ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

短歌に載せた私の思い出

2016年06月23日 | 随筆・短歌
 私は今短歌を趣味にしていますが、このような趣味を持つことは予想だにせずに60歳近くまで生きて来ました。その後約20年何故こんな趣味がうまれたのかとても不思議です。私は長く自分を理系人間だと思ってきました。何故なら長兄も弟も理系の大学を出ましたし、私は高校生の頃は、数学については特に何も勉強しないでも済みました。でもその驕りが裏眼に出て

あの入試得意でありし数学の解けざりてある今の幸せ

ということになりました。

苦労したのは英語です。今でも英語が苦手なことを、英語の教師であった父に済まなく思っています。歌を詠み始めて10年位経った頃のものを書き出してみます。

ああすれば良かったこうもしたかった如月二十日娘(こ)は先立ちぬ

玻璃を打つ時雨の音に目覚むれば生きねばならぬ一日がある
近付かんとすれども及ばぬ思いあり遠き信号赤に変わりぬ
砂時計青色の砂こぼし終ゆ反せば悲しき刻また戻る

秋冷えに息子の入れし茶を飲みぬ萩焼茶碗の無言のぬくもり

用は無いでも元気かと母の電話会いに行くべし私も独り

 職を退き自由な身分になりましたのに、娘が先だってしまいした。義母が逝き義父が逝き母も逝って、介護から離れてなんでも出来る時間が生まれましたが、しばらくは何も手に付かずぼんやりとしていたのでした。
 そんな時、夫が「そんなに暇なら短歌でも詠んでみたら」と庭から顔を向けて、居間にいた私に声を掛けたのです。それではとばかりに、ノートを取り出して短歌を作り始めました。短歌の本を買ったり、図書館で短歌の本に良く目を通すようにもなりました。
 ただ詠んでばかり居ても・・・、と日頃読んでいる新聞に投稿を始めました。三ヶ月は出さなければ採って貰えないと聞いていましたので、せっせと出していました。暇な私のつたない短歌てすから、入選する等とは思ってもみなかったのです。ところが丁度三ヶ月目の頃に
 身の丈の幸せはあり喩うれば道端に咲くタンポポの花

を馬場あきこ先生に採って頂いて新聞の歌壇に載ったのです。大変驚いてショックを受けました。それは嬉しくもあり「ひょっとして私に短歌の素質が遺伝しているのかしら」と思いました。驚きはまだ続きました。その翌月には
 
 いかに生きんいかに生きんか書を読みて出口の見えぬ夜は更けゆく

を採って頂きました。私達夫婦は、その頃は未だ短い旅が始まったばかりでしたが、長野県安曇野へ行った時、大王わさび園での
 
わさび田の透明な流れに吹く風は微かに渦巻き溶け入る静かさ

あれこれと心引き裂くことありてアダージョを聞くこんな夕暮れ

の二首を、もう一人の選者であった宮英子先生に採って頂いたのでした。
 夫と二人で何時もウォーキングをしていましたので、道々歌がポロリと生まれることがありました。ある時

 ビードロの風鈴の音と共にある浴衣桐下駄綿飴金魚

という短歌が不思議にすらすらと生まれました。夫は名詞が並ぶ「浴衣桐下駄綿飴金魚」がいけないと歩きながら言いました。浴衣は姉妹が毎年夏には背の丈に合わせて母が縫ってくれましたし、桐下駄もお盆には父が一人一足ずつ新しく買って来てくれました。綿飴は祭りの屋台で買って貰いたかったのに、「不潔だから」と買ってもらえなかった子供時代のあこがれであり、金魚は私達の子供に祭りの夜店で良く買ってやり、何故か短い命で子供たちの作るお墓に納まったものでした。四つの名詞の音の感じも良いと思って「これでいいの。これでも纏まったのだから。」といとも簡単にハガキに書いてNHKの歌壇に投稿したのでした。
 思いも掛けず、ある日NHKから電話があり、あなたの投稿短歌を放送すると知らせて来ました。当日はテレビの前に夫と二人で緊張して待っていました。最後の頃に選者の岡井隆先生がこの歌を何と第二席に選んで下さったのです。あまりの出来事に急に胸がドキドキと早鐘を打ち始め、夫も「ドキドキしてきた。これは寝た方が良さそうだ」と言うので、早々に寝てしまいました。何とも不思議な経験でした。
 このNHKの短歌の入選で私は少し自信を持ち、それがきっかけとなって、本格的に短歌との長い付き合いが始まったと言えます。
 NHKや各種の全国大会・日本経済新聞等の新聞・子規記念館の短歌会他、様々な大会等に気が向くままに投稿するようになりました。先日の日本経済新聞に、三枝昂之先生に採って頂いた「こんなにも哀しき碧か殉教の魂吞みし外海(そとめ)の海は」で、計527首が入選したりして活字になりました。長崎の外海の遠藤記念館は、見たこともない素晴らしいコバルトブルーの空と海を背景にして、静かに建っていました。「沈黙の碑」を感慨深く眺めました。遠くまで出かけて来た甲斐がありました。
 
老いるとは不安を生きることなりと母のことばをしみじみ思ふ
ありがたうしあわせだったと亡母(はは)の歌眼鏡ケースにたたみてありぬ

私は夫の両親と暮らしていましたので、実母とは少し離れて暮らしており、良く逢いに通って話相手になっていました。母は女学校の頃に和歌を学び、友人との手紙の最後に、良くスラスラと一首したためていました。その頃の私にはとても不思議な光景でした。

 短歌ノートの最初の頃は、アダージョ1と2とモーツアルトのアダージョ等のクラシックのCD等を買って来て、嬉しいにつけ悲しいにつけ聞きながら過ごしていました。やがて夫が退職して、あちこち旅行に出かけるようになり、子供たちが成人し、結婚し、やがて娘が亡くなり・・・、と様々な歴史が歌い込まれています。

新聞をめくる音のみ聞こえ来て職退きし夫との静かなる朝

一針づつ愛を編み込みしセーターが茶箱の隅に古びてありぬ

仏舎利を拾うが如く玉石を桂浜に拾う遍路となりて

ヘッドホンにアダージョ聴きつつ読む本の薄きがなかなか終わらぬ雪の夜

今宵また亡き娘(こ)のカーデガン羽織っている心の寒い日は殊更に

躓(つまづ)いて転ばぬやうにと息子(こ)のことば嬉しく聞きて旅に出で来ぬ

私の何処が誰の遺伝子をついで来たのかは不明ですが、今は引き継いで来た様々な遺伝子に感謝しています。

進化してネコのあなたとヒトの吾四十億年受け継ぐ命

魚でありし遺伝子残るか体感に水の流るる音心地良き

日もすがら話しかけをり紫陽花に娘(こ)の在りし日を偲ぶ庭先

中空の月に語らふ老い二人話の終わりは決まって亡き娘

東慶寺の墓地に会ひたる黒き蝶わが石池に再び逢ひぬ   

世の中は参院選挙戦がスタートしたところです。私達が聞きたいのは、他党の誹謗ではなく、政策や国家観です。

次世代に原発といふ負の遺産残して逝くを如何に詫ぶべき

私は原発を作らなかったドイツに学びたかったと、今もそう思っています。
 短歌は全て約20年の短歌歴の中で、呻吟して生まれて来たものであり、二冊の入選歌を書き留めたノートは、その時代の出来事や生き方が手に取るようで、苦しくもあり楽しくもあり、私のそして我が家の悲喜こもごもの歴史であります。(それぞれの短歌は、新かなと旧かなが入り交じっていますが、投稿のままになっています。)


マリア様に見る母の愛

2016年05月20日 | 随筆・短歌
 午前中の仕事が一通り終わると時刻は約10時半になっていて、午前中の残りの時間は大抵はテレビでニュースか大リーグを見ています。
 そのニュースの時間に先日こんな報道があり、考えさせられました。それは女性医師の診療報酬の不正請求に関するニュースについての時でした。莫大な不正の請求をしていて、逮捕されたこの女性医師に、医師である母親が「結果がどうあろうと私は娘を見放さない」と言うコメントを出しました。
 私はさすが母親だと咄嗟に思ったのですが、このニュースのコメンテータの女性と男性の二人は、「そんな教育をしているから、このような人間になるのだ」という意味の発言をし、その意見はそのまま納得されたように通りすぎて終わりました。
 果たしてその意見は正しいのでしょうか。「こんな甘い家庭教育をしているから、その結果このような詐欺師になって刑罰を受けることになるのだ。」と言う考え方と「たとえどんな罪人になっても母親である私は娘を見放すことはしない」と言う考え方とは、テーマが異なっていますが、二人とも母親のコメントに対して反論していることは間違いありません。果たしてそれは正しいでしょうか。
 母親というものは、我が身を捨ててでも子供を救おうとする、本能とでも言えるような言動をするものです。我が子がたとえ罪を犯したとしても、弱く罪深い人間としての我が子を、決して見捨てないで温かく見守るのが母親ではないか、と私には思えるのです。
 それはマリア様の愛にも似て、深く温かいものではないでしょうか。私はキリスト教信者ではありませんが、遠藤周作の「沈黙」を読んでから切支丹弾圧について学び、その地を何回か実際に訪れています。
 殊に隠れキリシタンの様子など見聞きし、後頭部に十字架を彫った沢山のマリア観音像や、大浦天主堂のマリア像(隠れキリシタンの存在がこのマリア像を訪ねて来た三人の婦人の為に解った)を感慨深く拝見して来た者として、ごく自然にそう思われたのかも知れません。
 遠藤周作には、キリシタンに関する調査研究が沢山あります。その一部は「日本紀行」という本の「切支丹の里」(光文社)に隠れキリシタンについて余す所無く書かれています。
 幕府の切支丹弾圧が厳しくなって、正面切って「私はキリスト教信者です」と言えば、処刑される時代になり、多くの切支丹は偽りの仏教徒になって、それが隠れキリシタンとして一部は近年まで繋がってきました。
 棄教を迫ってどの様な残酷極まりない悲惨な刑をうけるか、知らない人には、殉教者の心も、隠れキリシタンにならざるを得なかった人々の心も、きっと理解しがたいところがあるでしょう。
 殉教によって死をえらぶか、隠れキリシタンとなって、密かに信仰を持ち続けるか、それとも本当に棄教するか、それしか道は無かったのです。たとえ隠れキリシタンとなっても、殉教できなかった自分の弱さを恥じたに違いなく、その為に集落毎にしっかりと団結し、熱心な隠れキリシタンとして決して表に出さず、子々孫々まで長い年月を伝えて来たと言えるのではないでしょうか。
 遠藤周作は、偶然にも十六番館で実物の踏み絵を見た、と書いています。私達も二度目の長崎でしたか、大浦天主堂脇から神学生の学びの部屋など見て、山から下りてきた時に、本当に偶然に十六番館に入って、同じく実物の踏み絵板を見ました。
 親指の跡が窪み、黒く汚れていました。説明書には、「これだけ多くの切支丹に踏み絵を実際に行った」ということを役人に伝える為に少し大げさに手で作られた部分もあるように書いてありましたが、確かに足の指のえぐれ方を見ると、深く大きく、とても何万人の足跡でもこれ程は窪まないだろうと思える程でした。信者でありながら、踏み絵を踏まなければならない人の苦しみを密かに理解していた役人もいたという事でしょうか。
 遠藤周作はまた「隠れキリシタンたちは聖母マリアを特に拝んでいた」と書いています。そして「かくれ切支丹たちは自分達の母親のイメージを通して聖母マリアに愛情を持っていたことを示している。母とは、少なくとも日本人にとって『許してくれる』存在である。子供のどんな裏切り、子供のどんな非行にたいしても結局は泪をながしながら許してくれる存在である。そしてまた裏切った子供の裏切りよりも、その苦しみを一緒に苦しんでくれる存在である。母にたいして父は怒り、自分を裁き、罰する。それは正しく、秩序をもつが、非行の子供にとっては怯え、震える対象だ。かくれキリシタンたちは、神のイメージのなかに父を感じた。父なる神は自分の弱さをきびしく責め、自分の裏切り、卑劣さを裁き、罰するであろう。そのような神にかくれ切支丹たちは怖れを感じながら、しかし、そのきびしさより、自分をゆるしてくれる母をさがした。そして聖母マリアが<それだ>と彼等は感じたのである。
 マリア観音や納戸神として祭られている聖母の素朴な絵の背後には彼等の切実な『許し』への悲願がこめられている。私は彼等の祈り(オラショ)のうち『憐れみのおん母』のオラショほど実感のこもったものを他に知らない。」と書いています。今にして読んでも胸に響く言葉です。
 
 私達が九州の平戸島の「切支丹資料館」へ行った時も、キリスト像よりもマリア観音像が圧倒的に多く、それは正面から見ると子を抱いた観音様に見えますが、後ろに回ると後頭部に十字架が彫ってある、という像で、様々なマリア像が展示されていました。
 隠れキリシタンの納戸神は聖母の肉筆画が圧倒的に多いそうです。キリスト像はグッと少ないそうです。隠れた信者としての心の痛みの為に、一層マリア様に救いを求めたとも言えるようです。
 家庭に於いても、教育者として父親が重視され、それは厳しく秩序を重んじているかも知れませんが、罪を犯したものの母へのコメントとしては、マリア様のような温かく慈悲深い母親像を理解したものであって欲しい、と思いました。
 たとえ我が子が罪を犯したとしても、自分も共に苦しみを背負う母親でありたいと願う人は多いのではないかと思います。しかし、昨今はあまりにも自分本位の母親が多くなり、子供に対する関心の強さが昔に比べて薄いのではないかと感じます。実の親の子供への虐待や、果ては殺人すらも折々ニュースになります。生きとし生ける者の母親なる存在は、子供のためなら命さえ投げ出す者であることを、しっかり認識して、温かい心の籠もったコメントを発言して頂きたいと願わずには居られません。

沈黙のイエスに語りしロドリゴの哀しみせまる遠藤記念館(某紙に掲載)長崎駅からかなり遠い遠藤記念館を訪れた時の歌です。
  

息が足りないこの世の息が

2016年04月18日 | 随筆・短歌
 主題は、2010年8月に、64歳で亡くなられた私の尊敬する歌人、河野裕子さんの辞世の短歌から頂きました。河野裕子第15歌集「蝉声」の最後の歌です。(以後敬称を略させて頂きます)

 「手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が」

 何と切ない歌なのでしょう。死の前日に詠んだ歌だそうです。
 短歌が好きな私は、河野裕子の歌がとても好きで、何冊か歌集も持っています。ずっと以前、この「蝉声」という歌集に感激して、ブログにも書きました。
 先頃矢張り河野の短歌が好きな夫が、河野の夫で歌人でもある永田和宏の、「歌に私は泣くだらう」という河野との出合いから晩年、そして死までを書いた新潮文庫を買って来ました。それを読みながら、時折「とても感激するし、泣ける」と言いました。私も早く借りて読みたかったのですが、夫は、じっくり味わって読んでいて、暫く待たされました。夫が読み終わるのを待って、早速二日間で読み終えました。内容の深刻さに涙なしには読めませんでした。
 「歌は遺(のこ)り歌に私は泣くだらういつか来る日のいつかを怖る」という永田和宏の歌から採った題名の本です。
 『永田はこれは河野裕子が乳がんの宣告を受けてから、亡くなるまでの十年、私にとっても河野にとっても、もっとも辛く厳しい時期のことを書いたものである。/ 書くことには初め大きなためらいがあった。河野が精神的に不安定な時期が続き、その攻撃性の発作のために家の中がある種地獄のような様相を呈した時期に触れざるを得ないからである。中途半端なものに終わってしまえば、河野を傷つけるだけにしかならないのではないか。』と書いています。 (参考までに、この本は2013年の第29回講談社エッセイ賞を受賞しています。)
 永田は河野の最後の歌を書いた後に、『近代以降、死に臨んで、この一連のような密度の高い歌を残した歌人はほとんどいないと言っていいかも知れない。それは彼女の意志の強さにもよるだろうが、その前に苦しむだけ苦しみ、家族みんなを巻き込む形で自らの死という理不尽に抗い尽くした果てに、ある種の納得、断念と引き換えに得た悟りに近い思いだったのかも知れないと思うのである。敢えて、河野の苦しかったことを公にすることは、河野裕子という歌人の作品の現場、歌の背景を知って欲しいという思いからであった』
と書いています。
 私は、此処で『自らの死という理不尽に抗い尽くした果てに、ある種の納得、断念と引き換えに』とあるところについて、想い出す書籍がありました。それはエリザベス・キューブラー=ロスの「死ぬ瞬間」という本です。キューブラ=ロスという人は、精神科の医師で大学教授でもありました。癌の宣告を受けて、死期の近づいた患者が、死ぬ迄に辿る様々な心理の過程を、世界各国を巡り、聞き取りをして纏めたものです。その結果「人間は自分の死を受容する過程で、心理的に5段階のプロセス、すなわち「否認・孤立」「怒り」「取引」「抑鬱」「受容」の5つの過程を多かれ少なかれ踏むものである」と。これは有名なものですから、皆さんもお聞きになった方も多いかと思います。
 私は、この過程を河野裕子も踏んで来ていると感じたのです。
永田の著書を読んで行くうちに、それは確信に近いものに思えました。様々な出来事と、添えられた二人の短歌を詠んで、歌集を通して知って居た河野とはひと味違って、河野が一層人間的な悩みや苦しみを持った歌人であったと思えました。
 河野裕子の晩年について、その病状や、ガンと闘う河野や家族の様々な苦しみや苦労が、有りのまま書いてあって、読者の胸を息苦しいまでに打つ作品になっています。此処まで家族の赤裸々な関係や愛憎・そして悩みや温かい愛情を書いた作品に、私は出会ったことがありませんでした。

 永田の著書の書き出しは、『全てはこの一首から始まったと言っていいのかも知れない。』とあり

 左脇の大きなしこりは何ならむ二つ三つあり玉子大なり(裕子)

 とあり検査の結果乳がんだと診断されます。二人はお互いに引かれ合って結婚した仲の良い夫婦であり、またいたわり合って日々を過ごしてきていました。紅(こう)と淳という二人の子供に恵まれて、家族全員が歌人でした。しかし、この癌発見により、次第に河野の様子が変わって行きます。

 歩くこと歩けることが大切な一日なりし病院より帰る(第九歌集より 裕子)

 このように穏やかな歌を詠み、「歩く」と言う第九歌集にして息子の青磁社から出版し、自分が癌であることを発表しました。
 永田は『河野は、戦後生まれの代表として、一貫して歌壇の先頭を走って来た歌人である。当然のことながらやっかみや嫉妬の対象でもあった。一家全員が歌人であるということも、羨望の的である以上にやっかみ半分に揶揄されることも多かった。癌であると告白することは、少なくとも歌壇をリードしていく存在からはドロップアウトすることにもなるだろう」と発表を反対しました。しかし、『河野の意見は最初から決まっていたようだった。「断固、公表する。それでなければ自分の言葉が濁る」とゆずらなかったのです。
 そして『いざ息子の青磁社の初めての出版物として出版される時、トラブルが生じた。刷り上がった帯の緑の色がちょっと明るすぎると感じた永田が「見本は、確かにもう少しくすんでいて、いい感じやったのになあ」と言ったのがいけなかった。河野はすぐさま息子の淳の携帯に電話して、ものすごい剣幕で「この歌集は出しません」「あんたこの色は何ですか。最初に見せたものと全然違うじゃないですか。私はだしませんからね」と言い、ガシャンと電話を切ってしまった。こういうとき横で取りなしたり、淳の弁護などすれば、火に油を注ぐようなもので、私はただ聞いているだけであった。翌朝河野が少し落ち着いているのを見計らって、何とか納得させた』とあり、この頃から河野が精神に異常を来し始めたと、永田は思っていたようです。
 機嫌の悪い日が度々あり、不機嫌のおおかたは、自分の身の不具合でありました。

 四年まへ乳腺外来に行きしかど見過ごされたりこれも運命か(裕子「日付けのある歌」)

とあるように、その時に見つかっていればと言う思いから、「責任の半分日は俺にある」と言う永田の言葉に、やがて「あんたのせいで、こうなった」と河野が非難するようになったのです。
 やがてある日、河野は突然いなくなります。車は駐車場に止めてあるのに、姿が見えません。行き場所の無い彼女は、死のうと思って出て行ったのだと思います。呼び寄せられた子等が集まり、紅は服を調べ、無いものがあると言います。やがて淳が電話機から母の電話先を調べて、局番から三重県であることが解ります。直ぐに掛けて見ると、矢張り居たのですが、「出たくない」と出て来ません。 連絡を考えて淳を家に残し、紅と二人で伊賀上野の旅館に迎えに行き、やっと旅館を見つけたのが、午前2時を回っていたそうです。 この事件があってから、河野は何がきっかけかわからないことが多かったけれど、落ち込み、やがて苛立ち、攻撃的になり、それは彼女にも制御出来なくなっていったようです。

   病院の横の路上を歩いているとむこうより永田来る。
 何といふ顔してわれを見るものか私はここよ吊り橋じゃない(裕子)
 
 永田はこの歌に『私のそれまでの人生でこの一首ほど辛い一首は無かったと言っていい』と書いています。
 
 やがて河野は不眠症になり、ハルシオンを飲んで眠るようになりました。その頃『河野裕子がもっとも憎んでいたのは、私だったろう。私の不注意から、ある女性を話題にし、褒めたことが原因であった。彼女はその女性を憎むとともに、私を憎んだ。私とその女性とのあいだに、何もないことは誰よりもわかっていたし、自分でもそう断言していた。それでも私を許せなかった。私の回りに女性がいることがゆるせなかった。』とあります。しかし、二人の短歌を詠んでいる私には、これらはお互いに深い所で愛し合っているからこそ、言えること、書けることだと思っています。しかしこの時は、河野は弧独を感じていたのです。「何処かへ出掛ける時も着物や帯まで永田に尋ね、着て行った程の愛情と信頼感がある一方で、独占欲の裏返しとして、病気以降永田が離れていくのではないか、見捨てられるのではないか、という恐怖心に、縛られて行ったのではないか、」と永田は言っています。

 白木槿あなたにだけは言ひ残す私は妻だったのよ触れられもせず (河野裕子「葦舟」)

 『この一首は、河野が精神的な危機を乗り越えてからの歌であるが、(中略)私はどうしても河野を避け、腫れ物に触るように接していた』とあります。家に帰るのも次第に遅くしており、河野の異常な興奮が一ヶ月以上続き、へとへとになった永田は、ある日とうとう堪えきれず爆発します。気が付いた時は、部屋の中のものを手当たり次第に叩き付けて壊しました。淳が後ろから止めてくれました。彼は淳の肩にすがって泣き、淳は黙って肩をかしつづけるのです。
 淳の肩にすがりて号泣したる夜(よ)のあの夜(よる)を知るひとりが逝きぬ(永田和宏 夏・2010)

 どこをどうふらつきをりし魂か目覚むれば身は米とぎに立つ(裕子)

 あの時の毀れたわたしを抱きしめてあなたは泣いた泣くより無くて(裕子)
  
 『河野は紛れもなく良き妻であった。どんな日であろうと私に食べさせる米をといだ。後年「毀れた私を抱きしめて」の一首を見た時、それまでの錯乱にも似た発作と激情の嵐、私への罵言の全てを許せると思った』と書いています。
 普通の癌は五年経てば完治したと思われるのに、乳がんはそのたぐいに入らず、八年経って河野の癌は再発しています。

 一日が過ぎれば一日減ってゆく君との時間 もうすぐ夏至だ 永田和宏「夏2010」)

 『歩くのがやっとで寂光院に行って、地蔵尊の手から垂れている紐を手に取り、長く祈った。今迄にない河野の姿にショックを受けた。彼女はもう別の世界をはっきりと視界に捉え初めている。そう感じた。「やめろ」と言いたかったが、そんな言葉を静かに撥ねつけてしまうかのように、彼女の挙措ははかなげなのであった。「準備をしている」、確かにそう感じさせるなにかが彼女には漂っていた。』

 みほとけよ祈らせ給へあまりにも短きこの世を過ぎゆくわれに(裕子「京都歌紀行」)
 その日彼女はこの一首を作った。

 わたくしはわたくしの歌の為に生きたかり作れる筈の歌が疼きて呻く(裕子「蝉声」)

 悔しいときみが言ふとき悔しさはまた我のもの霜月の雨(永田和宏「夏・2010」)
 
 2010年1月歌会始に二人ででかけます。2003年から永田は詠進歌選者になっていて、河野も2008年から選者になっています。『竹橋のホテルに宿を取り、部屋に入ってしばらくすると女官長から電話があり、これから皇后様のスープをお届けしたいとのこと。しばらくして、侍従の一人が魔法瓶に入った皇后様のスープを届けて下さった。河野が食欲がなく、食べられないことをお知りになり、お手ずから作って下さったスープをわざわざお届けいただいたことに、私達は感激した。その日も何も食べていなかった河野であったが、おいしいと言いながらいただいた。私もお相伴したが、やさしく澄んだコンソメスープであった。
 夜には、直接皇后さまからお見舞のお電話もいただいた。体調の悪さを押して、歌会始に出席する河野を気遣っていただいたことがよくわかり、心にしみた』とあります。
 『歌会始めから半年あまり経ち、河野の病状が重くなり自宅介護に移ったころ、皇后様からはもう一度、スープをお届けいただいた。その時は、わざわざ東京から京都まで、川島裕侍従長が自らスープを持ってきてくださったのである。その懇ろなお心遣いをかたじけなく思ったことだった』

 ふた匙なりともの御言葉の通りやっとふた匙を啜り終へたり(裕子)

その年の選者のなかでは河野の歌が披講されることになっていた。

 白梅に光さし添ひすぎゆきし歳月の中にも咲ける白梅(裕子)

 私は、「蝉声」で皇后様が河野にスープを賜ったことは存じており、我が事のように感激しました。ご自分でも短歌をお詠みになる皇后様が、如何に河野裕子の才能を高く評価しておられたかを知って、私は嬉しく思いました。皇后様のお優しさに直接触れたような感動を覚えました。

 癌は次第に進み、「母系」で「迢空賞」や「斎藤茂吉短歌文学賞」を受賞し、紅も結婚式を挙げ、病院の緩和病棟に入院したりした後、河野は自分の家に帰り、介護を受けました。それでも短歌を詠み続け、何にでも歌を書き、ティッシュの箱にも書かれていたそうです。最後まですさまじい歌人魂です。

 わが知らぬさびしさの日々を生きゆかむ君を思へどなぐさめがたし

 さみしくてあたたかかりきこの世にて会ひ得しことを幸せと思ふ

 泣いている暇はあらずも一首でも書き得るかぎりは書き写しゆく

 長生きしてほしいと誰彼(だれかれ)数へつつつひにはあなたひとりを数ふ

 のちの日をながく生きてほしさびしさがさびしさを消しくるるまで (以上裕子)

 歌は遺り歌に私は泣くだらういつか来る日のいつかを怖る(永田) 
 河野裕子と言えばご存知の人も多いかと思いますが、「たとへば君ガサッと落ち葉すくふやうに私を攫って行ってはくれぬか」という歌が代表作で有名です。解りやすい言葉で平易に、しかし的を射た表現、それも前半に対して後半の変換がとても上手い歌人だったと私は思います。

 雨?と問へば蝉(せん)声(せい)よと紅は立ちて言ふ ひるがほの花

 たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり

 君を打ち子を打ち灼けるごとき掌よざんざんばらんと髪とき眠る

 私が河野裕子氏を知ったのは、もう40年も昔のことです。尊敬出来る優れた歌人です。
大勢の歌人が辿るように、私も石川啄木の短歌に憧れ、やがて茂吉に傾倒し、釈迢空に引かれました。NHKの短歌教室で、様々な講師の先生のご指導を仰ぎ、やがて日経新聞の当時の選者だった岡井隆先生に憧れて投稿を始め、地方紙の選者として、馬場あき子氏、宮英子氏、高野公彦氏、などにぽつぽつと拾って頂けるようになりました。
 何処の結社にも属さず(これは勉強するという意味からして、あまり望ましい事ではないらしいのですが、)コツコツと本を読んだりしながら、一人で紡いで来ました。以来活字になった短歌は約500首を数えます。
 永田和宏氏は、大学の講師をして居られた頃から、優しく温かな人間性に富んだ歌を詠まれる歌人として、尊敬していました。
 「歌に私は泣くだろう」というこの本は、夫が求めて来るまでは知りませんでした。全編を通して、末期の病人を支えた温かい家族の愛情が、すさまじい迄の情景の中で綴られていて、とても感動致しました。改めて河野裕子さんに哀悼の意を表します。

殉教の平戸島への旅

2016年03月10日 | 随筆・短歌
 2008年と言えば、もう8年も前になります。その年の5月8日から16日迄、九州の平戸島を始めとして、帰り道に奈良・京都・片山津と巡った旅に行きました。
 隠れ切支丹の歴史を訪ねたいと言う夫の言葉によって、先ず私が原案を立てました。予備知識が何もないので、九州の観光案内とパソコンを駆使しての計画でした。家を出たのは、午前7時30分頃、大阪空港で乗り換えて福岡空港へ行き、博多から佐世保までJRを利用し、松浦鉄道でたびら平戸口で下車しました。
 そこからは平戸大橋を渡るのですが、タクシーで17時過ぎにやっと平戸の市街中央のホテルに到着しました。もう日暮れが近く、下調べしてあった「豊鮨」というお店で平戸海山の幸の、「名物じげもん御膳」を食べる予定だったのですが、運悪く休業でした。仕方無く立ち寄ったスーパーの鮮魚売り場で、贅沢に盛り合わせた「生にぎり寿司」を見つけました。異口同音に「これ」、となって苺などフルーツも買って、ホテルに戻って頂きました。さすがに海の幸のてんこ盛りといった美味しいお寿司でした。
 翌日は、平戸桟橋8時28分の西肥バス志々木宮浦(ししぎみやのうら)行きで36分乗って「紐差(ひもさし)」で下車徒歩2分の紐差カトリック教会に行きました。
 今回の私達の目的地は、激しい切支丹弾圧のあった根獅子浜と、平戸切支丹資料館だったのです。直通バスはなく、島の中程の紐差で下車する必要がありました。平戸島は可成り大きい島で天文18年(1550年)ポルトガル船が入港して以来、日本初の国際港として繁栄したのです。同時にキリスト教布教の地として信者を増やし、特に生月・根獅子では住民が全員信者になったと言われます。 紐差教会は島のちょうど中程で、キリスト教信者の為に1929年に落成したそうです。当時は東洋一と言われたとあります。
 白亜のロマネスク様式の高い教会で、未だ朝の凛とした空気の中にあって、近づくと気押される程でとても立派な教会でした。門が開いていましたから、静かに中に入ってキリスト教徒のように、膝をついて手を組んで祈りました。中央に掲げられている像はマリア様でした。十字架のキリスト像は中程の右の柱にありました。あの頃の日本人には、ゼウス様よりもマリア様が親しかったのでしょう。
 そこからタクシーで先ず根獅子浜へ行きました。事前の調査で、ここでは沢山の切支丹が殺されて、海には昇天石という小岩があります。青い海が鮮血で真っ赤に染まったと言われる根獅子浜は、今は波の静かな美しいコバルトブルーの海水浴場でした。
 タクシーに待っていて貰い、海に向かって手を合わせたり、昇天石の近くへ行って海水をすくい上げると、信じる者の純粋で強烈な信仰心と、その為に流された血に、直接触れているという感動に胸を打たれました。そこから平戸市切支丹資料館へ車を回して貰いました。
 ここではゆっくりと心ゆく迄観覧しました。隠れキリシタンの、マリア観音が幾つかありましたが、前から見ると右手に子供を抱えた観音様に見えるのですが、後ろに回って見ると、後頭部に十字架が刻まれているのです。則ち観音様に手を合わせると、そのままマリア様に手を合わせている事になるのです。
 厳しい監視の目をうまくごまかせるように、信者達が智慧を絞ったのでしょう。納戸神と言われるのは、暗い部屋で押し入れ(納戸)に見えるのですが、戸を開けると隠れキリシタンのご神体が祀られています。キリシタンと覚られずに生きて行けるよう工夫を重ねて、長い間独自のキリスト教信者として生きて来たのです。
 牧師さんも不在で、誰がリーダーということもなく、結果として口伝となり、地区毎に異なった組織形態でオラショ(祈祷文)を受け継いでいるそうです。納戸は外来者も入って来ない窓の無い部屋で、家族も普段は滅多に入らない所と言われています。
 天正15年(1587年)約四百数十年前の切支丹禁止令から、現在に到る迄、隠れキリシタンとして信仰を守り、聖なるご神体を家の奥深く、納戸神として今も守り続けているとお聞きすると、その信仰心の深さに驚くばかりです。人間が心の底から神仏を信じた時の信仰心の強さとは、独特のものであって、激しい迫害に合って、何故其処までと考えても、理解出来ない程の強い心なのでしょう。
 直ぐ近くの森の入り口の右に「霊地うしわきの森」左に「霊地おろくにん様」と刻まれた石の門柱が、礎石の上に有りました。根獅子は特に弾圧がひどく、当時昇天石で斬首された6人のご遺体をここに埋めたのだそうです。その後も沢山の殉教者があり、現在も信者の人々は、此処へは靴を脱いで裸足になって入られるそうです。心なしか土が柔らかく、素足の感触が靴裏を通して伝わるようでした。この痛ましい歴史を持った、うしわきの森について「(前文略)・・・うしわきの森よ雨よ降れ夜は暗かれ」と昭和27年に刻まれた当時の平戸市長の大きな石碑がありました。一帯が霊地として大切に守られ、祈りの場になっていました。手探りでしたが手を尽くして調べて、ここ迄来て良かったと思いました。
 帰りは又紐差からバスで平戸へ戻り、もう一泊して、平戸の港町を徒歩で回りました。オランダ商館跡は何もなくなっていましたが、湾の向こうに平戸城が見えました。常灯の鼻まで足を伸ばし、当時のままのオランダ塀も見て、平戸観光資料館へ行きました。ここには又別の意味で、キリシタンに係わる、とても感動した多くの展示物に溢れていました。
 ベテランの女性案内人がいらして、詳しく説明して下さいました。オランダ貿易当時に生まれた混血児が、徳川幕府のキリシタン禁制により、ジャワに追放されたそうですが、この混血児達が故郷恋しさに送った手紙があります。それをジャガタラ文と言い、350年以上前のものを見ることが出来ました。中でも心をひかれたのは、コショロ(ジャガタラ文)と呼ばれる文章でした。
 日本こいしや、こいしや、かりそめにたちいでて、
又とかえらぬふるさとおもへば、心もこころならず、
なみだにむせび、めもくれ、
ゆめうつつともさらにわきまへず候へども、
あまりのことにちゃづつみ一つしんじ上候、
あらにほんこいしや、こいしや、にほんこいしや、                           こしょろ
 うばさままいる 
  本田家所蔵 平戸観光資料展示
 この茶包みを包んでいたと思われる、縦横それぞれ4枚の計16枚の小布をつぎはぎした20㎝×20㎝位の布のあちこちに書き綴られていました。
 更に吉田松陰の自筆入門願書や、浅野長短同大学の誓約書、山鹿素行の肖像画・遺愛刀、山鹿家譜(素行の自伝録)コルネリヤ彫像{オランダ商管長ナイエンローデと平戸の豪商・判田五右衛門の娘との間に生まれたコルネリヤが、ジャガタラ(現ジャカルタ)に流された後に、自分と子供の姿を木に彫らせて判田家へ送ったの衝立様の物}素行の有名な著書等々貴重な資料が沢山ありました。
 そこから崎方公園へ行き、ザビエル記念碑、三浦按針の石の墓を見て、御部屋の坂庭園から松浦資料博物館へ行きました。北海道と大陸が繋がった地球儀や、当時は珍しかったであろう天球儀もありました。天体の星は、航海には欠かせない物だったでしょう。
 又丹波から平戸へ来られた姫君の豪華な輿、鬢台(びんだい)大友宗麟から送られた鎧兜一式、船首像(小川家理右衛門宅跡より発見)などが千載閣に展示してありました。当時の賑わいや、遠方との交流の大変さを偲びました。
 六角井戸(大勢が同時に水を汲める)を通り、見た事もない大ソテツを見て、聖フランシスコザビエル教会に行きました。緑と白の配色が上品でした。とても大きく、三角の尖塔の上の十字架が、夫を入れた写真に入り切れない程高くて素晴らしかったです。丁度入館出来る時間で、中でお参りしました。祭壇の右に「命をかけて「いのち」を生きる」左側に「ときを超え今ひびく福者の祈り」という垂れ幕が下げられていました。 夫は記念に「怖れることはないわたしはあなたと共にいる」の栞を買い求めました。何時も私達は時を旅していますから、今はもうこの垂れ幕も無く、教会の庭園に置かれた白いマリア像がとて美しく、去りがたい程でしたが、再びお会いする機会は無いでしょう。
 いま写真を眺めていても当時のことがふつふつと湧いて来ます。とても想い出深く、忘れ得ぬ旅になりました。帰り道で教会と寺院が同時に見える有名な場所で、振り返って記念の写真を撮りました。
 日々の雑事の中に、当時の記憶は埋もれているのですが、こうして旅先で頂いた資料の切り貼りと、お互いに撮り合った写真アルバムを眺めていると、尽きせぬ思い出が、次々と目の当たりに湧き出でて来ます。足が未だ丈夫で体力気力のあった頃の、平戸への旅でした。
 この後長崎市内を巡り、更に足を伸ばして、もう一つの殉教の地、外海(そとめ)にも行き、遠藤周作文学館も見て来ました。
 殉教という悲劇を乗り越えて、今もなお変わらぬ厚い信仰の心を抱き続けている島の皆様に、敬意を抱きつつ平戸を後にしました。
 
殉教の血潮に染まりし根獅子浜ことさら哀し海碧ければ(某誌に掲載) 




もっと話し合えば世の中は変わるのでは

2016年02月28日 | 随筆・短歌
 我が家の家族は、多分世の中の平均よりも、家族間では良く話をする方かと思います。食事が終わっても暫くは何かしら話をしていることが多いです。そして私と夫がウォーキングに出た時は、途切れることなく話していると言う状態になる事がしばしばです。親しい間柄の話はストレス発散に効果的だと言います。
 しかし、一般的に見ると、現代は以前よりも会話の機会が減って来ているように思います。その原因の第一は、電話を掛けずにメールが多くなりました。電話は突然相手の生活の中に飛び込んで来ますので、時として相手に迷惑を掛ける場合があります。そう思えば、矢張りメールの方が時間が空いた時に読んで貰えればよいので、気楽に書けますし、内容も漏れがなくて安心だという長所があります。
 私の住む地域では、以前は町内の女性達が集まって、食事会をする行事が毎年一回ありました。皆さんがどのような事を考え、どのような生活をしておられるのか、理解し合い助け合う心があって、それはとても親密感が持てて、有意義でありました。今はそのような機会が無くなってしまい、とても残念に思います。
 スーパーなどでご近所の親しい人達と出会っても、他の買い物のお客様に迷惑を掛けないように配慮して、簡単な挨拶を交わす程度です。今は趣味の会などでご一緒の人達が、三々五々集まってお茶会や、食事会を持つ位になってしまいました。
 電車やバスに乗れば、主婦たちもあちこちでメールを打っている姿が日常的に見られます。そう言う意味では、意見交換はせっせとされているようですが、相手の表情やゼスチャーが見えませんので、心に深く刻み込まれる内容には、なりにくいのではないでしょうか。
 それに最近は、知り合いに出会っても、「おはようございます」とか「良いお天気ですね」とか、声に出さないで、笑顔ですが無言の会釈のみの人が増えたような気がします。それではやや義理的な挨拶になり、相手に親愛の情は伝わりにくく寂しい気が致します。
 私は、知って居る人には、必ず声を出して挨拶を致します。最近は、バスを降りる時などや、スーパーのレジを通り抜ける時も「有り難うございます」と言います。近所の小学生も挨拶運動があるらしく、良く挨拶をしてくれます。気持ちが和み温かみが伝わって来ます。
 最近何故か県議会も市議会も、議員さんがおとなしくなって、意見を言わなくなってきているよに見えます。賛成・反対の意志表示も曖昧にして、無難に議員報酬を頂くということなのでしょうか。
 市議会などは、発言の記録は各家庭には来ていますが、個々の議員が普段は何をしているのか、議員の顔が余り見えません。どんな人が、どのようなことを言っているのか、聞こえても来ません。議会を傍聴に行けばよいのですが、中々億劫で出来ません。議員さんも地域に親しく回って来ないようです。以前は、もっと議員さんと地域住民との交流がありました。区の身近な市議会議員の名前など、恐らく多くの住民が知っていました。
 去年のことですが、シールズという若い集団が行動を起こしたことから、もの言う集団・行動する集団として心強く思いました。若者が自己の考えをしっかり持って、それを堂々と発表して行くということが、とても爽やかで心強く思えました。こんな若者が増えると良いと思っていましたら、18歳以上で選挙権を持つようになるので、政治に関心を持って、この国の将来について考え、そして行動していこうとする機運が高校性の間に生まれて来ていると知って、大変頼もしく思っています。
 若者の選挙離れが問題化している時代に、大いに歓迎されるべきものと思います。賛成でも反対でも、選挙には参加して、自己の意志表示をしてこそ民主主義です。
 環境大臣が環境の日を知らなかったとか、北方領土担当大臣が離島の歯舞が読めなかったとか、漫画ばかり読んでいる有名大臣が、読み上げる答弁書に仮名を振ってもらってもなお読み違いするとか、笑い話では済まされません。こういう政治家にこの国を任せて大丈夫なのか心配です。
 政治家という人達には、もっと政治に関する専門的な勉強をしっかりして頂きたいと思うのです。政治経済の塾等で充分な勉強をして、単位でも取って貰う方法でも考えないと、ただ血税から高額な議員報酬を貰うだけで、採決要員でしかなかったり、選挙の時に当選したいばかりの、自分の為の活動だけで、後は殆ど遊んでいるようにも見えて来ます。誤解であって欲しいと思います。何年議員をしていても、どのような活躍をされたのか不明で、選挙の時にのみ存在を想い出すような議員の何と多いことでしょう。
 小学校に新一年生として入学して来る子供たちでさえ、三年も経てば立派に漢字も読めば、思いやりも身について、してよい事と悪い事くらいはしっかり判別出来るようになります。そして次に入学してくる新入生の指導者にもなります。せめてこのような子供たち位の努力はして貰いたいものです。
 政治家でありながら嘘つきで、「後ほど必ず精査して国民の皆さんにご説明申し上げます」と言ったA元大臣も、O議員(女性)もその後音を殺して、何も言いません。議員が自ら約束していて説明しないのは、実に不誠実で無責任で、説明出来るような内容ではないので、しないのだということが明確になるばかりす。
 それは国民を騙す行為であって、議員としては失格者です。この国は首相が率先して国民と交わした約束を平気でホゴにする位ですから、もはや国民は徹底的に政治不信に陥っていると言えそうです。
 理解し合う第一歩は会話から始まります。もう少しお互いに意見を述べ合う、または温かく優しい言葉を掛け合って、言語を通して豊かな人間関係を築き、且つ深めたいものです。
 今さら政治家に進歩を期待しても無理だと思われる所迄、信頼が落ちてしまったようで残念で堪りません。
 せめて私達は、誠意を持って人間関係の環を作り上げ、未来を生きる人達のためにも、少しでも役に立ちたいものだと思います。 

今日限りグループホームへ行くといふ人を送れば重き名残雪 (某紙に掲載)
辻褄の合はぬ話に頷きて伝へんとする心を探す       (某誌に掲載)