
『ソロモンの偽証(前篇・事件)』を新宿ピカデリーで見ました。
(1)宮部みゆき氏の原作の映画化だということで映画館に出向きました。
本作(注1)の冒頭の時点は現在で、大勢の生徒が校庭で運動をしている中学校の校門の前に、女性(尾野真千子)が立ち止まる姿が映し出されます。
彼女は、通用門の方に回って中に入り、咲いている桜の木を見上げた後、校長室に行きます。
校長室では、彼女が「卒業して以来23年ぶり、お世話になります」と挨拶すると、校長(余貴美子)が、「中原先生、いや藤野さん、過去の伝説を後に伝えるのが校長の使命。丸ごと全部話してください」と言います。

それで、中原(旧姓藤野)は、「ちょうど、腐りかけた果物みたいにバブルがはじけようとしていた時でした」と語り始めます。
場面が変わって1990年12月25日。
前夜からの雪でホワイトクリスマスの朝。
中学2年静の藤野(藤野涼子)の家では、刑事の父親(佐々木蔵之介)が帰宅するのと入れ違いに、涼子が学校に出かけます。
途中で、同じクラスの野田(前田航基)と合流、一緒に行くことに。
藤野が「野田君は何か動物を飼っているの?」と訊くと、野田は「この間カラスを」と答えたりします。二人は、中学で飼っているウサギの世話をするために、朝早く学校に向かっているのです。
校門の前に来ると雪かきをしている人がいたので、通用門に向かいますが、そこが閉まっているために、よじ登って二人は学校の中に入ります。
すると、雪の中から手のようなものが出ているのを見つけ、二人はそばの雪を掻き出します。
なんと見えてきたのは、クラスメートの卓也(望月歩)の顔面!

中学生の死体が校庭で見つかったことについて、警察と学校側は、屋上からの飛び降り自殺ということで処理します。
ですが、これは殺人事件であり、3人の生徒がやったのだという匿名の告発状がアチコチに届けられます。
さあ、一体どんなことになるのでしょうか、………?
年末の学校で起きた事件を巡っていろいろの人間が関与していることが次第に明らかになってきて、緊迫感が大きく盛り上げられ、さあこれからというところで『前篇・事件』が終了してしまうので、宙吊り状態で留め置かれ早く何とかしてくれという感じになりますが、『後篇・裁判』が公開されるまで(4月11日公開)、原作本は勿論のこと予告編などの情報は一切遮断しつつ(劇場用パンフレットや、本作をレビューしているブログは別として)、いったい事件の真相はどうなのかいろいろ考えてみる楽しみが与えられました。
(2)本作はサスペンス作品ですから、とにかく、上で申し上げた以上に細かな筋立てを明かすことは、できるだけ避けた方がいいように思われます。
それで、『後篇・裁判』の公開までのイライラを少しでも減らそうと、本作の公式サイトの最初のページに掲げられている写真で、ひとつ簡単な遊び(誰でも思いつきそうな)をしてみることといたしましょう。
その写真には、本作の事件に関与する中学生たちが、ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』を模して一堂に会しています。
それは本作のポスターに掲載されている写真でもあり(劇場用パンフレットの最初のページでも)、例えばこのサイトの記事では、ダ・ヴィンチの絵に描かれている使徒と本作の登場人物との関係が述べられています。
でも、そこではユダについては触れられていません。
本作の一番のキャッチコピーが「嘘つきは、大人のはじまり。」となっているのですから、この写真からユダに該当する登場人物を探し出してみたくなってしまいます。というのも、写真が『最後の晩餐』を踏まえているとしたら、その人物が真犯人だとはいえないにせよ、少なくとも何らかの嘘をついている可能性があり、その人物を巡って真相が明らかになると推測されるからですが。
そして、例えばこのサイトの記事によれば、中央のイエスの向かって左側に「ユダ、ペテロ、ヨハネ、(イエス)」が順に座っているとのこと。それをポスターの写真に当てはめてみると、どうやら倉田まり子(西畑澪花)がユダに該当すると考えられます(注2)。

と言っても、それが判明したからといって、『前篇・事件』における倉田まり子は、藤野の友達であり、彼女を単にサポートするだけですから、事件のことについては何一つわからないままなのですが、…(注3)。
加えて、本作のタイトルは「ソロモンの“偽証”」であり、単なる“嘘”ではなくて、法廷における「虚偽の陳述」(この記事)こそが問題になると考えられます。だとしたら、ダ・ヴィンチの絵で描かれているのは法廷の場面ではありませんから(それに、『前篇・事件』では肝心の裁判は未だ始まっていないのですから)、ここで申し上げたことはすべて意味のないことでしょう(単に、映画のPR活動にクマネズミが踊らされているだけのこと?)!
(3)ところで、話を真面目路線に戻すと、映画で描かれるのが中学生の殺人事件なので、間近にあった川崎中1殺害事件(2月20日)を思い出してしまい(注4)、随分のリアリティを感じざるを得ません。
とはいえ、本作の主な舞台は、現在から20年以上も前の1990年~1991年。なぜ、それほど以前の設定になっているのでしょう(注5)?
また、その頃は未だ裁判員制度導入前なのに(同制度は2009年から実施)、どうして陪審員による裁判が皆にすんなり受け入れられてしまうのでしょうか(注6)?
そもそも、中学生のレベルで、裁判というシステムについてどのくらい知識があるのでしょうか(注7)?
ですが、本作についていろいろ疑問の点が湧いてくるとしても(注8)、すべて『後篇・裁判』を見た上で検討すべき事柄でしょう。
とにかく、それを早く見せてもらわなければ話になりません!
(4)渡まち子氏は、「中学生たちが自ら校内裁判を開き隠された真実を暴こうとする姿を描くサスペンス「ソロモンの偽証 前篇・事件」。前篇は導入部ながらドラマも見ごたえ十分」として70点を付けています。
前田有一氏は、「映画を見ると、スタッフおよび既読者にとって当たり前の謎が、未読者には全く伝わっていない。これは大きな問題である」として55点しか付けていません(注9)。
日経新聞の古賀重樹氏は、「何よりこの映画の力となっているのは、反乱を起こす子供たちだ」が、「そこには社会と切り結ぶ意志と、それを体現する少年少女のしなやかな身体が欠かせない。成島出監督がフィルムで撮ったもの作品にはその両方がある」として★4つ(見逃せない)を付けています。
相木悟氏は、「役者陣と製作陣の直球の熱意に圧倒される、実に観応えのある力作であった」と述べています。
稲垣都々世氏は、「後篇ですべての謎が解き明かされるという構成だから、犯人捜しの興味をあおることはいくらでもできる。しかし、この前篇にはそんなあざとさが感じられな い。骨太な語り口と腰の据わった演出で、緊張感を持続させる。「つづく」で終わることにいら立つのでなく、ただ後篇を見たいと強く思った」と述べています。
読売新聞の福永聖二氏は、「中学生という時期特有の苦悩や純粋さ、残酷さが絶妙に描かれている」と述べています。
(注1)原作は、宮部みゆき著『ソロモンの偽証』(新潮文庫:未読)。
監督は、『ふしぎな岬の物語』や『草原の椅子』の成島出。
脚本は、『深夜食堂』(共同脚本)の真辺克彦。
(注2)公式サイトに掲載の写真の人物にカーソルを置くと俳優名が示されます。
(注3)なお、本文で触れたサイトの記事によれば、ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』では13人が描かれているのに対し、この写真では12人しか描かれておらず、「果たして存在しないのは誰なのか、そしてそこに込められた意図は何なのか」という疑問があるとのこと。劇場用パンフレットにおいて写真と経歴付きで紹介されている中学生キャストは12人しかいませんから、『後篇・裁判』では新たな中学生キャストに焦点が当てられるとも思えてきます。
ちなみに、このサイトの記事によれば、ダ・ヴィンチ以前の画家が「最後の晩餐」を描く場合には、ユダは12人とは同列に描かれなかったとのこと。そうだとしたら、この写真に入っていない13番目の人物がユダに該当するということになるのかもしれません。
また、ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』は、イエス・キリストが「あなた方のうちの一人が私を裏切る」といった瞬間を描いていますから、どうしてもユダに注目してしまいます。
ですが、ユダは、イエス・キリストを裏切ったにしても、“嘘”をついたとはいえないかもしれません。
むしろ、「最後の晩餐」で“嘘”をついたのは、あるいはペトロかもしれません。最後にイエス・キリストが「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度私のことを知らないと言うであろう」とペトロに告げた時、彼は、「あなたを知らないなどとは決して申しません」と言ったにもかかわらず、実際にはイエス・キリストの予言したとおりのことをやってしまうのですから。
ただ、結果的には“嘘”となりましたが、イエス・キリストに向かって言った時は正直に自分の心に従ったはずですから、ほんとうの意味での“嘘”ではないかもしれません(ただ、「最後の晩餐」が終わった後、外で他の人から「あなたも仲間の一人だ」と言われた時には、「いや違う」とそれこそ“嘘”をつきましたが)。
ともかく、仮にペトロが問題だとしたら、ポスターの写真で該当するのは野田(前田航基)でしょう。ですが、その場合には倉田まり子よりも情報量は多いとはいえ、事件の真相について何もわからないままであることに変わりありません。
(注4)伊東乾・東大准教授は、このサイトの記事において、川崎の事件につき、「歩いても10~20分、自転車なら数分程度のコンパクトな空間です。そんな「子供の小世界」が、大人の目の届かない、ある種のエアポケットになってしまったのではないか?あまりにも当たり前の街区の、あまりにも狭いエリアで、犯行から「証拠隠滅」までが閉じている。現地を歩いて感じたのは、むしろこの狭い「子供社会」の生活圏と、そこに張り巡らされた「ライン(LINE)」などの目に見えない情報ネットワーク、そしてそれらとむしろ社会的な距離を置いている「大人社会」との没交渉でした」と述べています。
本作で引き起こされた事件との関連性は、その全貌が『後編・裁判』を見なければわからないのでさておきますが、事件の真相解明を「学校のことは私たちが一番わかっている」から「自分たちで調べる」とする藤野達の姿勢には、そうした「狭い「子供社会」の生活圏」といったものが伺えるのではと思いました。
(注5)Wikipediaの「1990年」という項の「世相」には、「バブル景気最後の年である。翌年には土地バブルも崩壊し、平成不況へと突入していく」とありますが。
(注6)劇場用パンフレット掲載の「PRODUCTION NOTES」によれば、オーディションによって選ばれた中学生キャストたちは、「実在の裁判所に行って傍聴したり、『十二人の怒れる男』を観るなどして研究」したりしたとのこと。恐らく、そうでもしなければ裁判というシステムが実際にどんなものなのか、特に陪審員を設ける裁判について、当時も今も若い人たちはわからないのではないでしょうか?
(注7)劇場用パンフレット掲載の「BACKGROUND」によれば、「神戸高塚高校校門圧死事件」(1990年)について、各地の「高校や大学で、生徒たちが検察官や弁護人、証人などに分かれて模擬裁判が行われた」そうで、原作者の宮部みゆき氏は、これが物語のヒントになったと言っているとのこと。
やはり、学校内裁判を開催するにしても、高校生以上が行うのであればすんなりと受け入れることができるように思います。
とはいえ、劇場用パンフレットの「COLUMN」掲載のエッセイ「14歳―大人に取り込まれる前の、最後の砦」で金原由佳氏が、「その時期を通り抜けてきた者なら、14歳という年齢がいかに厄介だったか、容易に思い出せるだろう。親の口から発せられた何気ない一言が自分への不満や批判に聞こえ、学校の先生による一瞥がまるで尋問を受けているかのような冷ややかな眼差しに映る」云々と述べているのですが。
(注8)例えば、本作の公式サイトのタイトルの下部に「Fiat justitia, et pereat mundus」とありますが、どうしてこんなものが付けられているのでしょう?
ネットで調べてみると、これはラテン語で、「たとえ世界が滅びようとも、正義は行われよ」(劇場用パンフレットの最初のページに掲げられています)の意味〔この記事を参照してください(また、カントがこの格言についてどのように述べているのかについては、この記事を参照〕。
そうだとしたら、このラテン語の文章は、裁判(あるいは法)に関しての一般的な格言であって、本作の事件の真相追求に直接関係しないように思われるのですが?
(注9)確かに警察は、告発状の内容について、目撃者がなぜそんな時間にそこにいたのか、なぜ警察に連絡しなかったのか、など重大な疑義があり、虚偽だと判断しますが、それでも目撃者の方に何か特別な事情があったに違いないと考えてもおかしくありませんし、主役の藤野自身、警察の説明に納得していません。
さらに、被害者と以前友達だった神原(板垣瑞生)も、「柏木君はいじめられるタイプじゃない、夜中のノコノコ出かけるタイプでもない」と言うのです。
従って、前田氏は、「(警察の)主張はたしかに筋が通っており、普通の人ならこれ(被害者の死)が自殺であると納得せざるを得ない」と言い切っていますが、一方的に過ぎるのではないでしょうか?
★★★★☆☆
象のロケット:ソロモンの偽証 前篇・事件
(1)宮部みゆき氏の原作の映画化だということで映画館に出向きました。
本作(注1)の冒頭の時点は現在で、大勢の生徒が校庭で運動をしている中学校の校門の前に、女性(尾野真千子)が立ち止まる姿が映し出されます。
彼女は、通用門の方に回って中に入り、咲いている桜の木を見上げた後、校長室に行きます。
校長室では、彼女が「卒業して以来23年ぶり、お世話になります」と挨拶すると、校長(余貴美子)が、「中原先生、いや藤野さん、過去の伝説を後に伝えるのが校長の使命。丸ごと全部話してください」と言います。

それで、中原(旧姓藤野)は、「ちょうど、腐りかけた果物みたいにバブルがはじけようとしていた時でした」と語り始めます。
場面が変わって1990年12月25日。
前夜からの雪でホワイトクリスマスの朝。
中学2年静の藤野(藤野涼子)の家では、刑事の父親(佐々木蔵之介)が帰宅するのと入れ違いに、涼子が学校に出かけます。
途中で、同じクラスの野田(前田航基)と合流、一緒に行くことに。
藤野が「野田君は何か動物を飼っているの?」と訊くと、野田は「この間カラスを」と答えたりします。二人は、中学で飼っているウサギの世話をするために、朝早く学校に向かっているのです。
校門の前に来ると雪かきをしている人がいたので、通用門に向かいますが、そこが閉まっているために、よじ登って二人は学校の中に入ります。
すると、雪の中から手のようなものが出ているのを見つけ、二人はそばの雪を掻き出します。
なんと見えてきたのは、クラスメートの卓也(望月歩)の顔面!

中学生の死体が校庭で見つかったことについて、警察と学校側は、屋上からの飛び降り自殺ということで処理します。
ですが、これは殺人事件であり、3人の生徒がやったのだという匿名の告発状がアチコチに届けられます。
さあ、一体どんなことになるのでしょうか、………?
年末の学校で起きた事件を巡っていろいろの人間が関与していることが次第に明らかになってきて、緊迫感が大きく盛り上げられ、さあこれからというところで『前篇・事件』が終了してしまうので、宙吊り状態で留め置かれ早く何とかしてくれという感じになりますが、『後篇・裁判』が公開されるまで(4月11日公開)、原作本は勿論のこと予告編などの情報は一切遮断しつつ(劇場用パンフレットや、本作をレビューしているブログは別として)、いったい事件の真相はどうなのかいろいろ考えてみる楽しみが与えられました。
(2)本作はサスペンス作品ですから、とにかく、上で申し上げた以上に細かな筋立てを明かすことは、できるだけ避けた方がいいように思われます。
それで、『後篇・裁判』の公開までのイライラを少しでも減らそうと、本作の公式サイトの最初のページに掲げられている写真で、ひとつ簡単な遊び(誰でも思いつきそうな)をしてみることといたしましょう。
その写真には、本作の事件に関与する中学生たちが、ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』を模して一堂に会しています。
それは本作のポスターに掲載されている写真でもあり(劇場用パンフレットの最初のページでも)、例えばこのサイトの記事では、ダ・ヴィンチの絵に描かれている使徒と本作の登場人物との関係が述べられています。
でも、そこではユダについては触れられていません。
本作の一番のキャッチコピーが「嘘つきは、大人のはじまり。」となっているのですから、この写真からユダに該当する登場人物を探し出してみたくなってしまいます。というのも、写真が『最後の晩餐』を踏まえているとしたら、その人物が真犯人だとはいえないにせよ、少なくとも何らかの嘘をついている可能性があり、その人物を巡って真相が明らかになると推測されるからですが。
そして、例えばこのサイトの記事によれば、中央のイエスの向かって左側に「ユダ、ペテロ、ヨハネ、(イエス)」が順に座っているとのこと。それをポスターの写真に当てはめてみると、どうやら倉田まり子(西畑澪花)がユダに該当すると考えられます(注2)。

と言っても、それが判明したからといって、『前篇・事件』における倉田まり子は、藤野の友達であり、彼女を単にサポートするだけですから、事件のことについては何一つわからないままなのですが、…(注3)。
加えて、本作のタイトルは「ソロモンの“偽証”」であり、単なる“嘘”ではなくて、法廷における「虚偽の陳述」(この記事)こそが問題になると考えられます。だとしたら、ダ・ヴィンチの絵で描かれているのは法廷の場面ではありませんから(それに、『前篇・事件』では肝心の裁判は未だ始まっていないのですから)、ここで申し上げたことはすべて意味のないことでしょう(単に、映画のPR活動にクマネズミが踊らされているだけのこと?)!
(3)ところで、話を真面目路線に戻すと、映画で描かれるのが中学生の殺人事件なので、間近にあった川崎中1殺害事件(2月20日)を思い出してしまい(注4)、随分のリアリティを感じざるを得ません。
とはいえ、本作の主な舞台は、現在から20年以上も前の1990年~1991年。なぜ、それほど以前の設定になっているのでしょう(注5)?
また、その頃は未だ裁判員制度導入前なのに(同制度は2009年から実施)、どうして陪審員による裁判が皆にすんなり受け入れられてしまうのでしょうか(注6)?
そもそも、中学生のレベルで、裁判というシステムについてどのくらい知識があるのでしょうか(注7)?
ですが、本作についていろいろ疑問の点が湧いてくるとしても(注8)、すべて『後篇・裁判』を見た上で検討すべき事柄でしょう。
とにかく、それを早く見せてもらわなければ話になりません!
(4)渡まち子氏は、「中学生たちが自ら校内裁判を開き隠された真実を暴こうとする姿を描くサスペンス「ソロモンの偽証 前篇・事件」。前篇は導入部ながらドラマも見ごたえ十分」として70点を付けています。
前田有一氏は、「映画を見ると、スタッフおよび既読者にとって当たり前の謎が、未読者には全く伝わっていない。これは大きな問題である」として55点しか付けていません(注9)。
日経新聞の古賀重樹氏は、「何よりこの映画の力となっているのは、反乱を起こす子供たちだ」が、「そこには社会と切り結ぶ意志と、それを体現する少年少女のしなやかな身体が欠かせない。成島出監督がフィルムで撮ったもの作品にはその両方がある」として★4つ(見逃せない)を付けています。
相木悟氏は、「役者陣と製作陣の直球の熱意に圧倒される、実に観応えのある力作であった」と述べています。
稲垣都々世氏は、「後篇ですべての謎が解き明かされるという構成だから、犯人捜しの興味をあおることはいくらでもできる。しかし、この前篇にはそんなあざとさが感じられな い。骨太な語り口と腰の据わった演出で、緊張感を持続させる。「つづく」で終わることにいら立つのでなく、ただ後篇を見たいと強く思った」と述べています。
読売新聞の福永聖二氏は、「中学生という時期特有の苦悩や純粋さ、残酷さが絶妙に描かれている」と述べています。
(注1)原作は、宮部みゆき著『ソロモンの偽証』(新潮文庫:未読)。
監督は、『ふしぎな岬の物語』や『草原の椅子』の成島出。
脚本は、『深夜食堂』(共同脚本)の真辺克彦。
(注2)公式サイトに掲載の写真の人物にカーソルを置くと俳優名が示されます。
(注3)なお、本文で触れたサイトの記事によれば、ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』では13人が描かれているのに対し、この写真では12人しか描かれておらず、「果たして存在しないのは誰なのか、そしてそこに込められた意図は何なのか」という疑問があるとのこと。劇場用パンフレットにおいて写真と経歴付きで紹介されている中学生キャストは12人しかいませんから、『後篇・裁判』では新たな中学生キャストに焦点が当てられるとも思えてきます。
ちなみに、このサイトの記事によれば、ダ・ヴィンチ以前の画家が「最後の晩餐」を描く場合には、ユダは12人とは同列に描かれなかったとのこと。そうだとしたら、この写真に入っていない13番目の人物がユダに該当するということになるのかもしれません。
また、ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』は、イエス・キリストが「あなた方のうちの一人が私を裏切る」といった瞬間を描いていますから、どうしてもユダに注目してしまいます。
ですが、ユダは、イエス・キリストを裏切ったにしても、“嘘”をついたとはいえないかもしれません。
むしろ、「最後の晩餐」で“嘘”をついたのは、あるいはペトロかもしれません。最後にイエス・キリストが「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度私のことを知らないと言うであろう」とペトロに告げた時、彼は、「あなたを知らないなどとは決して申しません」と言ったにもかかわらず、実際にはイエス・キリストの予言したとおりのことをやってしまうのですから。
ただ、結果的には“嘘”となりましたが、イエス・キリストに向かって言った時は正直に自分の心に従ったはずですから、ほんとうの意味での“嘘”ではないかもしれません(ただ、「最後の晩餐」が終わった後、外で他の人から「あなたも仲間の一人だ」と言われた時には、「いや違う」とそれこそ“嘘”をつきましたが)。
ともかく、仮にペトロが問題だとしたら、ポスターの写真で該当するのは野田(前田航基)でしょう。ですが、その場合には倉田まり子よりも情報量は多いとはいえ、事件の真相について何もわからないままであることに変わりありません。
(注4)伊東乾・東大准教授は、このサイトの記事において、川崎の事件につき、「歩いても10~20分、自転車なら数分程度のコンパクトな空間です。そんな「子供の小世界」が、大人の目の届かない、ある種のエアポケットになってしまったのではないか?あまりにも当たり前の街区の、あまりにも狭いエリアで、犯行から「証拠隠滅」までが閉じている。現地を歩いて感じたのは、むしろこの狭い「子供社会」の生活圏と、そこに張り巡らされた「ライン(LINE)」などの目に見えない情報ネットワーク、そしてそれらとむしろ社会的な距離を置いている「大人社会」との没交渉でした」と述べています。
本作で引き起こされた事件との関連性は、その全貌が『後編・裁判』を見なければわからないのでさておきますが、事件の真相解明を「学校のことは私たちが一番わかっている」から「自分たちで調べる」とする藤野達の姿勢には、そうした「狭い「子供社会」の生活圏」といったものが伺えるのではと思いました。
(注5)Wikipediaの「1990年」という項の「世相」には、「バブル景気最後の年である。翌年には土地バブルも崩壊し、平成不況へと突入していく」とありますが。
(注6)劇場用パンフレット掲載の「PRODUCTION NOTES」によれば、オーディションによって選ばれた中学生キャストたちは、「実在の裁判所に行って傍聴したり、『十二人の怒れる男』を観るなどして研究」したりしたとのこと。恐らく、そうでもしなければ裁判というシステムが実際にどんなものなのか、特に陪審員を設ける裁判について、当時も今も若い人たちはわからないのではないでしょうか?
(注7)劇場用パンフレット掲載の「BACKGROUND」によれば、「神戸高塚高校校門圧死事件」(1990年)について、各地の「高校や大学で、生徒たちが検察官や弁護人、証人などに分かれて模擬裁判が行われた」そうで、原作者の宮部みゆき氏は、これが物語のヒントになったと言っているとのこと。
やはり、学校内裁判を開催するにしても、高校生以上が行うのであればすんなりと受け入れることができるように思います。
とはいえ、劇場用パンフレットの「COLUMN」掲載のエッセイ「14歳―大人に取り込まれる前の、最後の砦」で金原由佳氏が、「その時期を通り抜けてきた者なら、14歳という年齢がいかに厄介だったか、容易に思い出せるだろう。親の口から発せられた何気ない一言が自分への不満や批判に聞こえ、学校の先生による一瞥がまるで尋問を受けているかのような冷ややかな眼差しに映る」云々と述べているのですが。
(注8)例えば、本作の公式サイトのタイトルの下部に「Fiat justitia, et pereat mundus」とありますが、どうしてこんなものが付けられているのでしょう?
ネットで調べてみると、これはラテン語で、「たとえ世界が滅びようとも、正義は行われよ」(劇場用パンフレットの最初のページに掲げられています)の意味〔この記事を参照してください(また、カントがこの格言についてどのように述べているのかについては、この記事を参照〕。
そうだとしたら、このラテン語の文章は、裁判(あるいは法)に関しての一般的な格言であって、本作の事件の真相追求に直接関係しないように思われるのですが?
(注9)確かに警察は、告発状の内容について、目撃者がなぜそんな時間にそこにいたのか、なぜ警察に連絡しなかったのか、など重大な疑義があり、虚偽だと判断しますが、それでも目撃者の方に何か特別な事情があったに違いないと考えてもおかしくありませんし、主役の藤野自身、警察の説明に納得していません。
さらに、被害者と以前友達だった神原(板垣瑞生)も、「柏木君はいじめられるタイプじゃない、夜中のノコノコ出かけるタイプでもない」と言うのです。
従って、前田氏は、「(警察の)主張はたしかに筋が通っており、普通の人ならこれ(被害者の死)が自殺であると納得せざるを得ない」と言い切っていますが、一方的に過ぎるのではないでしょうか?
★★★★☆☆
象のロケット:ソロモンの偽証 前篇・事件
逆にこれを映像化すると、映画、ドラマが負けてしまう作品が多く、それは長さだったり、深みだったり、表現しきれないという何とも映画化するのに二の足を踏む、監督、制作泣かせの原作者ではないでしょうか?
しかし映像化したいという欲求に駆られる小説家とも言えますね。
さてこの作品は、終わった後原作を読んでみる気にさせられました。前編は、面白かったし、お預けを食らった悔しさいっぱいにさせられました(^^)
TBこちらからもお願いします。
おっしゃるように、「この作品は、終わった後原作を読んでみる気にさせられま」すね。
でも、『後編・裁判』を楽しむためにも、そして原作が文庫本で6冊という膨大なものでもあり、クマネズミはとっくに断念しております。