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ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

啄木歌集を柳行李の底に秘めて

2023年11月05日 | 随筆
 この度文化勲章の発表がありました。おめでたいことです。私は毎年文化勲章の発表を興味を持って眺めていますし、またその方の功績を尊敬の念を持って見ています。
 丁度ノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士の書いた「天才の世界」(小学館 昭和60年)と言う分厚い本を本棚から出して見ているところです。湯川秀樹博士が好きな歌人として「石川啄木」の名前を挙げています。それを見た時、私はすっかり嬉しくなりました。私も啄木が大好きな歌人だったからです。
 皆さんもご存じだと思いますが、湯川秀樹博士は日本人として初めてノーベル賞(物理学賞)を受賞した科学者です。
 今の本にしては活字が細かいですが読みやすく、私は時に取り出して関心のあるページを読み返す事があります。
 湯川秀樹博士がこの本で、天才としてあげている人は「弘法大師 石川啄木 ゴーゴリ ニュートン アインシュタイン 宗達・光琳 世阿弥 荘子 ウイナー エジソン」です。
 ノーベル賞を受賞する人とは、私のような人間にとっては神に近い人間で全く別世界の人間ですが、湯川秀樹博士があげた日本人の中で、私は特に石川啄木のファンでしたから、この文章を見た時はすっかり嬉しくなりました。
 
 古い話ですが私が結婚する時に、夫のアパート宛てに送った荷物の中にひっそりと入れて送った本の一冊が、好きだった「石川啄木歌集」だったのでした。その頃の文庫本は紙質が悪く、今はすっかり茶色に変色していて信じられない様な時間が経ったと推察される位です。でもその変色ぶりで私の大切度が解るようで、今だに捨られずに本棚にあります。私が付けたカバーとともに懐かしい一冊です。
 この本には亡き父との思い出も詰まっています。地方都市の近くに住んでいた私は、よく父のお供をしてその市の書店などへ何かと出掛けたのです。新しい洋服を買うとか、美味しいものを買って来るとか、父は私をお供にして良く出掛けたものでした。
 そのような時の買い物に、一冊の<文庫本>があったのです。それが岩波文庫の「啄木歌集」だったのでした。
 昭和28年4月15日 第14刷発行とあり、臨時定価120円とあります。でも未だに私の本棚の大切な一冊なのです。私が付けた手作りの紙のカバーも本も、もうすっかり茶色に変色しています。

 何時でしたか、夫と二人で東北地方へ旅行に行きました。その時たまたま北上川の傍を愛車で通りました。

  やはらかに柳あをめる北上の
           岸辺目に見ゆ泣けとごとくに

 故郷の大自然は、失意の啄木を温かく迎えて欲しかったのですが。啄木の胸の内を思うと目頭の熱くなる一首です。直ぐにこの歌が浮かんできて、二人でその岸辺で車を降りて北上川を川下から暫く眺めていたのでした。
 湯川博士はその著書の中で、啄木の歌の中では最も好きな歌は

  いのちなき砂のかなしさよさらさらと
              握れば指のあひだより落つ

だと書いています。掴んだと思えば逃げてゆく、この世の不条理を嘆いた名歌で私も大好きです。
 或るノーベル賞受賞科学者で、ここから先は神の世界だと云った科学者がいましたが、人間と神の境界に立つ思いを湯川博士は実感したのではないでしょうか。
 誰でもきっとそうだと思いますが、好きな歌人の歌は直ぐに暗記して、長く心に残っています。これからもきっと折々に思い出すことでしょう。
 夕方になりましたから、我が家へ来る雀も夕食のお米が欲しくなったのか、ガラス戸の外から呼びかけています。すっかり日が短くなりました。みな様のご健康をお祈りしています。

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災害に備える

2023年10月09日 | 随筆
 皆さんは「災害」に備えて、どのような対策をしておられますか。これから先30年以内に70%の確率で起こると云われている「東南海トラフ」の地震に対応して、我が家でも一通り備えています。一番困るのは「飲み水」と「排泄物の処理」(水洗トイレが使えなくなるのではないか)と思って、飲み水は一人2リットル入りの消費期限の入ったボトルを家族分備えてありますし、他に災害時の汚物入れの紙のセットを物置に常備しています。でもこれで大丈夫だとは思っていません。時期を見て買い足したり、水も順繰りに買い換えしなければなりません。

 東京の臨海副都心の高層マンションに、お姉さんが住んでいる人から聞いたのですが、地震の時はエレベーターが激しく壁にぶつかって 、揺れる恐怖は凄まじいものであり、何十階もの階段を徒歩で下りても市街地は人で埋まってしまって、途中からは下りる事も出来ないであろうと言っておられました。その様な時は、一体何処へ逃げたらよいのでしょうか。
 
 実際に私の市で過去にあった大地震の時は、大地が揺さぶられて地下水が40~50センチ位の深さまで吹き出して、中心街の一部では車も通れない位になりました。今になっても多分給水車が来る事も出来ないし、 行政もどう対応しようと計画しているのか解りません。ビルの屋上のヘリポートには、どの位の災害時の非常食が届けられるのでしょうか?またどう配ったらよいのでしょうか。全てについて物資の配達不足が考えられて不安な状態です。
 結局私達個人がどのような備えが必要か、もう少し具体的に考えて、各自家庭で備える必要があるのだと思っています。地震の災害ですと車もすぐに止まるでしょうし、スーパーで売っている水も瞬く間に無くなるでしょう。少なくとも給水車が来るまで何とか凌げると良いのですが、それがいつになるか想像も出来ませんね。道路が駄目なら全ての輸送が止まります。私は日頃から、各家庭での保存食などの備えが大切だと思っています。どう対処するかは各家庭の考え方によりますが、私はこの際しっかり考えて対応したいと考えています。
 夫の父がこの地に家を建てた後、非常時の為に庭に井戸を掘ろうと思ったそうですが、この地は大古は葦の生えた沼地のところもあったらしく、水質が悪くて飲めないと判断して諦めた経緯があります。
 また古い話ですが私の父がまだ20代の頃、東京で「関東大震災」に遇いました。会社の階段を駆け下りて踊り場に差しかかった時に、故郷の母親(私にはおばあさん)の顔が踊り場の壁にハッキリ映しだされていて驚いた、と後に父に直接聞きました。  その後約300キロの道のりを歩き通して、ようやく故郷へ戻りました。道筋には炊き出しの人達が居て、ひもじい思いはしなかったそうですが、実家にやっとたどり着いた頃は薄暗くなっていて、出て来た母親に「足が有るのか?(ゆうれではないか)」と聞かれたと言っていました。

 そのような経験をした父でしたから、時々五万分の一の地図を広げて「万一この地(私の故郷)で地震や津波に襲われたら、何処へ逃げたら良いか」という検討の相手をしました。結論は「少しでも標高の高い処へ、まずは逃げる」という極めて当たり前の結論でした。その道筋を確認してホッとした事を思い出します。
 故郷の家は、海から直線距離で1㎞くらい平野を進んだ辺りでした。幸い地震などに遇うことはありませんでしたが、「万一地震の時は、標高を考えて少しでも高いところに逃げる事」が大切な事、そしてそれは具体的に何処かと言う事が解り、今になって考えると良い勉強になりました。でも今は平野の真ん中に住んでいますから、近くのビルの屋上になります。
 日頃から逃げる場所を家族で共有しておくことは、東北の大地震に遇われた人達にも思いを巡らせると家族で話し合って置くことは大切ですね。
 此処は県都の平野の真ん中ですが、過去にはこの地でも大きな地震がありました。夫は我が家に帰ることが出来ず、勤め先に泊まり込むしかありませんでした。私は職場から徒歩でやっと帰宅しました。逢うまで家族が生きているのかどうか、全く解らなかったのでした。
 夫の勤務先の前に市立の中学校があって、大地が揺れると地下水が吹出し(水道管の破裂ではなく、大地が揺れることによって地下水が噴き出すのです。)中学校の全校生徒が道路に避難して、女子生徒達が泣き騒ぐので恐怖感を煽られたらしいです。道路は膝下くらい迄地下水が吹き出て、辺り一面水浸しになってしまったようです。大地が揺れるとその裂け目から地下水が湧き出すらしく、間もなく辺り一面水浸しになったと聞きました。
 何はともあれ命の確保が最優先です。その為にも「水と食料と熱源」の確保を、各家庭で日頃から常備したいものですね。
 以前長い時間が経ったので処分した卓上コンロなども含めて、もう一度備えをしっかりしたいです。
 こうしてブログを書いている間にも、巨大地震が起きるかもしれないと思うといたたまれない気持ちになりますが、ふと良寛禅師の言葉が頭をよぎります。

 災難に逢う時節(トキ)には逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。 是(コレ)はこれ災難をのがるる妙法に候。 良寛 


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貴方の好きな歌は何ですか

2023年08月27日 | 随筆
 私は随分古くからの(さだ まさし)のフアンです。あの頃から久しく時が過ぎましたが、家族が全員揃って暮らす事が出来なかった頃があって、そんな時は夫と二人で当時流行っていたカラオケに出掛けて、他人を気にすることもなく、さだまさしの歌など歌った事も度々でした。

        案山子(かかし)

  元気でいるか 街には慣れたか 友達出来たか
  寂しかないか お金はあるか 今度いつ帰る
 
  城跡から見下ろせば 蒼く細い河
  橋のたもとに 造り酒屋のレンガ煙突
  この町を綿菓子に 染め抜いた雪が 消えれば
  お前がここを出てから初めての春

  手紙が無理なら電話でもいい「金頼む」の一言でもいい
  お前の笑顔を待ちわびる おふくろに聴かせてやってくれ
   元気で居るか街には慣れたか 友達出来たか
   寂しかないか お金はあるか 今度いつ帰る (以下略)

 しみじみと心に響く歌です。父親の心が染み込みます。離れて暮らしている家族を持つ人は、きっと同じ思いをしている事でしょう。私もこの歌を歌いながら何度涙を流したことでしょうか。

 さだまさしには秋桜(コスモス)というヒット曲があります。この歌は
山口百惠の為に創られたと聞いています。当時山口百恵はスターでしたから、さだが白羽の矢をたてるような気持ちを込めて選んだのでしょうか。山口百恵は未だ結婚していませんでしたし、<嫁いでゆく娘の心情>の表現が、残念ながら今一つ不足だったように思われて、ファンとしては少し残念でした。 後にさだ自身が歌って、大変なヒット作になりました。私も大好きです。歌詞もメロディーも素晴らしいです。
 
         秋桜(コスモス)
淡紅の秋桜が秋の日の 何気ない陽だまりに揺れている 
此頃 涙もろくなった母が 庭先でひとつ咳をする
縁側でアルバムを開いては 私の幼い日の思い出を
何度も同じ話くりかえす
ひとりごとみたいに 小さな声で 

 こんな小春日和の穏やかな日は
 あなたの優しさが浸みて来る
 明日嫁ぐ私に 苦労はしても
 笑い話に時が変えるよ 心配いらないと 笑った
    
      (中略)
  ありがとうの言葉をかみしめながら 
  生きてみます 私なりに
  こんな小春日和の穏やかな日は
  もう少しあなたの 子供でいさせてください

 この詩のどこが私の心を掴んだかというと、<生きてみます私なりに>というところです。一般的には「生きてゆきます」と花嫁の心情を素直に表現するところですが、彼は「もし駄目であっても」と人生のをかけた厳しさを表している点が、さだの非凡さを表していると思えて気に入っている場面です。ごく自然ですが、そこには前途に少しばかりの不安もにじませて、さりとて臆するわけでもなく生きて行きたいという結婚適齢期の女性の願望がしみじみみと伝わってきます。娘心の揺れ動きが自然に伝わって来て、さだまさしの天才的な歌詞に心を打たれています。

     空蝉(うつせみ) 

 名も知らぬ駅の待合室で 僕の前には年老いた夫婦
 足元に力なく寝そべった 仔犬だけを現世(うつせみ)の道連れに
 小さな肩よせ合って 古新聞から おむすび
 灰の中の埋火おこすように
 頼りない互いのぬくもり抱いて
  ああ昔ずっと昔 熱い恋いがあって
  守り通した ふたり

 いくつもの物語を過ごして
 生きて来た 今日迄歩いて来た

 (中略)

 都会へ行った息子がもう 迎えに来るはずだから
 けれど急行が駆け抜けたあと
 すまなそうに駅員が こう告げる
   ああもう汽車は来ません とりあえず今日は来ません
   今日の予定は終わりました
   ああもう汽車は来ませんとりあえず今日は来ません
   今日の予定は 終わりました

 この歌を歌う度に幾たび涙を流したことでしょうか。歌う度に涙する私に夫は「そんなに涙をこぼして歌うようなら、その歌を歌わない方が良い」と云いました。けれども私は毎回同じようにして心を込めて歌い続けては泣いていたのでした。今は幸せな暮らしをしていますから、当時の事は遠い過去ですが、それだけ現在が一層有り難い日々です。

 さだまさしの沢山の歌が好きな私ですが、何と言っても素晴らしい歌は「防人の詩」でしょうか。これは映画「二百三高地」の主題歌だそうですが、私は名曲の中の名曲だと思っています。

    防人(さきもり)の詩(うた)

おしえてください
この世に生きとし生けるものの
すべての生命に限りがあるのならば
海は死にますか 山は死にますか
風はどうですか 空もそうですか
おしえてください

私は時折 苦しみについて考えます
誰もが等しく抱いた悲しみについて
生きる苦しみと 老いてゆく悲しみと
病の苦しみと 死にゆく悲しみと
現在(いま)の自分と

答えてください
この世のありとあらゆるものの
すべての命に約束があるのなら
春は死にますか 秋は死にますか
夏が去るように 冬が来る様に
みんな逝くのですか

わずかな生命のきらめきを信じていいですか
言葉で見えない望みといったものを
去る人があれば 来る人もあって
欠けてゆく月もやがて満ちて来る
なりわいの中で・・・(以下略)

 20代の若者が書いた詩とはとても思えない深い思いから発した素晴らしい詩だと感動しています。命あるものは全て死ぬ運命にあることを肯定した上で、それでも尚いくらかの希望をもって生きて行きたいと言う真摯な若者の仏教観が、聞く人の心に迫ってきます。
 永遠に不滅の名曲だと思っています。

 私は高齢者ですから、もう残りの人生は沢山はありません。誰もが通り過ぎる終末を見送って貰えるという好運を思う時、「有り難う」と身の回りで助けてくれた人々に、心から感謝したいです。
 私の知人に死の直前で生き返ったと思われる人がいます。その人は死ぬ直前に素晴らしい光の道が、遙か彼方から真っ直ぐに自分に向かって続いているのを見たそうです。生き返った時、死にそうな自分の周りに集まっている人々が誰か良く解っていたと云います。
 この様な不思議な人生の中で、今日も酷暑の一日が暮れていきます。皆様のご健康を祈っています。


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墓地という心の拠り所

2023年07月18日 | 随筆
 私達家族は、一寸変わっているのでしょうか。それとも多くの人達も同じような考え方を持って居られるのでしょうか。墓地が好きで、夫の祖先のお墓参りを大切にしたり、長いこと私の祖先のお墓参りも毎年の夏休みの行事でありました。
 また夫婦二人で良く旅行をしましたので、奈良・京都へは幾たびも行きました。有名な寺院へ行って、その墓地にお参りして来ました。北は北海道から南は九州鹿児島まで、太平洋側や日本海側を手作りの日程で回りました。お参りに行った有名な墓地を挙げると、高野山とか大谷祖廟とか東慶寺とか西郷南州の墓地でしょうか。
 夫の父は私達が子育てをする頃には、現在の県都の居住地に家を建ててくれて、やがて義父母と私達夫婦二人と息子と娘の家族6人が集まって暮らすようになりました。
 夫の父は現在の「文部科学省」の官僚でした。住んでいたのは、東京の渋谷の道玄坂を登った辺りだったそうです。夫が小学生の頃に、義父は樺太の中等学校の管理職になって栄転し、当時の家族四人(夫の両親と義姉と夫)で樺太に移住したのです。
 終戦後樺太はロシア領となり、義父一家は何とか樺太を脱出して、故郷の家に戻りました。その後私達が結婚して現在の県都に、義父に家を建てて貰って義父母と私達夫婦の四人が集まりました。やがて二人の子供に恵まれて、すっかり義父母の手を借りて子育てをしたのでした。

 数日前樺太からの脱出に間に合わず、抑留されてやむを得ずウクライナに住みついた日本人の様子がテレビで放映されていました。夫の家族ももう少し遅れていたら、この人達のような運命を辿ったかもしれません。考えると身震いする思いです。そうであれば現在の家族構成ではなく、全く違った運命の道を歩いていた事でしょう。
 この地に家を建ててくれた義父には感謝しかありません。家が建った後に、義父はこの市の市営の墓園に、一区画の墓地を求めてくれました。未だ誰も入る人が居なかったのですがお墓を作りました。義母が入り義父が入り、嫁いだ後に亡くなった娘のお骨の一部も、遠い地でお墓参りも頻繁には行けないので、嫁ぎ先から少しばかり頂いて来て、入れました。次は私達が入る番です。
 故郷のお墓は大谷祖廟にある親鸞上人のお墓を真似て、お墓に載せてある自然石もそっくりな石を、祖先が様々な谷筋を探させて載せたのだと聞きました。私達夫婦が京都へ行った時、親鸞上人の大谷祖廟へもお参りに行ったのですが、親鸞上人のお墓に載っている石と、私の実家のお墓の石が確かにそっくりであることを知りました。何となく親しみを感じました。お墓の上に載っている自然石に幾筋かの凹みが入っているのですが、その凹みの様子や丸みがとても良く似ているのです。
 親鸞上人のお墓は、早い頃はむき出しのお墓でしたが、その後お墓に囲いが出来て、入口でお茶の接待をしている人達がいました。今はどうなっているのでしょう。
 よくまあ似た石を探して来たものだと思っています。今は故郷も遠いので、毎年夏休みに通った実家も、長兄が更地にしましたし、墓地にはお墓だけが残って居ます。「多分もうお参りには来られません。有りがとう御座いました」とお礼参りに行って、今年で数年になります。
 私が嫁いだこの家の菩提寺は、京都駅のすぐ近くの智積院ですが、現在の墓地は、この市の大きな市営の霊園にあって、現在私達家族にはここが心の拠り所です。
 我が家の庭には小石を敷き詰めた石池があり、松やツゲの木や金木犀があり、薔薇も咲いているし揚羽蝶も舞って来る、ささやかですが、この住まいを作ってくれた義父母に感謝して過ごしています。
 年老いて墓地がこれ程心の支えになるとは思ってもみませんでした。安らかに眠れるお墓が在るということが嬉しいこの頃です。 

 密やかにこの世の最後の音立てて娘の骨は墓に納まる  あずさ
 

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奇跡的な出会い

2023年06月19日 | 随筆
 出会いとは何時も不思議なものですね。こんな処でこの様な人に出会うとは・・・、場所も不思議なら相手も折りに触れて不思議です。
 若い頃に勤め先の中学校の登山グループの仲間に混じって、立山に登った折のことです。私はかなり登って一休みしたくなり、ほぼ行列状態になっていた列の脇で、腰を降ろして休みました。既に相当な高さでしたから、道はつづら折れでしたが、傍に適当な石があり見晴らしも良く休むには丁度よかったのです。
 私は登山仲間の一人でしたが、やがて他の仲間達も追いついて来て、ほどよく繋がった列になりました。やがて仲良く登って来たのは、私の勤めていた中学校の同僚二人でした。その時初めて気付いたのですが、二人はお互いに好意を持って一緒に登っていたようでした。一人は男性の社会科の教師で、もう一人は国語科の女性教師でした。「あの二人なら価値観も同じ様だし良いカップルだなあ」と思いながら、その後は列のままに山頂にたどり付きました。
 夏でも雪のある場所もありましたし、登山経験の浅い私には全てが新鮮でした。雷鳥も岩場の茂みあたりを歩いて居たりして、ヒョコヒョコと歩いている様子は岩石と区別がつかないくらいに思えました。保護色とはこういう色のものかと、岩場を歩く雷鳥と近づいたり離れたりしながら歩いていました。素晴らしい登山の経験でした。
 やがて時は過ぎてその職場で三年の月日が流れ、私は転勤して新しい職場に移動しました。同じ学校区の同僚と研究会というか、折々に周辺の学校の職員が集まって研修をする事がありましたから、沢山の人達との仲間意識が次第に育まれていきました。
 そんな或る日の事です。突然の訃報が届きました。あの仲の良かった二人の教師の一人(Aさん)が突然自死してしまったのです。何故?何故?と思うばかりで、若かった私には当時の彼女の心を充分理解出来なかったのです。
 やがて日々の生活に戻って、世の中は何事も無かったように日々が過ぎて行くようになりました。そんな或る日、私に突然の来客がありました。年配の女性はあの時の彼女のお母様でした。職場で何があったのか聞かれたのですが、私は上手く答える事ができませんでした。
 「噂になるような好きな人はいたのでしょうか?」とお母様が聞かれました。「いいえ」と私はオウム返しに否定しました。当時は今と違って、古い価値観に支配されていましたので、特に男女関係には敏感に反応していましたし,当然のことと思って胸を張ってしっかり答えたつもりでした。
 するとお母様は一瞬黙ったのですが「私はそのような事があって欲しかったです」といわれたので、私は絶句してしまいました。「あの年まで生きていて、好きな人が一人もいないと云うのは不憫です」とうつむき加減にお母様が仰いました。私は何も言えず、<母親とはこう言うものなのか>と胸を突き動かされる思いがしました。当時の私はそのような親心を察する事が出来なかったのでした。
 その後私は再び立山に登る機会に恵まれました。私の故郷の家のお隣に、冬の立山で遭難された男子医学生の父上と云われる人が、時折尋ねて見えました。その頃には、私も年齢を重ねていましたし、他人の私生活にとやかく口を挟まないように、母にも教えてもらっていましたから、見て見ぬ振りになりました。
 この人達は皆さん善良で、回りの人々の幸せを願い、気を遣って暮らして居る事が良く解ったのでした。遠くて近い思い出です。 一人一人が自分の人生に責任を持つことをしっかり考えて、一生懸命生きて居た時代でした。若いと言う事は今も昔も同じで、きっとそれぞれの人生を精一杯生きていたのだと思っています。
 時には立山の雷鳥の様に、<保護色>になって、安全な場所で安心して生きて行けるようだったら良いなと思っています。
 


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