
『善き人』を有楽町スバル座で見ました。
(1)スバル座は、今回が初めてということになります。
というのも、これまで同館は、「映写/スクリーンが大きく傾斜がフラット。見づらいことこの上なし」とか、「床が平坦なため前の席に座られるとやや頭が鬱陶しい」といわれていたので敬遠していたところ、そんなことはないとの意見をいただき行く機会を狙っていたのですが(注1)、漸くそれが実現したというわけです。
実際にも、スクリーンが上の方に設けられていますから、傾斜がフラットでも見辛いということはありませんでした。ただ、前方の「非常口」の誘導灯と天井の明かりが、本篇が開始されても点いたままとなっているのは、最近の映画館ではあまり見かけないのでどうしたことかなと思いました。
さて、本作(注2)の物語の時代は1930年代、場所はベルリン、そして主人公は大学教授のハルダー(ヴィゴ・モーテンセン)。
彼の家には、2人の子供と妻と母親がいます。ところが、母親は結核のようであり、また認知症気味で、いつも部屋のベットで寝ていて、何かというとハルダーを呼びます。また、妻ヘレンは、やや精神的に問題があるようで、ほとんどの時間ピアノばかり弾いていて、家事をあまりしません。
勢い、ハルダーが皆の食事を作ったりすることになり、その合間に本を読んだりしていて、家庭は、ほとんど崩壊寸前といった有様です(注3)。
あるとき、義父から、ナチに入党しないと大学教授の職を奪われてしまう、という話を聞きます。ですが、ハルダーは文学部教授で、大学では、プルーストについて講義していますし(注4)、また、皆と一緒にパレードに参加することなどを嫌ったりしていますから、入党については乗り気ではありません。
ところが、彼が以前書いた小説(注5)につき、ヒトラーが至極高い評価を与えていると知らされ(注6)、同時に入党を勧められ(注7)、断り切れずにとうとう入党してしまいます。
同じころ、学生のアン(ジョディ・ウィッテカー)が、ハルダーに惹かれて強く言い寄ってくることもあって、関係を持ってしまったことから、これまでの生活環境を一気に整理して、新しく出直そうとします(注8)。

やがてハルダーは、大学の学部長にまで昇進し、合わせて親衛隊の大尉にまでなりますが(注9)、かって大親友だったユダヤ人精神科医のモーリス(ジェイソン・アイザックス)との関係(注10)は絶縁状態になり、にもかかわらずその所在を追求するうちに、ナチが、障害者やユダヤ人対し実際に何をやっているのかを理解し、「これが現実か、……」と絶句してしまうのです。
見る前までは、ナチ時代における大学教授の暮らしぶり―これまであまり映画で描き出されてはいないように思われます―を垣間見ることができるのかな、と思っていましたが、それはある程度映し出されてはいるものの、結局のところはやっぱりユダヤ人の強制収容所の話に行き着いてしまいます。
時間は短いのですが、いつものとおり、ナチによる言語道断のユダヤ人取締とか強制収容所における非人道的な有様がスクリーン一杯に広がることになってしまいます。
そうなれば、ハルダーが悩みに悩んだ挙句に、ついにモーリスのために勇気をふるってしたことなども、強制収容所の有様からすれば、随分と矮小に見えてきてしまうのも仕方がないでしょう。なにしろ、一方にとっては、地位の保全とかプライドとかにかかわることで、本人にとっては大事かもしれないものの、他方にとっては生死にかかわる話なのですから!
本作に出演する俳優は、「指導者官房長」のフィリップ・ボウラー役のマーク・ストロング(『キック・アス』や『シャーロック・ホームズ』などに出演)を除いて知らない人ばかりですが、皆それらしい雰囲気を出していて好感が持てました。
(2)この映画のハルダーといい、昨年見た『ミケランジェロの暗号』のルディといい、腰がしっかり座っていない親衛隊員をこれで2人知ったことになります。
彼らのようなへなちょこ野郎が本当に親衛隊に入隊できるのかよくわかりませんが、少なくともハルダーについては、親衛隊のPRという面があったのでしょう。
そして、いずれも、その親友がユダヤ人であることが問題となってきます。
ただ、『ミケランジェロの暗号』の場合は、そのユダヤ人ヴィクトルを芸達者のモーリッツ・ブライブトロイが演じるのですから、一時は収容所に送られてしまうものの、とても一筋縄ではいかず、結局は、ルディの鼻を明かす結果となります。
他方、本作においては、ハルダーと親友のユダヤ人・モーリスとの関係は悲劇的です。

早いうちに国外へ脱出した方がいいと言われていたにもかかわらず、モーリスは、出国時に10マルクしか持ちだせないなんて受け入れられないとして、またハルダーも、モーリスは退役軍人だから監禁されるようなことはないなどと言うものですから、ついつい脱出が遅れてしまい、危難が徐々に迫ってきます(注11)。
そこでモーリスは、出国許可証とパリまでの列車切符の取得をハルダーに依頼します(「親衛隊に所属しているのだから、何でもできるだろう」と言って)。ですが、ハルダーはなかなかうまく手配することができませんでした。
やっとのことで切符を購入するも(上司のフレディ少佐の出国許可証を使って)、自分は急な仕事で外出しなければならなくなって、それをモーリスに渡すのを妻のアンに託したところ、とんでもないことが起きてしまいます(注12)。
その後ハルダーは、モーリスが送り込まれたとされるシレジアの収容所に出かけて会おうとしますが(「調査官」の肩書で)、収容所長は、送り込まれたユダヤ人は、その番号しか分からず、またそのうちの大多数(10人のうちの9人)は送り込まれた直後に処分されてしまうと話します。
ハルダーはその時になってようやく、自分らのしていることが大変な事態をもたらしていることを理解するに至るのです。
(3)この映画のタイトル「善き人」から、『善き人のためのソナタ』(2006年)→出演者の一人のセバスチャン・コッホ→『ヒトラーの建築家 アルベルト・シュペーア』(2005年:クマネズミはレンタルDVDで見ました:関係者の証言とドラマとを織り交ぜてあります)という経路でシュペーアにたどりつくと、いうまでもありませんが、本作のハルダーとは対極的な民間人も当時のドイツにいたことが確認されます。

すなわち、民間の建築家にすぎなかったシュペーアは、26歳の時に進んでナチ党に入党し、その後ゲッペルス経由でヒトラーの知遇を得、「ヒトラーの内輪の仲間の重要な一員かつ親しい友人」となって、ついには37歳で「軍需相」にまでになります。
にもかかわらず、ニュルンベルク裁判では、死刑を免れ禁固20年の刑を言い渡されます。
ただ、ユダヤ人虐殺には関与していなかったとされることについては、彼がそのことを知らなかったはずがないと考えられているようです。
第三帝国における民間人の生き方としては、むしろこうしたシュペーア(大臣のではなく、生活人としての)の方が、もしかしたら普通ではないかとも考えられます。すなわち、現状の善し悪しをハルダーのように思い悩むというよりも、あるがままの現状を受け入れて、その中で自分ができることを淡々と(あるいは積極的に)こなしていく、といった生き方です。しかし、そのことが、結果としてはユダヤ人虐殺の黙認という大層恐ろしい結果をもたらしてしまうわけでしょうが!
(4)読売新聞の福永聖二記者は、「ジョンは「善き人」というより、意気地なし。親友の悲劇に怒りを覚える彼自身、行動できなかったという非があるのだ。自分も同じかもしれないと思いつつ、なかなか共感できない。快哉を叫ぶことも、涙を流すこともできず、ただ苦いものが後に残る」と述べています。
(注1)昨年8月29日のエントリのコメント欄をご覧ください。
(注2)元々は、英国の劇作家C・P・テイラーが書いた同名の舞台劇(1981年)でした。従って、会話の大部分は英語でなされます。
(注3)ある時は、母親が誤って階段から転げ落ちている一方で、台所ではヘレンが料理をするも焦げ付かせてしまい、またその部屋では調律師がピアノの調律を行っているという有様です。
(注4)学部長からは、プルーストの母親がユダヤ人だからでしょう、その講義はやめるよう指示されます。なにしろ、窓の外では、思想的な問題がある著書などが山積みにされて、火をつけられてるのですから。
(注5)不治の病に侵された妻を夫が安楽死させるというストーリーのようです。
(注6)指導者官房長のフィリップ・ボウラーから直接言われます。なお、このボウラーは、Wikipediaによれば、「ナチス文芸保護審査委員会会長」でもあり、またT4作戦(優生学思想に基づき行われた安楽死政策)の責任者でもあります。
(注7)特に親衛隊少佐のフレディ(ステーヴン・マッキントッシュ)から強く勧められます。フレディ少佐は、小説で名が知れている大学教授が入隊したとなれば、親衛隊にとって大きな宣伝効果があると考えたようです。
なお、後からフレディ少佐は、ハルダーに、親衛隊の中では子作りが強く求められていて、子供がいない自分は少佐止まりだと嘆いたりします。
(注8)母親を実家に預け、妻ヘレンと子供とは別れ、アンと再婚します。
母親は、ヘレンと元の家で一緒に暮らしたいと言い、それはできないとハルダーに言われると、隙を見て薬を大量に飲んで自殺しようとします。その時は、ハルダーがそれを吐き出させて事なきを得ますが、余り時を置かずに死んでしまいます。
なお、その葬儀に参加した元の妻ヘレンの様子を見ると、ピアノ教室で忙しくしていて、今や精神的にはすっかり回復している様子です(「2人の子供にとっても、親衛隊のあなたは誇りだ」などとヘレンは言うのです)。
(注9)さらに1938年には、ハルダーの小説の映画化が進み、撮影所にゲッペルス大臣夫妻が激励に訪れたりします。その時に、ハルダーは妻のアンを紹介しますが、ゲッペルスは「生粋のアーリア人だな」と称賛します。
(注10)ハルダーはモーリスと、第1次大戦では戦友でもあったようで、ヒトラーについて、「彼はイーペルで伍長で、使い走りにすぎなかった」などと笑いあったりしています(こちらの記事では、ヒトラーについての言及があります)。
なお、ハルダーにも戦争経験があるとすると、親衛隊の制服を着用したときのぎこちなさには、少々納得できない感じもしますが。
(注11)例えば、タイプライターを没収されてしまったり、45歳以下のアーリア人を雇うことができなくなってしまったりします。
(注12)ハルダーは、ゲシュタポに出向いてモーリスの行方をそれとなく調査していたところ、検挙者にかかる情報を網羅的に文書にして保管している機関で、モーリスが検挙されてシレジアの収容所(アウシュヴィッツでしょう)に送られたことが分かります。
ただそれだけでなく、その検挙にあたっては、ハルダーの妻が情報を警察に通報した旨が記載されていたのです。
★★★☆☆
象のロケット:善き人
(1)スバル座は、今回が初めてということになります。
というのも、これまで同館は、「映写/スクリーンが大きく傾斜がフラット。見づらいことこの上なし」とか、「床が平坦なため前の席に座られるとやや頭が鬱陶しい」といわれていたので敬遠していたところ、そんなことはないとの意見をいただき行く機会を狙っていたのですが(注1)、漸くそれが実現したというわけです。
実際にも、スクリーンが上の方に設けられていますから、傾斜がフラットでも見辛いということはありませんでした。ただ、前方の「非常口」の誘導灯と天井の明かりが、本篇が開始されても点いたままとなっているのは、最近の映画館ではあまり見かけないのでどうしたことかなと思いました。
さて、本作(注2)の物語の時代は1930年代、場所はベルリン、そして主人公は大学教授のハルダー(ヴィゴ・モーテンセン)。
彼の家には、2人の子供と妻と母親がいます。ところが、母親は結核のようであり、また認知症気味で、いつも部屋のベットで寝ていて、何かというとハルダーを呼びます。また、妻ヘレンは、やや精神的に問題があるようで、ほとんどの時間ピアノばかり弾いていて、家事をあまりしません。
勢い、ハルダーが皆の食事を作ったりすることになり、その合間に本を読んだりしていて、家庭は、ほとんど崩壊寸前といった有様です(注3)。
あるとき、義父から、ナチに入党しないと大学教授の職を奪われてしまう、という話を聞きます。ですが、ハルダーは文学部教授で、大学では、プルーストについて講義していますし(注4)、また、皆と一緒にパレードに参加することなどを嫌ったりしていますから、入党については乗り気ではありません。
ところが、彼が以前書いた小説(注5)につき、ヒトラーが至極高い評価を与えていると知らされ(注6)、同時に入党を勧められ(注7)、断り切れずにとうとう入党してしまいます。
同じころ、学生のアン(ジョディ・ウィッテカー)が、ハルダーに惹かれて強く言い寄ってくることもあって、関係を持ってしまったことから、これまでの生活環境を一気に整理して、新しく出直そうとします(注8)。

やがてハルダーは、大学の学部長にまで昇進し、合わせて親衛隊の大尉にまでなりますが(注9)、かって大親友だったユダヤ人精神科医のモーリス(ジェイソン・アイザックス)との関係(注10)は絶縁状態になり、にもかかわらずその所在を追求するうちに、ナチが、障害者やユダヤ人対し実際に何をやっているのかを理解し、「これが現実か、……」と絶句してしまうのです。
見る前までは、ナチ時代における大学教授の暮らしぶり―これまであまり映画で描き出されてはいないように思われます―を垣間見ることができるのかな、と思っていましたが、それはある程度映し出されてはいるものの、結局のところはやっぱりユダヤ人の強制収容所の話に行き着いてしまいます。
時間は短いのですが、いつものとおり、ナチによる言語道断のユダヤ人取締とか強制収容所における非人道的な有様がスクリーン一杯に広がることになってしまいます。
そうなれば、ハルダーが悩みに悩んだ挙句に、ついにモーリスのために勇気をふるってしたことなども、強制収容所の有様からすれば、随分と矮小に見えてきてしまうのも仕方がないでしょう。なにしろ、一方にとっては、地位の保全とかプライドとかにかかわることで、本人にとっては大事かもしれないものの、他方にとっては生死にかかわる話なのですから!
本作に出演する俳優は、「指導者官房長」のフィリップ・ボウラー役のマーク・ストロング(『キック・アス』や『シャーロック・ホームズ』などに出演)を除いて知らない人ばかりですが、皆それらしい雰囲気を出していて好感が持てました。
(2)この映画のハルダーといい、昨年見た『ミケランジェロの暗号』のルディといい、腰がしっかり座っていない親衛隊員をこれで2人知ったことになります。
彼らのようなへなちょこ野郎が本当に親衛隊に入隊できるのかよくわかりませんが、少なくともハルダーについては、親衛隊のPRという面があったのでしょう。
そして、いずれも、その親友がユダヤ人であることが問題となってきます。
ただ、『ミケランジェロの暗号』の場合は、そのユダヤ人ヴィクトルを芸達者のモーリッツ・ブライブトロイが演じるのですから、一時は収容所に送られてしまうものの、とても一筋縄ではいかず、結局は、ルディの鼻を明かす結果となります。
他方、本作においては、ハルダーと親友のユダヤ人・モーリスとの関係は悲劇的です。

早いうちに国外へ脱出した方がいいと言われていたにもかかわらず、モーリスは、出国時に10マルクしか持ちだせないなんて受け入れられないとして、またハルダーも、モーリスは退役軍人だから監禁されるようなことはないなどと言うものですから、ついつい脱出が遅れてしまい、危難が徐々に迫ってきます(注11)。
そこでモーリスは、出国許可証とパリまでの列車切符の取得をハルダーに依頼します(「親衛隊に所属しているのだから、何でもできるだろう」と言って)。ですが、ハルダーはなかなかうまく手配することができませんでした。
やっとのことで切符を購入するも(上司のフレディ少佐の出国許可証を使って)、自分は急な仕事で外出しなければならなくなって、それをモーリスに渡すのを妻のアンに託したところ、とんでもないことが起きてしまいます(注12)。
その後ハルダーは、モーリスが送り込まれたとされるシレジアの収容所に出かけて会おうとしますが(「調査官」の肩書で)、収容所長は、送り込まれたユダヤ人は、その番号しか分からず、またそのうちの大多数(10人のうちの9人)は送り込まれた直後に処分されてしまうと話します。
ハルダーはその時になってようやく、自分らのしていることが大変な事態をもたらしていることを理解するに至るのです。
(3)この映画のタイトル「善き人」から、『善き人のためのソナタ』(2006年)→出演者の一人のセバスチャン・コッホ→『ヒトラーの建築家 アルベルト・シュペーア』(2005年:クマネズミはレンタルDVDで見ました:関係者の証言とドラマとを織り交ぜてあります)という経路でシュペーアにたどりつくと、いうまでもありませんが、本作のハルダーとは対極的な民間人も当時のドイツにいたことが確認されます。

すなわち、民間の建築家にすぎなかったシュペーアは、26歳の時に進んでナチ党に入党し、その後ゲッペルス経由でヒトラーの知遇を得、「ヒトラーの内輪の仲間の重要な一員かつ親しい友人」となって、ついには37歳で「軍需相」にまでになります。
にもかかわらず、ニュルンベルク裁判では、死刑を免れ禁固20年の刑を言い渡されます。
ただ、ユダヤ人虐殺には関与していなかったとされることについては、彼がそのことを知らなかったはずがないと考えられているようです。
第三帝国における民間人の生き方としては、むしろこうしたシュペーア(大臣のではなく、生活人としての)の方が、もしかしたら普通ではないかとも考えられます。すなわち、現状の善し悪しをハルダーのように思い悩むというよりも、あるがままの現状を受け入れて、その中で自分ができることを淡々と(あるいは積極的に)こなしていく、といった生き方です。しかし、そのことが、結果としてはユダヤ人虐殺の黙認という大層恐ろしい結果をもたらしてしまうわけでしょうが!
(4)読売新聞の福永聖二記者は、「ジョンは「善き人」というより、意気地なし。親友の悲劇に怒りを覚える彼自身、行動できなかったという非があるのだ。自分も同じかもしれないと思いつつ、なかなか共感できない。快哉を叫ぶことも、涙を流すこともできず、ただ苦いものが後に残る」と述べています。
(注1)昨年8月29日のエントリのコメント欄をご覧ください。
(注2)元々は、英国の劇作家C・P・テイラーが書いた同名の舞台劇(1981年)でした。従って、会話の大部分は英語でなされます。
(注3)ある時は、母親が誤って階段から転げ落ちている一方で、台所ではヘレンが料理をするも焦げ付かせてしまい、またその部屋では調律師がピアノの調律を行っているという有様です。
(注4)学部長からは、プルーストの母親がユダヤ人だからでしょう、その講義はやめるよう指示されます。なにしろ、窓の外では、思想的な問題がある著書などが山積みにされて、火をつけられてるのですから。
(注5)不治の病に侵された妻を夫が安楽死させるというストーリーのようです。
(注6)指導者官房長のフィリップ・ボウラーから直接言われます。なお、このボウラーは、Wikipediaによれば、「ナチス文芸保護審査委員会会長」でもあり、またT4作戦(優生学思想に基づき行われた安楽死政策)の責任者でもあります。
(注7)特に親衛隊少佐のフレディ(ステーヴン・マッキントッシュ)から強く勧められます。フレディ少佐は、小説で名が知れている大学教授が入隊したとなれば、親衛隊にとって大きな宣伝効果があると考えたようです。
なお、後からフレディ少佐は、ハルダーに、親衛隊の中では子作りが強く求められていて、子供がいない自分は少佐止まりだと嘆いたりします。
(注8)母親を実家に預け、妻ヘレンと子供とは別れ、アンと再婚します。
母親は、ヘレンと元の家で一緒に暮らしたいと言い、それはできないとハルダーに言われると、隙を見て薬を大量に飲んで自殺しようとします。その時は、ハルダーがそれを吐き出させて事なきを得ますが、余り時を置かずに死んでしまいます。
なお、その葬儀に参加した元の妻ヘレンの様子を見ると、ピアノ教室で忙しくしていて、今や精神的にはすっかり回復している様子です(「2人の子供にとっても、親衛隊のあなたは誇りだ」などとヘレンは言うのです)。
(注9)さらに1938年には、ハルダーの小説の映画化が進み、撮影所にゲッペルス大臣夫妻が激励に訪れたりします。その時に、ハルダーは妻のアンを紹介しますが、ゲッペルスは「生粋のアーリア人だな」と称賛します。
(注10)ハルダーはモーリスと、第1次大戦では戦友でもあったようで、ヒトラーについて、「彼はイーペルで伍長で、使い走りにすぎなかった」などと笑いあったりしています(こちらの記事では、ヒトラーについての言及があります)。
なお、ハルダーにも戦争経験があるとすると、親衛隊の制服を着用したときのぎこちなさには、少々納得できない感じもしますが。
(注11)例えば、タイプライターを没収されてしまったり、45歳以下のアーリア人を雇うことができなくなってしまったりします。
(注12)ハルダーは、ゲシュタポに出向いてモーリスの行方をそれとなく調査していたところ、検挙者にかかる情報を網羅的に文書にして保管している機関で、モーリスが検挙されてシレジアの収容所(アウシュヴィッツでしょう)に送られたことが分かります。
ただそれだけでなく、その検挙にあたっては、ハルダーの妻が情報を警察に通報した旨が記載されていたのです。
★★★☆☆
象のロケット:善き人
そのことを偶然知って愕然とし、正気に戻った時、親友を守れなかった自分を悔いていたのでしょう。
ラストで幻視するシーンはこの映画の中で最も印象に残りました。
おっしゃるように印象に残るラストシーンを見ると、ヨーロッパにおいては、まだまだナチスのことは昨日の出来事なんだなと思いました。
確かにそんな気もしないではありませんが、「ドイツ民族そのもの」でなくとも、ナチスに対する周辺国の憎悪の気持ちは今もって変わらないようにも思えますし、逆に、「いつまでも怨念を清算できないアジアの状況」というのも、一部の動きといえないこともない気もして、「文化的成熟度」という視点で片が付くのか、はなはだ難しい問題ではないかと思います。