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ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

崩れゆく日本語

2023年05月18日 | 随筆
 最近若者の話している言葉が耳に引っかかって気になります。略語が多いせいでしょうか?それとも高齢者である私の思い過ごしでしょうか?
 私は普段から「日本語は大変優れた言語だ」と思っています。
梁塵秘抄に「遊びをせんとや生まれけむ 戯ぶれせんとや生まれけむ 遊ぶ子供の声聞けば 吾が身さえこそゆるがるれ」とあります。
 古い話になりますが退職後の暇な時間をどう使うか考えて、NHKの通信講座で古典や日本史・世界史など幾つかの講座で学習をしていた事があります。その時に出て来た歌だったと記憶しています。最近何故かとても懐かしく思い出しています。
 無邪気に遊んでいる子供達を眺めていますと、男女入り交じって性別など意識せずに抱き合い頬を寄せ合って、保育園などの砂場で遊んでいます。
 私は夫と二人で毎日ウォーキングをしています。日々のウォーキングの途中に保育園があるのです。砂場などで遊んでいるのですが、何故か私達夫婦が通りかかると、フェンス際に走り寄って来て声を掛けて来ます。
 「僕のお母さんはね」とか「うちのお婆ちゃんはね」と言って「おやつを作ってくれるんだよ」などとたわいない話を真剣な顔で話しかけて来て、相づちを打って聞いていますと次々に集まってきます。日頃の家での様子を話しかけて来たりして、とても可愛いです。
 私達のような老人には警戒感を持たないらしく、臆することなく親しげに話しかけて来ます。「知らない大人に話しかけない」と言う時代も過去にはあった様でしたが、最近はとても人なつっこく寄って来て、離れた処からじっと眺めているだけの子供は見かけません。
 日々の行動の全てが遊びであるこの子供達には、今○○の時間という区別もなく、大らかです。少子化で大切に育てられていると想像出来ます。現在は何処でも標準語で話すようで、方言もある筈なのですがほぼ聞かれなくなりました。
 一方テレビの番組の中で、時に思いがけない言葉を聞いて、首をかしげる事があります。メッチャ腹が立つとか、メチャクチャ気になるとか、カタカナの言葉で軽く話す若い人達の言葉の軽さに「これで良いのだろうか」と思うのです。
 日本語は標準語で話す限り、落ち着いてしっとりしていて「美しい」と私は思っています。地方独特の言葉もありますし、それを否定するわけではありませんが。
 先日テレビで「僕的には」と言う人がいました。頭を傾げてしまいましたが、これは間違った言い方ではないでしょうか?何だか違和感を覚えました。
 NHKなどの公共の放送番組では、きっと正しい言葉遣いをしていると思っていますから「美しい日本語を話す日本人でありたい」と思って見聞きしているところです。
 日本語ほど奥深くて品格のある言語はないのではないかと思っています。
 この言語が紡ぎ出すからこそ、世界に例のない短歌や俳句と云った文学が存在するのでしょう。現代を生きる人間の責任として、下品な造語で世界に冠たる日本語を破壊して行くことは止めて頂きたいと願っています。

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温かかった検事の言葉

2023年04月17日 | 随筆
 思いがけず青年の運転する自家用車にはねられて、しばらく療養をしていました。あまり広くない道路の右側を歩いて居た私は、少し先を行く夫の後ろを追いかけるように歩いていたのですが、突然ドンという音とともに左後方から来た車にはねられて、気がつくと自力では立ち上がれなくなっていたのです。
 車を運転していた相手は、今春大学を卒業しようとしていた青年でした。私は左脚の膝下を四カ所骨折していたそうで、入院して手術をして貰い暫くは療養生活を余儀なくさせられました。
 当初治療に当たった医師の話しでは「上手くいって歩行器、もしくは車椅子、さもなければ寝たきり」と言う事でしたが、何とか杖をつきながら自力歩行が出来るまで回復して、ホッとしています。
 加害者の青年は、私が療養中にお母様と、或いは一人で、幾たびかお詫びに我が家に来てくれました。私は家の中でも歩行時は杖が必要でしたし、立ち上がるのに痛みに耐えなければならないので、外来者に会う事は出来ず、未だ一度も彼には会えていません。
 ところが先日検察庁の検事から、電話がありました。「加害者の相手に刑罰を与えるに際して、被害者である貴女の心情を教えて欲しい」と言うものでした。とっさの事でしたが、私は前途のある青年の将来を傷つけるような事は望まなかったので、その旨を正直に伝えました。すると女性の検事は「そう言って頂ければ私も嬉しいです」と言われました。私はその検事の思いがけない優しさに、すっかり感動してしまいました。

 私は検事という職業の人は、ドラマの中でしか知りませんでした。被告人に対して容易に許さない厳しい人のような印象を持っていました。ところがその女性検事は、ごく自然な会話の中で、温かく優しい人となりを私に伝えて来たのです。
 当然な事ですが、加害者としての青年の罪も未だ分かりません。人間とは不思議なもので、心から心へ通じる表現しがたい気持ちも、いとも簡単に伝わるらしいです。この春の慶事の一つになりました。
 この度の事故に遭ったのは不運ではありましたが、人に刑罰を与えると言う重い責務を背負った立場の人が、こんなに温かい人間性を持った人であった事に感謝の念を禁じ得なかったのです。こうして原稿を書いている今も、左脚は時々痛みます。でも四月になりましたし、温かい気候と共に人々の心にも春の訪れを願っているところです。

  

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交通事故の被害者となって

2023年03月18日 | 随筆
 或る日突然交通事故にに遇って、歩くのが少し不自由になりました。毎朝歩いている散歩コースで、交差点の手前の右側を私が歩き、その少し前を夫が歩いて居た時の事です。
 交差点の左方の道から近づいて来る車には気がついていたのですが、点滅信号がついていましたし見通しも良く、比較的ゆっくり車は進んできましたので、てっきり車は一時停止するものと思いました。そして右手を高く挙げて交差点に歩を進めた私が、不用意だったと言えばそうなのでしょう。ドンという鈍い音がして私は道路に倒れてしまいました。
 横断歩道の少し先を知らずに歩いている夫に声をかけましたが、聞こえなかったらしく気付かずに歩いています。近くの車から男性が降りて来て、「大丈夫ですか、ご主人を呼んできましょうか」といいました。「はい、お願いします」と答えると早速呼びに行って一緒に戻って来て下さいました。私は「頭を打たなくて良かった」と思いながら立とうと思いましたが、何と立てなかったのです。その間にすぐ近くで「交通事故だ」という男性の声がして、「救急車を呼びましょうか?」と言って下さった方が居られて「お願いします」と言いましたら早速ケータイで呼んで下さいました。やがて夫も戻って来ましたが、結局私は立ち上がれずに、抱えられるようにして救急車に乗せられて大きな整形外科の病院に入院になってしまいました。
 朝でしたから道路が混んでいたらしく時間が掛かりましたが、回りの皆さんの気配りに助けられて、やがて病院に収容されたのでした。以来6週間の入院になって、昨年の12月末に無事に退院出来ました。
 高齢者ですから、入院中に診て下さった整形外科医師に「うまくいけば歩行器、さもなければ車椅子」と家族は言われたそうです。今こんな事を書いていて思うのですが、結果的にとても上手く行って、杖をつけば何処へも歩けます。現在は近くのスーパーへも歩けるようになりましたが、思いがけない怪我に少しばかり不自由を感じています。でも「歩ける事がとても有り難い」と思って、一層歩行能力を高める努力をしています。

 私の好きな歌手に「さだまさし」がいます。滅多に歌いませんが交通事故をテーマにした「償い」という歌があります。或る交通事故の裁判で判決を下した裁判長が次のように言ったそうです。「貴方はさだまさしの『償い』と言う歌を聞いたことがありますか。もし未だ聞いていなかったら是非一度聞きなさい」と。
 それは配達の仕事で疲れていた友人が、人をはねてしまい、毎月事故の相手の命日にお参りに通うのですが、在る時被害者の奥さんから「貴方の優しい気持ちは分かりました。もう来なくて良いです。どうぞ貴方の人生を取り戻して下さい」と言われて、この友人の為に涙を流して喜ぶと言う詩なのです。聴いている私も涙を誘われました。
 思えば私達は、他人に対してどの位の親切が出来るのでしょうか。またしているのでしょうか。大地震とか災害の寄付をする事などは、何時も可能な範囲で出来るだけ協力するようにしていますが、「充分か」と聞かれたら少しタジタジしそうです。
 これを機会にもう少し広く深く、優しさという事について考えてみたいと思っています。
 
 

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得意先から見た経営者の心

2023年02月22日 | 随筆
 まだ若かった頃の夫の思い出です。独身時代の夫に、毎日のように通っていた親しい喫茶店がありました。その日はその町内の祭りで、いつもの喫茶店に入ると可成り混んでいました。コーヒーを飲み終わった時、ツカツカとママさんが寄って来て「今日は混んでいますから席を空けて下さい」と言いました。
 ところが目が店内に慣れて来ていたので、一席の空き椅子が目に留まりました。近づこうとする夫に立ちふさがるように女将さんが「明日またおいで下さい」と言ったそうです。空いている一席が気になりましたが、言われるままに引き下がって帰ってきたけれど、何とも不快な念が残ったと聞きました。以来そのお店には行かなかったといいます。
 対応の言葉に顧客を大切にする心が不足していたように私には思えました。「あちらの席も今席をはずしている方がいますので、あいにく満員です」とか「残って居る席はあの隅一つですがよろしいでしょうか」とでもひと言あったらこのような行き違いも無かったかも知れないと思ったり、日常的にお客様を大切ににしないお店だっのか、と思ったりしました。なお数年後この喫茶店の前を通ったところ経営者が変わっていたそうです。
 またこんな事もあったと聞きました。夫が毎月通っていた理髪店の事ですが、丁度その日は台風の直撃に遭い、行くべきでなかったのですが仕事の都合上やむを得ず暴風雨の中を出掛けた事があったそうです。お店の前に着くと店主が出て来て「今日は台風なのでもう火を落としました。明日にでもおいで下さい」と言いながら目の前で店のカーテンを閉められてしまいました。まだ営業時間内であるにも関わらず、謝る訳でもなく一方的に業務を拒否した店主の態度に、夫は何年間にも渡る時間を無駄にしたような気持ちになって、以来この理髪店へは二度と行かなかったと聞きました。
 この理髪店の店主の行動は「損得」の問題ではなく、この嵐の中を濡れながら来て呉れた客に対する心の問題です。この理髪店がこの後営業を続けていたかどうか、夫は知らないと言います。
 最近も或る大学病院の教授の意向で、派遣先の消化器内科の医師を全員引き上げて、後任を補充しないと言う暴挙がありました。「消化器内科の医師がいなくなったので、消化器の患者さんの診察はできません」と玄関先に表示されたそうです。人事権を振り回す教授の横暴さと、専門医が不在だからこの分野は診ないという病院側の態度、どちらもどちらだと思います。
 これは医師の使命とは何か、両者とも心得ていない行為だと私は思います。診察してくれる医師を全員引き上げて後任を出さないというのは、患者の命に関わることですし、人事を私物化しているという気がします。
 たった一人の患者であっても、一時を争う救急処置に遅れが出たりする事は防がなければなりません。また、唯々諾々として命令に従う事が医師の役割ではありません。この病院もこの一件をどう解決するのか、私はとても関心をもって地元紙を読んでいます。医学は人類を病から救ってくれますが、このような人事の争いは人間を不幸にするばかりなのではないかと思っています。一刻も早い解決を願っていますが、取りあえず打つべき手は後任の専門医を補充する事でしょう。それなくしての解決は、罪のない患者に責任を押しつける最悪の手段となるのではないでしょうか。
 一事が万事と言うことばもありますし、ここの大学の教授には何かが欠けているのかも知れません。このまま放っておいて欲しくない事です。医学部も増えて来ていますから患者の存在を忘れた行為は、そのうち足元から滅びて行くことに繋がらないでしょうか心配です。
 

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長く生きることは幸せか

2023年02月01日 | 随筆
 人々の健康状態が向上して、寿命も年々永くなりました。2020年の厚生労働省の集計に依ると男性が81.47歳女性が87.57歳とあります。単に長生きになったということよりも、健康でなければなならないのは言うまでもありません。
 この事については可成り強い思い出があります。新卒で勤めたのは東京都だったのですが、その後父に勧められて故郷に戻り矢張り教職に就きました。やがて結婚しましたが、それぞれの職業を全うして引退致しました。旅行が趣味ですで沢山の旅行をしていましたが、在る時サラリーマンの第一歩を踏み出した懐かしい処も訪ねてみました。

 それは60代半ばの私達でしたが、愛車で出掛けた時の事です。そこは私が東京から帰ってきてから勤めた山あいの穏やかな農村でした。山あいの一番奥の農家の庭先の道も通りかかりました。
 すると庭先で、乾かした大豆を槌で叩いている老女に出会いました。ニコニコと会釈されたので、思わず車を止めて話しかけました。するとその女性は、かつて私がこの地に勤めていた頃の教頭先生のお姉さんであることが分かりました。
 初めて勤めた僻地でしたから、学校は列車を降りて約3キロ近く歩かなければならない或る集落にありました。冬に通る時は、斜面から落ちる雪にも「雪崩か」と注意深く歩くように言われていました。うっすら雪が降って路面が見えないので、道路から外れないように歩くのが、当時は精一杯だったのでした。
 そこ迄の幾つかの集落の真ん中辺りに、教頭先生のご自宅があって、ご夫婦で住んでおられましたから、雪の日など道が悪くてはかどらない時には、泊まって行きなさいと泊めて頂いた事も何度かあったのです。

 懐かしい話しがひとしきり終わったころに、老女が、今はこの地から街に近い処に息子の家があって、夏はここで過ごし、冬は息子の家に寄せて貰うのだと言われました。冬の一人暮らしの厳しさを思うと納得がいきました。
 その時です。老女が独り言つように言いました。「長生きするもんじゃないですね・・・」突然のその言葉に胸を突かれて応えに窮しました。厳しい冬に家の回りの雪よけをしたり、食品を求めて街まで出たり、それは確かに老いた人にはなかなかの苦痛だと思えました。若い頃の元気で楽しかった思い出をたどって来た私ですが、毎日この地に暮らすことがいかに大変か、という思いになったのでした。
 老女は息子の家であっても、「孫もお嫁さんもいるし、気を遣う」とふとつぶやきました。人間関係は複雑ですから、それなりのご苦労をされているのだと思いました。
 「長生き」が幸せだと簡単に割り切っていた私は言葉が出ませんでした。以来私はこの日本で「幸せに老いる条件」とは何か、と考えるようになりました。私は現在交通事故による足腰の痛みさえなければ、幸せの中で暮らしていますが、考えてみると年老いたこの先に何があるか、不安でもあります。ただこの先老女の呟いた言葉の奥に、どのような事情があるのか知りませんが、長生きを幸せと感謝出来ない人生があって欲しくないと、以来思い続けてきています。「無理せず穏やかに」をモットーに、残りの人生を感謝して過ごしたいです。

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