ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

鏡の向こうに見えるもの

2010年07月23日 | 随筆・短歌
 私は外出する時に、ほんの少しばかり化粧をします。鏡で眺めて、自分の顔の老いの深さに気付くと「年を取るということは、こういうことね」と思います。じっと眺めていると、それは顔ではなくなって、いつの間にか今の自分の心そのものになっていることに気付くことがあります。つまりこの時は、鏡の向こうに心が移動してるのです。
 今朝は、その鏡の中の私の心は、いつの間にか政治家の孤独について考えが及んでいました。いつもは、兎角政治に批判的な私ですが、鏡を眺めている内に、頑張ってマスコミや国民の批判に耐えている政治家の孤独に思いが至りました。
 以前「葵 徳川三代」の数巻のドラマを見ていた時に、家康が息子の秀忠に対して、「將たる者は、心に一匹の鬼を飼わねばならぬ」と教えてる場面があって、何故か心に残っています。人の上に立って、政(まつりごと)を司る人は、ある時は鬼になっても成し遂げなければならない場合がある、ということだと思い、時には非情にならなければならない、將たる人の哀しみに触れた気がしました。
 又今回は、ちょうど「独眼竜政宗」のDVDを毎週一枚の割で見返しているところですが、戦国の世にあって、藩を守ることの大変さにも心を動かされています。作品に依って家康や、秀吉、政宗の人物像は違いますが、共通して言えることは、良いブレーンを持っていること、そして、常に確固たる信念をもっているということです。
 孤独に強くなければ、將として大成しない、といえるのではないでしょうか。そんな孤独な影を鏡の向こうに眺めながら、現在の政治家の孤独に重ねて考えていました。
 私は孤独に弱い人間だと自覚していますから、孤独に強くならないと、晩年の自由で幸せな生活はないだろうと思い、何時も家族を頼りにばかりしていますので、もっと自己をしっかり持たねばならないと思いました。
 話しが横道にそれました。人となりの姿を映し出す鏡は、幾つもあって、多様な人物像が浮かび上がってきますが、それぞれに私達に何かしら教えてくれます。歴史ドラマには古くて新しい人間像が見えて、時代はどの様に変わろうとも、人間の本質は不変であると、改めて教えられます。
 伊達政宗の墓所に行った時、傍らに殉死した家来の墓が沢山並んでいて、涙を誘いました。でももっと心を引かれたのは、その家来の家来が殉死しているのです。主(あるじ)に忠義の証を立てて、後を追う様を想像しただけで、いたわしい思いに涙が溢れます。いくら人間の本質は不変だと云っても、主君への忠義に命を投げ出す価値観は、現代人からは、完全に消滅してしまいました。それはそれで良いのでしょうが、とかく自分の権利を主張して、人の為に何かしようという気持が薄らいで来ている現在の世の中を思うと、もう少しでいいから、お互い譲り合いの心を持ったなら、もっと住みやすく成るのにと、ついつい思うのです。しかしこれも又、他人に変化を求める心だと反省しています。
 鏡を見ながらこんなことまで夢想してしまっているので、いつも私の心はフラフラしていて心此処にあらずで、何か聞かれても返事もしないことがあり、何処へ飛んでいっているのかと、時折家族に注意されているのです。

 人間(じんかん)をすりぬけて行く交差路に孤独の影の群れが往き交ふ(某誌に掲載)

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