ばあさまの独り言

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小さな家の終戦記念日

2011年08月19日 | 随筆・短歌
 8月15日は終戦記念日でした。毎年この頃になると、幾つかの知られざる戦争秘話が明かされたり、現在生き残っている数少ない人々の、実戦の体験として、生の声をお聞きする番組がTVで放映されています。私達も毎年録画して、可成りの番組を観ています。
 今日はそれぞれの方達が経験されたであろう様々な体験を思いつつ、身近で経験した終戦の日と、その後について想い出してみようと思います。
 終戦の日は、日本中がとても良く晴れて、暑い日でした。「天皇陛下のお言葉が、ラヂオで放送されるから、拝聴するように」との知らせがあり、我が家もラヂオをつけました。ご近所の人も少し集まって来ましたので、居間の玄関側を全て開け放ち中央の柱の傍に、祖父がラヂオを外に向けて置きました。玄関側に集まって来た人達と部屋の中の私達家族が、緊張して耳を澄ませて待っていました。心配そうに「負けたのではないか」と囁く人もいて、不安だったことを記憶しています。
 玉音放送は、「耐え難きを絶え、忍び難きを忍び」と聞こえたように思いますが、雑音が激しくて良く聞こえず、内容を理解することは出来ませんでした。ですが、集まった人達も家族も一様に、「これで戦争は終わった」と言っているのを聞いて、「終わったのか」と子供心にも虚脱したような気持になったのを覚えています。
 私は「お坪」と呼ばれていた庭に、一人そっと出て、降りしきる蝉の声に、何となくもの悲しい思いが胸に込み上げてきたことが忘れられません。何時も終戦記念日というと、あの日の抜けるような青空と、降るような蝉時雨と、そしてあの玉音放送を想い出します。ひそひそと声を落として話す、大人達の不安そうな顔も忘れられません。
夫は樺太に居て終戦になりましたので、終戦はもっと厳しい状態でした。内地ほど暑くはなかったけれども、矢張り良いお天気だったようです。義姉は、女学校の寮に入っていましたが、全校生徒がグランドに集められて、一斉に在学証明書を手渡され、これを持って内地の女学校に編入させて貰うように言われた後、直ぐに解散して、お別れだったと聞きました。義母と義姉と夫の三人は、間もなく一人一個のリュックが許されて、内地に引き揚げることになりました。樺太から貨物船に乗り、真っ暗な船倉にじっと声も立てずに引き揚げてきたと言います。ソ連の潜水艦によって、何隻かの引き揚げ船が沈められていたのです。暗闇の中でお産が始まって、「お産婆さんかお医者さんが居ませんか」と船員が暗闇を尋ね回っていたそうですが、誰も声を上げる人も居らず、その後のことは知らないと、今でも辛そうに言います。
 青森から鈍行の汽車にぎゅうぎゅう詰めになって、丸一日もかかって引き揚げて来ました。夫たちは室内に入れず、やっと洗面所の近くに立つことができたそうです。すると或る兵隊さんが、ついと自分が腰を降ろしていた洗面台からおりて、小学生だった夫を洗面台に乗せて下さり助かったと云っています。「これからは君たちの時代だから、きっと頑張って立派な国を造って欲しい」と仰ったそうです。見ず知らずの方でしたが、夫は今もって、その言葉が忘れられず、自分は何ほどのことも出来なかったと悔やんでいます。
 親戚に軍医がいて、やがてマラリアに罹って帰って来ましたが、私の家族には戦争に行った人は居ませんでした。父は運良く、何時も爆撃から奇跡的に逃れて転勤になりました。 戦争が酷くなると、父は母や私達子供を祖父が居た実家に避難させ、単身赴任をしていましたが、幸運にも終戦の年の春に、実家の近くに転勤いたしました。その数ヶ月後、私達が住んでいた市は大空襲に遭って灰燼に帰してしまったのです。終戦後数年たってから、私は焼け野原になったその市の、私達の住んでいた家跡を尋ねて行きました。案内してくれた人の話では、ご近所の私の友達が殆ど亡くなってしまわれたとお聞きして、胸をえぐられるほど悲しい思いをしました。焼夷弾が雨あられと降ってきて、負ぶわれたまま亡くなった人、近くの川まで逃げたものの、そこで息絶えた人、生きて再び会えたのは、案内してくれたその友人ただ一人だけでした。
 もし私達がその市から終戦前に実家に引き揚げていなかったら、私は今ここにいません。また、父が終戦の4月に転勤になっていなかったら、矢張りどうなっていたかわかりません。人生がどこでどう繋がって生きたり、また死んだりするのか、そんなことを深く考えさせられました。
 樺太では、中学生以上の男性は抑留され、労働に従事させられましたので、義父が帰って来たのは、終戦の二年後でした。途中二回漁師の漁船をチャーターして脱出を計って失敗しました。二度目は北海道との中間点で漁船の舳先が割れて、海水が入ってきて沈没しそうになり、危うい所をソ連の監視船に拿捕されて、奇跡的に命が救われたことは以前書きました。義父は家族が無事に内地に帰れたか知らず、夫達も父親の生死は不明でした。 後に義母が繰り返し私に当時の話をしてくれたとき、引き揚げてから生き延びられたのは、義父の給料が引き揚げた家族に、直ぐに支給された為だということでした。
 終戦を挟んで、疎開もあり、夫は学校で引き揚げ者として虐められたといいます。「樺太来い」と言われては、もう一人の樺太からの引き揚げ者の人と、何時も休み時間に体育館で、手を組んで馬の役目をさせられて、上級生のボスを乗せてグルグル歩き回ったと言います。休み時間は教室にはいられない決まりで、それが辛かったようですが、陰湿ではなく皆カラッとしていて、同級生には虐められることもなく、小児結核で三年間学校を休んだりしていた夫は、大自然のきれいな空気と太陽に当たり、放課後はチヤンバラゴッコに明け暮れて、すっかり健康になったといいます。
 疎開者の虐めは私も目撃しており、「ガンジー」と呼ばれていた目鼻立ちの整った上級生の男子が、矢張り体育館で虐められていて、泣きながら相手につかみかかっていた様子を、痛々しく思って眺めていたものです。優秀な人物だったので、尚更虐められたのではないかと思っていました。後に、きっと立派な人物になられたことでしょう。そう思っています。沢山の人が転校してきて、やがて戦後に元の家に引き揚げて行きました。出会いと別れが繰り返され、そのまま居着いた人は無く、戦後の復興の日々が始まったのでした。 こうしてみると、恐らく日本のあちこちで様々なドラマがあり、戦後生まれの人も60歳を越え、もう第一線を退いています。66年は長くもあり、アッという間でもありました。戦没者は実に310万人を越えました。これだけの尊い命を犠牲にした太平洋戦争から、私達は何を学び、何を反省し、それを今日の社会にどう反映させているのでしょうか。そう思うと何か頼りなく後ろめたい気持に襲われます。亡くなられた方達のみ霊に報いる為にも、私達の国は、どういう国で有るべきか、この終戦記念日を毎年契機にして、問いかけ続けて行きたいと思います。これから先の66年に何があるのか解りませんが、私はもうこの世には居りません。しかし、戦争だけは再び繰り返してはいけないと、深く心に誓っています。
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