私の祖父は、医師の家庭の次男でした。その祖父は、二代続いた女系家族だった私の実家に婿入りして、三人の女の子に恵まれました。その長女が私の母です。
幼い頃に比較的病弱だった私は、お腹をこわしたりして、良く祖父にヒマシ油を飲まされました。お腹をこわすと直ぐに祖父は、ヒマシ油を飲ませて下痢でお腹をきれいにして、その後母の作ったお粥に梅干しというのが、お決まりの治療コースでした。あの不味いヒマシ油ときたら・・・もう病気にはなるまいと思うのですが、矢張りよくお腹をこわしたものです。
祖父は、薬に大変詳しく、孫のちよっとした病気の手当をしてくれて、美味しい気付け薬のようなものも飲みました。
明治生まれですが、ハイカラな人で、写真機も、アネロイド気圧計も持っていて、「気圧が下がってきたから、荒れるぞ」と天気予報をし、当たると悦に入っていたものです。 私の受験の写真も祖父が撮ってくれたものです。蛇腹の付いた古い写真機で、自分で暗室を持っていて現像もしました。
農地は小作に出していましたので、米を作ることもなく、自分は銀行へお弁当持参で出かけていました。当時銀行は、高利貸しと同業に思われていたらしく、母が子供の頃に「高利貸しの子」とからかわれたこともあったそうです。母は笑いながら話していました。銀行はさる貴族院議員の人のもので、当時は祖父が任されていたのです。祖父の「ヒマシ油治療法」のせいか、孫の私達は何とか大病もせずに育ちました。祖母は私の兄が生まれる直前に、突然の心臓病で亡くなりましたので、私達兄弟は顔も知りません。
さて父ですが、こちらも次男であったため、養子として母のところへ婿入りした訳です。祖父は自分も婿養子であったので、父に対して理解のある人でしたから、父と母は、戦争が厳しくなるまで、家族水入らずで転勤族として過ごしました。
教育者であった父は「これからは、男も女も教育が財産だ」と言って、子供には、書物を買い与え、魚や植物や動物の図鑑を買ってくれてありましたので、私は夢中で眺めました。田舎の家には母の女学校時代の文学全集も揃っていましたから、伏せ字の本を解りもしないのに、読みふけっていました。どうしても歯が立たなかったのが、ダンテの神曲だったことは、今でも忘れません。
イソップやグリム童話、日本の昔話の絵本などに囲まれて育ち、図鑑などから様々な知識を得て、それが今でも役立っています。
祖父は余程男の子が欲しかったのか、母に男のような名前を付けました。名前だけ見ると、男か女か不明だったせいか、母のところに召集令状が間違って届いてしまったそうです。祖父は早速取り消しの手続きをしたと、母が面白がって話してくれました。
又父は自分に召集令状が来ることをとても怖れていました。父としては3つ目の、当時の女学校に勤めていたころに私が生まれて、三歳半の春に転勤になりました。もうその頃には記憶がありましたので、父が「今度こそ戦争に行かねばならない」と家族を置いて出征することを心配し、母が不安そうにうつむいていたことを覚えています。更にその次の転勤は、ふる里の旧制中学への転勤だったのですが、母と子供達は戦火を逃れて、先に祖父のところへ帰して単身赴任をしていました。その頃には父は「もはや招集を免れることは出来ない」と覚悟を決めていたようでしたが、幸運にも教師へは召集令状は最後にまわったとかで(これは噂で証拠のない話です)やがて終戦となり、結局招集されずに済みました。
父はとても勤勉で、農地は開放になって無くなりましたが、山林が残り、それを私達子供の教育費に回しました。けれども父は、木を切ったところはただちに全て植林して、祖先からの山林を守りました。
当時学費の送金は、現金封筒でしたから、何時も父の温かい思いやりに満ちた手紙が同封されていました。母は大勢の子育てで忙しく、教育は父任せでした。父は叱ったりすることのない人でしたが、子供としては矢張り煙たいところもありました。けれども成人を境にして、以来決して私のする事に口出ししなくなりましたし、私の部屋にも無断で入ることはありませんでした。子供の教育という面ではけじめの付いていた人だったと、今も感心しています。
私は勉強嫌いでしたから、父の期待に背いたり、決断出来ないことは、父に背中を押されたりして、やっと此処まで生きて来ました。父が逝った年に近づいてきた自分を見つめると、父の姿が益々大きく見えて、一生かけても追い付けない不出来な娘だったと、詫びずには居られません。それでも命ある限り、一歩でも前進したいと願っています。
父の期待我はすげなく踏みにじり今なほ残る若き日の悔い
父母の人生も平坦でなかりしとしみじみと見る亡父の履歴書 (全て某誌に掲載)
幼い頃に比較的病弱だった私は、お腹をこわしたりして、良く祖父にヒマシ油を飲まされました。お腹をこわすと直ぐに祖父は、ヒマシ油を飲ませて下痢でお腹をきれいにして、その後母の作ったお粥に梅干しというのが、お決まりの治療コースでした。あの不味いヒマシ油ときたら・・・もう病気にはなるまいと思うのですが、矢張りよくお腹をこわしたものです。
祖父は、薬に大変詳しく、孫のちよっとした病気の手当をしてくれて、美味しい気付け薬のようなものも飲みました。
明治生まれですが、ハイカラな人で、写真機も、アネロイド気圧計も持っていて、「気圧が下がってきたから、荒れるぞ」と天気予報をし、当たると悦に入っていたものです。 私の受験の写真も祖父が撮ってくれたものです。蛇腹の付いた古い写真機で、自分で暗室を持っていて現像もしました。
農地は小作に出していましたので、米を作ることもなく、自分は銀行へお弁当持参で出かけていました。当時銀行は、高利貸しと同業に思われていたらしく、母が子供の頃に「高利貸しの子」とからかわれたこともあったそうです。母は笑いながら話していました。銀行はさる貴族院議員の人のもので、当時は祖父が任されていたのです。祖父の「ヒマシ油治療法」のせいか、孫の私達は何とか大病もせずに育ちました。祖母は私の兄が生まれる直前に、突然の心臓病で亡くなりましたので、私達兄弟は顔も知りません。
さて父ですが、こちらも次男であったため、養子として母のところへ婿入りした訳です。祖父は自分も婿養子であったので、父に対して理解のある人でしたから、父と母は、戦争が厳しくなるまで、家族水入らずで転勤族として過ごしました。
教育者であった父は「これからは、男も女も教育が財産だ」と言って、子供には、書物を買い与え、魚や植物や動物の図鑑を買ってくれてありましたので、私は夢中で眺めました。田舎の家には母の女学校時代の文学全集も揃っていましたから、伏せ字の本を解りもしないのに、読みふけっていました。どうしても歯が立たなかったのが、ダンテの神曲だったことは、今でも忘れません。
イソップやグリム童話、日本の昔話の絵本などに囲まれて育ち、図鑑などから様々な知識を得て、それが今でも役立っています。
祖父は余程男の子が欲しかったのか、母に男のような名前を付けました。名前だけ見ると、男か女か不明だったせいか、母のところに召集令状が間違って届いてしまったそうです。祖父は早速取り消しの手続きをしたと、母が面白がって話してくれました。
又父は自分に召集令状が来ることをとても怖れていました。父としては3つ目の、当時の女学校に勤めていたころに私が生まれて、三歳半の春に転勤になりました。もうその頃には記憶がありましたので、父が「今度こそ戦争に行かねばならない」と家族を置いて出征することを心配し、母が不安そうにうつむいていたことを覚えています。更にその次の転勤は、ふる里の旧制中学への転勤だったのですが、母と子供達は戦火を逃れて、先に祖父のところへ帰して単身赴任をしていました。その頃には父は「もはや招集を免れることは出来ない」と覚悟を決めていたようでしたが、幸運にも教師へは召集令状は最後にまわったとかで(これは噂で証拠のない話です)やがて終戦となり、結局招集されずに済みました。
父はとても勤勉で、農地は開放になって無くなりましたが、山林が残り、それを私達子供の教育費に回しました。けれども父は、木を切ったところはただちに全て植林して、祖先からの山林を守りました。
当時学費の送金は、現金封筒でしたから、何時も父の温かい思いやりに満ちた手紙が同封されていました。母は大勢の子育てで忙しく、教育は父任せでした。父は叱ったりすることのない人でしたが、子供としては矢張り煙たいところもありました。けれども成人を境にして、以来決して私のする事に口出ししなくなりましたし、私の部屋にも無断で入ることはありませんでした。子供の教育という面ではけじめの付いていた人だったと、今も感心しています。
私は勉強嫌いでしたから、父の期待に背いたり、決断出来ないことは、父に背中を押されたりして、やっと此処まで生きて来ました。父が逝った年に近づいてきた自分を見つめると、父の姿が益々大きく見えて、一生かけても追い付けない不出来な娘だったと、詫びずには居られません。それでも命ある限り、一歩でも前進したいと願っています。
父の期待我はすげなく踏みにじり今なほ残る若き日の悔い
父母の人生も平坦でなかりしとしみじみと見る亡父の履歴書 (全て某誌に掲載)