ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

古里の山河を想う

2012年06月02日 | 随筆・短歌
 父の勤めに従って、幾つかの町や市に住所を変えながら、最後は両親の実家へと住所を移した私にとって、古里と云えば当然両親の実家です。私が5歳を過ぎた春に、戦火を逃れるように単身赴任となる父を勤務地に残して実家へ戻ったのでした。実家は祖父と曾祖母が守っていました。
 実家の右手には田畑があり、その先が山、左手1.5キロほど先は海、小学校は徒歩3分、中学校は海の方向へ徒歩20分くらいでした。直ぐ裏に川があって、普段は川幅2メートルくらいで子供の足首か膝下位までの深さがあり、子供にも魚や蟹を捕ったりするのに相応しい川が流れていました。
 「故郷」という古い文部省唱歌に
兎追いし彼の山 小鮒釣りし彼の川
夢は今も巡りて 忘れ難き故郷
という今も愛唱されている有名な歌がありますが、まさにその通りの古里です。「おつぼ」と呼ばれていた庭には、昔の池が埋め立てられて、橋だった畳一枚くらいの大きな平たい石が残っていました。大牛が脚を曲げて座っているような大きな灯籠があって、木々が茂っていましたが、冬は時折夜中に兎が駆けるらしく、足跡が残っていたりしました。私達はその辺りでスキーを楽しみました。スカートをはいてスキーを楽しんでいる写真(祖父が趣味で撮っていました)が残っています。よその子供たちが身に付けていたもんぺも無く、ズボンも無く、雪だというのにスカートにストッキングだったのです。
 私は姉や妹達のように、手が器用ではなく、男の子の遊びが好きで、夏は良く家族が昼寝の時間に一人こっそりと川へカジカを釣りに出かけました。勿論自分で棒の先に糸と針を付けてミミズで釣るのです。カジカは愚かな魚ですから、直ぐに釣れました。 一度「はや」が釣れたことがあり、私は大喜びで持ち帰りましたら、母が「これは珍しい、おばあさんに食べて貰いましょう」と云って、塩焼きにして、曾祖母にあげました。余程私が恨めしそうな顔をしていたのでしょう。母が魚の骨を更に焼いて黒こげになった骨を「カルシウムがあるからね」と私に呉れました。何ともわびしい戦時中の想い出です。
 木登りも好きでした。秋には自分の家の甘柿の木に登り、好きなだけ柿を食べ、家にも袋に入れて持ち帰りました。大粒の栗の木が沢山ある林を持っていて、栗の実が落ちる頃になると、良く見張り番をさせられました。木に登って枝に腰を降ろしていると、大抵決まった人がこっそり拾いに来ました。「こらあー」と大声で怒鳴るのです。すると大人の人もすごすごと戻って行きました。
 風が吹いて栗の実が沢山落ちると、栗拾いという大変な仕事が兄弟順番に回って来ました。早朝に行かないと、みなよその人に拾われてしまうので、愚図愚図してはいられません。母に起こされて眠い眼をこすりながら、いやいや出かけたものです。拾ってきた栗は、みな子供たちのおやつになったり、甘露煮になりました。お正月まで保存して料理に使われました。
 母は八人の子供の為に実に上手く新聞紙の上に栗を広げて、過不足無く均等に分けてくれました。皆じっと見ていて、「私はこれで良いわ」等と云って、一番多そうなのを自分の前に持って来ました。大勢の兄弟ですから生存競争も激しいのです。でも母の分け方が上手くて、どれが多いのかは解らなかったのです。母は「家の子供たちは仲が良くて喧嘩をしない」などとよその人に云っていましたが、母にとっては自分が苦にならなかっただけで、子供たちは大いに喧嘩もし仲良くもし、男女入り交じって議論したりして、切磋琢磨して大人になっていったのです。
 しかし、八人もいた兄弟は皆成人してから、家を遠く離れてしまい、一人も家を継ぐ人がいなくなりました。父が逝き、母が逝き、古里はついに廃家となりました。その廃家も去年とうとう壊されることになって、ついに土蔵まで含めて、芭蕉の句碑をたった一つ残しただけで壊されました。
 廃家であっても家がある間は、年二回くらいはお墓参りに行きましたが、家が無くなってしまうと寂しくて、見に行くのも何となく辛く、心にある風景だけで良いという気もして来ます。
 私の息子は、古里と云えば私の実家を思うと言います。それは夏休みや冬休みなど、必ず私と一緒に実家へ行っていたからです。
 子供の頃は、息子のいとこ達も集まって、それぞれに浴衣を着て、盆提灯を下げてお墓参りに行ったりしました。家の前の広い道から、田んぼの間を縫うように細い小道があり、脇には小川が流れていました。その道がお墓に続く道だったので、一列に並んだいとこ同士の子供たちの盆提灯が、ゆらゆら揺れる様子は、絵に描いたような田舎のお盆の風景でした。
 捕虫網で、セミやオニヤンマを追いかけたり、夜間点っていた電柱に虫が集まり、早朝に行くとカブトムシを捕ることが出来ました。はや釣りもしました。息子は念願の一匹を釣り上げて、大いに喜んだのですが、汚れを落とそうとした夫が水で洗った時に逃げてしまい、可哀想な思いをさせたこともありました。
 以前書いたのですが、古里の我が家の墓石は、普通の墓石ではなく、変なごつごつした石が一つ載っていました。本家の我が家は大きく、隣の分家のは少し小さいですが、やはり似た形の石が載っています。「どうしてこのような自然石が墓石になっているのか」と子供の頃には恥ずかしい気持ちもありました。祖先が親鸞上人のお墓の石に似た石を、谷伝いに探させて載せたのだ、という話は聞いていたのですが、真偽の程は分かりませんでした。  ところがその後私達夫婦が、京都の大谷祖廟へ、親鸞上人のお墓にお参りに行って、初めてその話が真実だったことを知って驚いたのです。その頃の親鸞上人の墓石は真っ黒で、やや我が家の墓石より小ぶりでしたが、形が実に良く似ていたのです。その後10年程を経て、再び参詣した大谷祖廟は、黄金色の扉が付き、墓石も磨いたのか赤みを帯びて見え、初めの感動の時より似ているとは思えなくなりました。
 現在のお墓には、先祖代々約250年くらいの間に、亡くなった人の納骨がされているようです。近年菩提寺の過去帳から、弟が写して物故者名簿を作りましたが、何代か同じ名前が受け継がれていて、昔の「家」の存続に懸けられた情熱のようなものを感じています。跡取りである筈だった長兄は、原子物理学を専攻し、学生時代に可成り粗末な防護設備で実験していたのが原因らしく、60歳で急性骨髄性白血病で亡くなりました。若くて血気盛んな頃は、「こんなへんぴな田舎へは、戻って来ないよ」といっていたのですが、やがて55歳を過ぎた頃からは「退職したら古里に戻って、晴耕雨読の生活をしたい」と云うようになりました。その夢は叶わぬままになりましたが、誰しも歳を重ね、老いゆくに従って古里を恋うる心が強まっていくようです。
 今の私には、古里の風景を形作る山々も、手前の川のせせらぎも、世界中に此処にしかない風景として迫って来ます。たとえ家が消えても、万感胸に迫る思いで立ちつくすのが、古里の山河というものなのでしょう。啄木ならずとも「ありがたい」と思わず目頭が熱くなる思いがします。

 ふるさとの山に向かひて 言ふことなし
 ふるさとの山はありがたきかな (石川啄木)

 故郷(ふるさと)の廃家の庭に立待の月の昇るを見て帰り来ぬ

 幾つかの果たせぬ夢をまさぐればふる里はいつも優しかりけり

 ふる里の盆の慣はし笹寿司を今年も作る嫁して50年

 大家族の声は途絶えて古き佳き日本の家の朽ちゆくふる里

 山笑ふ戻れば古里廃墟にて (全て実名で某紙・誌に掲載)

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