって来ました。誰一人居ない静謐な空間で、心が引き締まる思いを感じ、思わず祈らずには居られませんでした。
 隣の資料館には、マリア観音が幾体か展示してあり、必ずのように子供を抱いていました。一見すると観音様なのですが、中には後頭部に十字架が彫られていて、観音様のお顔を透かしてキリストを礼拝出来る仕組みになっているものもありました。
 納戸神として、納戸の奥深くに今日でもキリストが祭られ、隠れ切支丹の末裔達によって、守られていると聞きました。
 翌日は、夫が尊敬して止まない遠藤周作文学館へ行きました。長崎市の中心部から一時間ほど、途中でバスを乗り換えてやっとたどりついたのですが、外海町というその町も、また隠れ切支丹の里でありました。
 遠藤周作文学館には、あの有名な「沈黙」を中心とした展示場もあり、「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前達に踏まれるため、この世に生まれ、お前達の痛さを分かつため十字架を背負ったのだ」(「沈黙」より)というあの感動を思い出し、此処まで来て良かったとしみじみ思いました。
 文学館のテラスからは今まで見た事もないようなコバルトブルーの海が広がり、岡の上の「沈黙の碑」には、「人間がこんなに哀しいのに主よ、海があまりに碧いのです」と彫られていました。何年も前から是非訪ねたいと思いつつ、やっと望みを果たせ、感動の余り二人とも沈黙の碑の前に立って、言葉もなく碧緑の海を眺めていました。

   沈黙のイエス像に語りしロドリゴの哀しみせまる遠藤記念館
                     (実名で某紙に掲載)


四国巡礼の旅 1

2009年03月13日 | 随筆・短歌
三月も半ばになりましたが、これから先は遍路の月といわれるそうです。それだけ沢山の人々が遍路の旅に出かけるようです。
 もう十年ほど経ちましたが、嫁いで五年の娘が新築マンションを買って、一ヶ月後の入居を心待ちにしていたのに、病を得て突然亡くなってしまいました。三十三歳の若さでした。死に目にも会えず、余りに早すぎる死に茫然自失した私達は、それからというもの、長く苦しい日々を過ごしました。日々涙し、祈り、辛い思いをこらえるのに精一杯の月日でした。
 やがて少し元気になった年の五月、四国遍路の旅に出ようという事になりました。既に義父母も亡くなっていましたし、四国巡礼の旅は、少しは先だった人への供養になるかも知れないという思いもあり、毎朝仏壇の前で、般若心経を上げる事が日課になっていた私達には、四国遍路にはあこがれにも近いものがありました。
 菩提寺の住職さんが、輪袈裟を下さり、色々とアドバイスをして下さったので、初年度は第一番の霊山寺(りょうぜんじ)へ行き、白衣、納経帳、納め札等必要なものを其処で調えて、先ず一番札所のお参りから始めました。ご本尊へのお参り、大師堂へのお参り、納経帳の記帳、写真撮影、と順調に回る事が出来ました。
 四国遍路は祈りの旅でもあり、お大師さまの大きな心に包まれて一緒に歩く、という救いの旅でもありました。歩く度に腰に下げた鈴がチリンチリンと鳴って、一歩一歩踏み出す力を与えてくれました。
 多くの人は団体でバスを仕立てて回っていましたが、私達は大きなリュックを背負って、自分たちで立てた計画に従って、体力を考えながら時にはバスで移動して、主に歩いて回りました。一番から全部通して歩くことは、とても体力的に無理なので、離れた所は飛ばしながら、徳島から高知へ出ました。それが私たちの第一回目の四国遍路の旅でした。

  仏舎利を拾ふがごとく玉石を桂浜に拾ふ遍路となりて
  桂浜寄せ来る波の問ひかけに答への見えぬわが遍路みち
                   (二首共ある雑誌に実名で発表)

金沢に芭蕉の句碑を訪ねて

2009年03月12日 | 日記
今朝、本棚のアルバムを年代順に並べる仕事をしていた私は、ふと小さなアルバムの所で手が止まりました。
 夫の友人に生化学者だった人がいます。芭蕉が大好きで、自らも俳句をたしなむ、聡明で心温かな人です。大病を患って、旅行が出来なくなったその人が、ある時「金沢の芭蕉の句碑を訪ねたかった」とポロリとこぼしました。旅好きの私達夫婦は、金沢にそんなに芭蕉の足跡があるとは知りませんでしたし、早速インターネットで調べて、その人に代わって、一昨年秋に芭蕉の句碑を巡る旅に出かけました。
 先ず北國銀行の記念碑を探すことから始めました。「元禄二年初秋 蕉翁奥の細道途次遺跡」と石柱が立っていました。次に徒歩で、成学寺へ行きました。寺の庭には、肩の丈ほどの蕉翁墳に「あかあかと日はつれなくも秋の風」と刻まれていて、丁度秋の最中の午後だったので、金沢で詠んだという芭蕉の心が伝わる思いでした。
 そこから次は迷いに迷って本長寺にたどり着き、「春もややけしき調ふ月と梅」の句碑を見て、更に徒歩で願念寺へ行きました。芭蕉がその才能を最も注目していた俳人、小杉一笑が亡くなったのを「塚も動け我泣く声は秋の風」とその悲しみを詠んだ有名な句碑があります。塚も動け、という芭蕉の慟哭の思いが句碑の前に立つ私の胸を打ちました。
 隣に「一笑塚」と大きく彫られた塚があって、「心から雪うつくしや西の雲」との一笑の句が刻まれていました。境内には小杉家代々の墓もあって、寺の奥様が一笑も入っているのだと教えて下さいました。享年36歳の若すぎる死でした。
 そこから長久寺の「秋涼し手毎にむけや瓜茄子」の句や、兼六園の山崎山の「あかあかと日は難面(つれなく)も秋の風」と彫られている句碑を見ました。兼六園の句碑は傍らの説明文で、ようやく判読出来るほどに年経ていて、石碑の歴史を感じさせられました。
 全ての句碑を写真に撮り、時折は老夫婦がお互いに句碑に寄って立ち、それらの写真は夫の友人に送りました。夫の友人の零した一言から生まれた小旅行でありましたが、またとない良い旅になりました。句碑を巡るという経験は初めてでしたし、学生時代を過ごした街を訪ねる事が出来た夫には、本当に良い旅になり今でも大変感謝しています。 

母と短歌

2009年03月11日 | 随筆・短歌
 91歳で亡くなった母は、女学校時代に学んだ和歌を得意としていたようで、年老いて女学校時代の友達との手紙のやり取りには、必ずのように最後に和歌を一首添えていました。私の目の前で書いた手紙に、すらすらと一首添えるのを、私は不思議なものを見るように眺めていたものです。
 70歳を過ぎた頃から、友達は一人また一人と先だっていき、80歳過ぎた頃には、最も親しかった友達がたった一人になっていました。その一人が病気で倒れたと聞いた母は、直ぐにお見舞の葉書を出しました。長い手紙はもう書く元気もなく、心を込めた葉書の、お見舞と励ましの言葉と、最後に添えられた一首は今でも私の心に残っています。「これが最後かもしれない」とぽつりと言った母は、私に葉書を見せたのでした。
 予期した通りに、間もなくその友達は他界したのでした。親しくしていた人への手紙の交換には、何時もどちらからも短歌が添えられていたのは、明治生まれの人のたしなみだったのでしょうか。
 そういえば、母の我家への最後の手紙は、私の息子への年賀状であり、90歳近かった母の賀状には、葉書の面を一杯に使って、動きの悪い手で書いた様子がありありの、励ましの短歌が一首書いてあっただけでした。
 やがて母が亡くなり、共に暮らしていた弟も他界して、遺品の整理をしたいた別の弟から、母の眼鏡ケースが残っていて、開けてみたら中から短歌を書いて小さくたたんだ紙が出て出来た、といって「これは母の作品だろうか」と聞いて来ました。それは子供達に、感謝の心を書き残した短歌で、間違いなく母の短歌でした。何時書いたものか、もう先が長くないと思った頃に書いたものだと思われました。
 「今年一杯はもう生きられないと思う」と五月頃に私にぽつりといった母は、「遺言は書かないでいくから、頼んだよ」と云いました。母の心配の内容が充分解っていた私は「大丈夫心配しないで」と云い、母はにっこり嬉しそうに笑って頷いたのでした。その年の晩秋の頃に、母は逝きました。
 亡くなる三日前の日に、死が近づいている事にうすうす気づいていた私が病院へ訪ねた時は、「頼んだよ」と云い「分かった」と云う私の顔を、まじまじと眺め、とても嬉しそうににっこり笑って見せたのですが、夫と息子と私の三人で、見舞いに行った翌々日の日曜日には、もう口も利けない状態でした。私達の方へ、両手を差し伸べて、少し起きあがろうとしたのですが、そのまま又横になってしまいました。母が亡くなったと弟から電話があったのは、翌朝早くでした。
 その後いつの間にか短歌に親しむようになった私ですが、母を師として、短歌を詠む事が私の生き甲斐になっています。

ありがたう幸せだったと亡母(はは)の短歌(うた)眼鏡ケースにたたみてありぬ
                          本名で某紙に掲載