ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

済んだことは済んだこと

2012年06月09日 | 随筆・短歌
 「覆水盆に還らず」という諺がありますが、ひとたび口から出てしまった言葉を、元のお盆に戻すことは不可能です。他人の心を傷つけまいと気をつけていても、知らず知らずに言い過ぎたり言い足りなかったりして、ふと気づくと「あの言葉は、もしかしたらあの人を傷つけたかも知れない」と気になることがあります。
 そんな後悔をしないで済むように、気を付けているつもりでも、私のように考えが浅いと、つい不注意な言葉が口を突いて出てしまい、後悔する羽目になります。
 「言葉を口に出す前に良く考えて言いなさい」と折々夫に注意されます。ところが性格的にそのような心のゆとりも無く、考える前に言葉を発する私は、往々にして「後悔先に立たず」となってしまいます。
 ご近所つき合いにしても、決して相手を不快な気持ちにさせないように気遣っている夫は、余程親しい間柄でないと、慎重に言葉を選んでいるようです。私は、いつでも誰にでも気軽に同じように話しかけて、相手の性格までは思いが至らず、「言い過ぎたかな」とか「言葉が不足していたのでは」と考え込むのです。私自身の自意識が強すぎて、自ら傷つくということもあるかも知れません。
 そういう心遣いで話している夫は、常に自分の話したことは正しいと信じていて、人間関係で余り後悔しません。私はその反対に後悔ばかりする方です。 
 夫はそのような私の生き方に対して「過去を切り捨てられないことからの不決断こそ、人生後半を悔いの多い、愚痴の多いものにしてしまう」と書いておられた精神科医の神谷美恵子さんの言葉をひいては、「終わってしまったことにいつまでも拘らないように。そうでないと高齢になるほど悲惨な人生になる」といいます。確かにそれは良く解るのですが、なかなか思うようにはいきません。だからと言ってこれで良いと言ってはいられないので、どのようにして克服するかと、折々考えるのです。
 私は先ず「済んだことは済んだこと」として、考えないようにすることに努力し始めました。そして、自分に悪意が無かったことを確かめ、不出来な自分を「仕方がないなあ」と許すのです。
 甘いと言われるかも知れませんが、誤解というものは、常に身近に存在していて、言葉が過ぎたり足りなかった時に「誤解された?」と気づくことが多いようです。そんな時私は、往々にして「笑ってやり過ごす」ことににしています。相手に「それは誤解だ」と正さないのです。あいまいな日本人の代表みたいです。
 しかし「違う」と言えば角が立つことが多く、場合によっては正しく理解して貰うチャンスまで失ってしまうこともあります。自分が「間違っていない」ことは自分が一番良く知っている、と自分に言い聞かせて、その場を流してしまいます。
 いつか分かって下されば、または何時か私の心を理解して貰えれば波も立たず、その時は泥をかぶっても仕方がないと引いてしまうのです。
 しかし、これは家族という理解者がいるといないとでは、きっと違うのでしょう。大方のことは、「今日こんな事があった」と家族の話題に載せれば、それで気が済んで忘れてしまいます。
 「王様であろうと百姓であろうと、自己の家庭で平和を見いだす者が一番幸福な人間である」とゲーテも言っています。本当にそう思います。私のように社会の片隅にささやかに生きている人間には、そう言う言葉が支えにもなるのです。

 思慮浅き言葉に君を傷つけぬ花甘藍に雪の積むころ
 
 自らを許さぬ心疼きゐて燃やしつくさんと落ち葉を焚けり

 心なき我が一言に傷つきし君に活け置く今朝の白薔薇 (全て実名で某紙・誌に掲載)
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