『PK ピーケイ』を新宿のシネマカリテで見ました。
(1)久しぶりのインド映画ということで映画館に行きました。
本作(注1)の冒頭では、「本作はフィクションであり、如何なる個人も、社会も、宗教も傷つける意図はありません」との字幕が出て、「銀河は、他にも20億個以上もあり、それらを形成する星の中には人間に似た生物がひょっとしたらいるかもしれない」「その星の人が地球の探索に来ているかもしれない」などという説明がなされます。
そして、先ずは月が、その次には地球が、さらに空中を流れる雲が映し出され、その雲の中から巨大な円盤状の宇宙船が地球に降下してきます。
その宇宙船から、裸の男〔のちにPK(注2)と言われます:アーミル・カーン〕が地上に降り立ち、宇宙船の方は再び上昇します
場所は、インドのラジャスタ-ン。何もない砂漠のようなところで、鉄道の線路が1本走っているだけ。
丁度貨物列車が通りかかり、そのそばで男が歩いているのがPKに見えてきます。
PKが男に走り寄ると、ラジカセを持っているその男もPKをまじまじと見ます。そして男は、PKが首からぶら下げているペンダントのようなものを奪い取ると、走って逃げ出します。
それはPKが宇宙船と連絡を取るためのリモコンですから、それがなければ、PKは自分の星に戻ることができません。
PKは必死になって男の後を追いかけます。ですが、男は、走っている貨車に飛び乗って行ってしまいます。PKは、かろうじて、男が肩にかけていたラジカセを奪い取りました。ですが、リモコンを奪われ、言葉がわからず、友達もいない状況で、どうやって元の星に帰ることができるのでしょうか?
場所は変わって、インドから5000kmも離れたベルギーのブルージュ。
インドからの留学生ジャグー(アヌシュカ・シャルマ)は、インドの大スターの公演を見ようと自転車を走らせます。
会場に着くと既に満席で、中に入るためにはダフ屋からチケットを買わざるを得ません。
値段を訊くと、正規の料金の倍以上の100ユーロ。
ジャグーは諦めて帰ろうとすると、青年・サルファラーズ(スシャント・シン・ラージプート)が現れ、半分ずつ出し合ってチケットを買おうと提案します(注3)。
しかし、二人のお金を合わせてもあと4ユーロ足りません。そこで、近くにいた男に助けを求めると、なんとその男が100ユーロでそのチケットを購入して劇場に入ってしまいます。
二人は怒りますが後の祭り。
ただ、これがきっかけとなって、ジャグーとサルファラーズは恋に落ちるのですが、さて、このラブストーリーと先程のPKの話とは、どのようにつながっていくのでしょうか、そしてPKは自分の星に戻ることができるのでしょうか、………?
本作は、地球によく似た星から地球にやってきた異星人の物語。円盤からインドに降りてきた異星人は、円盤と交信できる大事なリモコンをインド人の男に取られてしまい、それを取り返そうと奔走する中で、テレビ局の若い女性レポーターに恋してしまいます。本作は、SF物であり、ラブストーリーでもあり、さらにはインドで勢力がある種々の宗派の問題を扱っているコメディという何でもありの作品で、見終わると実に楽しい気分になること請け合いです。
(2)本作では、最初の方で描かれるジャグーとサルファラーズとのラブストーリーの後に、PKのリモコン探しの長い物語が挿入されますが、最後には2つの物語が密接に絡み合うという展開になっていて、映画の構成がなかなか良く考えられているな、と思いました。
もちろん、そればかりでなく、PKを演じるアーミル・カーンが、50歳を超えていながらも、実に若々しい肉体を披露しつつ縦横の活躍を見せ、それが本作の大きな見ものとなっています(注4)。
それに、この映画を明るく盛り上げているのは、なんといっても、ヒロインを演じるアヌシュカ・シャルマの弾きれんばかりの若さと美貌ではないでしょうか(注5)。
さらに言えば、PKのリモコン探しの長い物語が、実はジャグーに対するPKの悲恋物語にもなっているのです(注6)。そして、その展開の仕方が、すぐ前に見た邦画の『ぼくのおじさん』にかなり類似しているので驚きます(注7)。
それと、そこでは宗教が色々と取り扱われています。
監督は、劇場用パンフレットに掲載されているインタビュー記事において、「ある段階で、私はある結論に辿りつきました。宗教というのは人が生み出したものだということです。人が宗教を創り出したわけで、間違いなく神が創ったものではありません。もし神が宗教を創り出したのだとしたら、きっとそこには1つの宗教しか存在しないはずなのです」と述べています。
そして、その見解の一つの現れが、「電話のかけ間違い」という大層興味深いコンセプトを巡る話なのでしょう。
ジャグーの家に転がり込んだPKが、外からかかってきた間違い電話に、ジャグーがウソのいい加減なことを答えているのを見て(注8)、自分がこれまで見てきた様々の宗教は「かけ間違い」によるものだと言い出すのです。おそらく、間違い電話に出た偽の神様がウソを言っているにもかかわらず、電話をかけた者はそれが神様の声だと思って信じ込んでいる、ということを現しているのでしょう。
その背景には、PKが、自分のリモコンを探し出そうと、いろいろな宗教の神様にお願いしたものの(注9)、何一つはかばかしい答えが返ってこなかったことがあります。
各宗教の対応がいい加減なのは、神と人々を繋ぐ役割を果たしている人が、間違った電話をかけて聞いた冗談を、まことしやかに人々に信じ込ませているからだ、とPKは考えているようです。
それで、PKは、ジャグーの父親(バリークシト・サーハニー)が崇敬する導師(ソウラブ・シュクラ)が開いている集会に乗り込んで、導師に反撃します(注10)。
今やTV局のレポーターになっているジャグーは、こうした光景をTVで流しますが、そのため、PKが提起する問題に人々の関心が集まり、話がどんどん膨らんで思いもよらない方向に展開していきます。
宗教とは何か、信じるとは何か、などという重たい話とラブストーリーが密接に絡み合って、ラストのクライマックスを迎えるわけですが、本作のこうした話の展開ぶりはなかなか良く練り込まれたものだと感心してしまいます(注11)。
(3)渡まち子氏は、「さまざまなジャンルをクロスオーバーしながら、宗教を皮肉る風刺が効いた社会派映画なのに、堅苦しいところは微塵もなく、インド伝統のマサラ・ムービーならではの明るさを保っているこの映画、滅多にお目にかかれない娯楽映画の快作だ」として85点をつけています。
中条省平氏は、「笑いと社会的メッセージに加えて、ラブストーリーとしても充実の1作で、とくにラストのドンデン返しでは観客を唖然とさせ、落涙を誘うだろう」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。
(注1)監督は、『きっと、うまくいく』のラージクマール・ヒラニ。
また、主演のアーミル・カーンは、『きっと、うまくいく』で見ました。
(注2)「PK」とはヒンディー語で“酔っ払い”を意味するそうです。おそらく、その宇宙人がわけのわからないことを言ったりするからでしょう。
(注3)公演(「Bachchan recites Bachchan」)の前半の詩の朗読はジャグーが、後半の演劇はサルファラーズが見るということで折り合います。ちなみに、この公演では、前半でR・バッチャンの詩の朗読が行われ、後半はA・バッチャンによる劇が演じられるようで、ジャグーはR・バッチャンの詩のファンであり、サルファラーズはA・バッチャンのファンだということになっています。
(注4)公式サイトの「INTRODUCTION」にあるように、アーミル・カーンは、「劇中では一切まばたきしないという荒業で、“PK”のぶっ飛んだキャラを表現してい」ます。
(注5)上記「注4」で触れた「INTRODUCTION」」では、「気丈で可憐でキュートでセクシーと四拍子そろった天井知らずのヒロイン力」とされています。
(注6)恋に敗れたPKは、自分の星に戻る際に、たくさんの電池を鞄にしまって持って帰ろうとします。ジャグーに「どうしてそんなことをするの?」と尋ねられ、PKは「戻ってから、録音した動物の声などをラジカセで聞くために必要」と答えます。ですが、PKがいない時にジャグーがカセットテープを聞いてみると、全てジャグーの声ばかり。そんなことから、ジャグーは、初めてPKの気持ちを知ることになるのですが、もうどうしようもありません。
(注7)『ぼくのおじさん』の主人公のおじさん(松田龍平)は、見合いの席で出会った稲葉エリー(真木よう子)に一目惚れしてハワイまで追いかけるのですが、結局は、わざわざ事実を告げることによって、彼女が有名菓子店の社長・青木(戸次重幸)と一緒になることを推し進めてしまいます。
それと同じように、PKは、ジャグーを愛することになるものの、真実を語ることによって、ジャグーとサルファラーズの恋が成就するように動いてしまいます。
(注8)病院に電話をかけたと思いこんでいる相手に、ジャグーは「その患者は今朝死にました」「死亡診断書に心臓麻痺と書きます」などとウソの答えをします。すると、PKは驚いて、「どうしてそんなことを?」とジャグーに尋ねます。すると、彼女は「冗談よ。彼はいつも間違ってかけてくるから」と答えます。それで、PKは、「わかった。人が神に電話をかけるが、それはかけ間違いで、電話をもらった方が冗談で答えるのだ」などと言います。
(注9)こちらのサイトでは、PKが巡礼した先について詳細な記事が掲載されています。
(注10)その集会で導師は、「妻が半年前から半身不随になっているが、医者は何もできない」と言った男に対し、「ヒマラヤの聖地にある寺院に8日間籠もって祈りなさい」と言うのですが、PKは「かけ間違いだ」と叫び、さらに導師に向かって、「あなたは、間違った電話番号をかけている。正しい神様に電話がかかったとしたら、ここから4000kmも離れたところに行きなさいなどと言うはずがない」などと反撃します。
(注11)ラストは、PKが星に戻ってから1年後ということで、再びPKが、ほかの異星人を引き連れて地球にやってきます。その際、PKは、他の異星人に対し、次の4か条を守るべしと注意します。
・地球では、裸で歩いてはならない。
・言葉が難しい。
・衣服は「踊る車」から調達し、リモコンを下着の中に隠せ。
・神様に会わせるというやつがいたら、とっとと逃げ出せ。
4番目のものは、本作全体の雰囲気にとても合致しているように思われます。
★★★★☆☆
象のロケット:PK(ピーケイ)
(1)久しぶりのインド映画ということで映画館に行きました。
本作(注1)の冒頭では、「本作はフィクションであり、如何なる個人も、社会も、宗教も傷つける意図はありません」との字幕が出て、「銀河は、他にも20億個以上もあり、それらを形成する星の中には人間に似た生物がひょっとしたらいるかもしれない」「その星の人が地球の探索に来ているかもしれない」などという説明がなされます。
そして、先ずは月が、その次には地球が、さらに空中を流れる雲が映し出され、その雲の中から巨大な円盤状の宇宙船が地球に降下してきます。
その宇宙船から、裸の男〔のちにPK(注2)と言われます:アーミル・カーン〕が地上に降り立ち、宇宙船の方は再び上昇します
場所は、インドのラジャスタ-ン。何もない砂漠のようなところで、鉄道の線路が1本走っているだけ。
丁度貨物列車が通りかかり、そのそばで男が歩いているのがPKに見えてきます。
PKが男に走り寄ると、ラジカセを持っているその男もPKをまじまじと見ます。そして男は、PKが首からぶら下げているペンダントのようなものを奪い取ると、走って逃げ出します。
それはPKが宇宙船と連絡を取るためのリモコンですから、それがなければ、PKは自分の星に戻ることができません。
PKは必死になって男の後を追いかけます。ですが、男は、走っている貨車に飛び乗って行ってしまいます。PKは、かろうじて、男が肩にかけていたラジカセを奪い取りました。ですが、リモコンを奪われ、言葉がわからず、友達もいない状況で、どうやって元の星に帰ることができるのでしょうか?
場所は変わって、インドから5000kmも離れたベルギーのブルージュ。
インドからの留学生ジャグー(アヌシュカ・シャルマ)は、インドの大スターの公演を見ようと自転車を走らせます。
会場に着くと既に満席で、中に入るためにはダフ屋からチケットを買わざるを得ません。
値段を訊くと、正規の料金の倍以上の100ユーロ。
ジャグーは諦めて帰ろうとすると、青年・サルファラーズ(スシャント・シン・ラージプート)が現れ、半分ずつ出し合ってチケットを買おうと提案します(注3)。
しかし、二人のお金を合わせてもあと4ユーロ足りません。そこで、近くにいた男に助けを求めると、なんとその男が100ユーロでそのチケットを購入して劇場に入ってしまいます。
二人は怒りますが後の祭り。
ただ、これがきっかけとなって、ジャグーとサルファラーズは恋に落ちるのですが、さて、このラブストーリーと先程のPKの話とは、どのようにつながっていくのでしょうか、そしてPKは自分の星に戻ることができるのでしょうか、………?
本作は、地球によく似た星から地球にやってきた異星人の物語。円盤からインドに降りてきた異星人は、円盤と交信できる大事なリモコンをインド人の男に取られてしまい、それを取り返そうと奔走する中で、テレビ局の若い女性レポーターに恋してしまいます。本作は、SF物であり、ラブストーリーでもあり、さらにはインドで勢力がある種々の宗派の問題を扱っているコメディという何でもありの作品で、見終わると実に楽しい気分になること請け合いです。
(2)本作では、最初の方で描かれるジャグーとサルファラーズとのラブストーリーの後に、PKのリモコン探しの長い物語が挿入されますが、最後には2つの物語が密接に絡み合うという展開になっていて、映画の構成がなかなか良く考えられているな、と思いました。
もちろん、そればかりでなく、PKを演じるアーミル・カーンが、50歳を超えていながらも、実に若々しい肉体を披露しつつ縦横の活躍を見せ、それが本作の大きな見ものとなっています(注4)。
それに、この映画を明るく盛り上げているのは、なんといっても、ヒロインを演じるアヌシュカ・シャルマの弾きれんばかりの若さと美貌ではないでしょうか(注5)。
さらに言えば、PKのリモコン探しの長い物語が、実はジャグーに対するPKの悲恋物語にもなっているのです(注6)。そして、その展開の仕方が、すぐ前に見た邦画の『ぼくのおじさん』にかなり類似しているので驚きます(注7)。
それと、そこでは宗教が色々と取り扱われています。
監督は、劇場用パンフレットに掲載されているインタビュー記事において、「ある段階で、私はある結論に辿りつきました。宗教というのは人が生み出したものだということです。人が宗教を創り出したわけで、間違いなく神が創ったものではありません。もし神が宗教を創り出したのだとしたら、きっとそこには1つの宗教しか存在しないはずなのです」と述べています。
そして、その見解の一つの現れが、「電話のかけ間違い」という大層興味深いコンセプトを巡る話なのでしょう。
ジャグーの家に転がり込んだPKが、外からかかってきた間違い電話に、ジャグーがウソのいい加減なことを答えているのを見て(注8)、自分がこれまで見てきた様々の宗教は「かけ間違い」によるものだと言い出すのです。おそらく、間違い電話に出た偽の神様がウソを言っているにもかかわらず、電話をかけた者はそれが神様の声だと思って信じ込んでいる、ということを現しているのでしょう。
その背景には、PKが、自分のリモコンを探し出そうと、いろいろな宗教の神様にお願いしたものの(注9)、何一つはかばかしい答えが返ってこなかったことがあります。
各宗教の対応がいい加減なのは、神と人々を繋ぐ役割を果たしている人が、間違った電話をかけて聞いた冗談を、まことしやかに人々に信じ込ませているからだ、とPKは考えているようです。
それで、PKは、ジャグーの父親(バリークシト・サーハニー)が崇敬する導師(ソウラブ・シュクラ)が開いている集会に乗り込んで、導師に反撃します(注10)。
今やTV局のレポーターになっているジャグーは、こうした光景をTVで流しますが、そのため、PKが提起する問題に人々の関心が集まり、話がどんどん膨らんで思いもよらない方向に展開していきます。
宗教とは何か、信じるとは何か、などという重たい話とラブストーリーが密接に絡み合って、ラストのクライマックスを迎えるわけですが、本作のこうした話の展開ぶりはなかなか良く練り込まれたものだと感心してしまいます(注11)。
(3)渡まち子氏は、「さまざまなジャンルをクロスオーバーしながら、宗教を皮肉る風刺が効いた社会派映画なのに、堅苦しいところは微塵もなく、インド伝統のマサラ・ムービーならではの明るさを保っているこの映画、滅多にお目にかかれない娯楽映画の快作だ」として85点をつけています。
中条省平氏は、「笑いと社会的メッセージに加えて、ラブストーリーとしても充実の1作で、とくにラストのドンデン返しでは観客を唖然とさせ、落涙を誘うだろう」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。
(注1)監督は、『きっと、うまくいく』のラージクマール・ヒラニ。
また、主演のアーミル・カーンは、『きっと、うまくいく』で見ました。
(注2)「PK」とはヒンディー語で“酔っ払い”を意味するそうです。おそらく、その宇宙人がわけのわからないことを言ったりするからでしょう。
(注3)公演(「Bachchan recites Bachchan」)の前半の詩の朗読はジャグーが、後半の演劇はサルファラーズが見るということで折り合います。ちなみに、この公演では、前半でR・バッチャンの詩の朗読が行われ、後半はA・バッチャンによる劇が演じられるようで、ジャグーはR・バッチャンの詩のファンであり、サルファラーズはA・バッチャンのファンだということになっています。
(注4)公式サイトの「INTRODUCTION」にあるように、アーミル・カーンは、「劇中では一切まばたきしないという荒業で、“PK”のぶっ飛んだキャラを表現してい」ます。
(注5)上記「注4」で触れた「INTRODUCTION」」では、「気丈で可憐でキュートでセクシーと四拍子そろった天井知らずのヒロイン力」とされています。
(注6)恋に敗れたPKは、自分の星に戻る際に、たくさんの電池を鞄にしまって持って帰ろうとします。ジャグーに「どうしてそんなことをするの?」と尋ねられ、PKは「戻ってから、録音した動物の声などをラジカセで聞くために必要」と答えます。ですが、PKがいない時にジャグーがカセットテープを聞いてみると、全てジャグーの声ばかり。そんなことから、ジャグーは、初めてPKの気持ちを知ることになるのですが、もうどうしようもありません。
(注7)『ぼくのおじさん』の主人公のおじさん(松田龍平)は、見合いの席で出会った稲葉エリー(真木よう子)に一目惚れしてハワイまで追いかけるのですが、結局は、わざわざ事実を告げることによって、彼女が有名菓子店の社長・青木(戸次重幸)と一緒になることを推し進めてしまいます。
それと同じように、PKは、ジャグーを愛することになるものの、真実を語ることによって、ジャグーとサルファラーズの恋が成就するように動いてしまいます。
(注8)病院に電話をかけたと思いこんでいる相手に、ジャグーは「その患者は今朝死にました」「死亡診断書に心臓麻痺と書きます」などとウソの答えをします。すると、PKは驚いて、「どうしてそんなことを?」とジャグーに尋ねます。すると、彼女は「冗談よ。彼はいつも間違ってかけてくるから」と答えます。それで、PKは、「わかった。人が神に電話をかけるが、それはかけ間違いで、電話をもらった方が冗談で答えるのだ」などと言います。
(注9)こちらのサイトでは、PKが巡礼した先について詳細な記事が掲載されています。
(注10)その集会で導師は、「妻が半年前から半身不随になっているが、医者は何もできない」と言った男に対し、「ヒマラヤの聖地にある寺院に8日間籠もって祈りなさい」と言うのですが、PKは「かけ間違いだ」と叫び、さらに導師に向かって、「あなたは、間違った電話番号をかけている。正しい神様に電話がかかったとしたら、ここから4000kmも離れたところに行きなさいなどと言うはずがない」などと反撃します。
(注11)ラストは、PKが星に戻ってから1年後ということで、再びPKが、ほかの異星人を引き連れて地球にやってきます。その際、PKは、他の異星人に対し、次の4か条を守るべしと注意します。
・地球では、裸で歩いてはならない。
・言葉が難しい。
・衣服は「踊る車」から調達し、リモコンを下着の中に隠せ。
・神様に会わせるというやつがいたら、とっとと逃げ出せ。
4番目のものは、本作全体の雰囲気にとても合致しているように思われます。
★★★★☆☆
象のロケット:PK(ピーケイ)
石を投げれば当たるほどカーセックスが盛んな国とは知らんかった。
インドでスズキの車がよく売れるのも、そんな背景があるからなのでしょうか、よくわかりませんが。