ちょっと面白い本があって、読んでます。
世界中のベジタリアンを紹介している方が日本に居て、その方がその本の中で日本人のベジタリアンとしては宮沢賢治だけを紹介しているのです。
宮沢賢治の時代はベジタリアンは流行のようなものだったそうで、特に珍しくは無かったそうです。
ただ、宮沢賢治がベジタリアンになった理由をこの方が紹介しているのですが、「へ~、なるほど」と思うようなものなのです。
日本ではベジタリアンは、菜食主義者と訳されることもあり、自分の健康のために、という人が多いような印象を受けます。
でも、実際に、高柳さんのところにくる海外の農業ボランティアの子などもそうですが、世界的に言うと「肉食を辞めることで世界が平和になる」といった知識・情報・思考をもって、「肉食を辞めよう」と決める人が多いのです。
肉食というのは、まず命が明確に見える動物を殺すことになるということ。
そして、家畜を育てるために、飼料穀物がグローバリズムの中の商材として作られるため、例えば日本の商社がアマゾンを開墾して大豆を育てているように、環境破壊、国の経済格差の助長、資源戦争などの争いを生んでいるということ。
そして、高タンパク高脂質の肉は病気を起こすということ。
こういったことを知るにつけ、「世界の争いの大きな原因の1つにも加担しているし、健康にも良くない肉食を辞めよう」といってベジタリアン、最近ではビーガンになる人が多いようです。
しかし、宮沢賢治はこういった理由というよりは、著者の話だと、思考ではなく直感的なものや自然の中の人間、という観点でベジタリアンになったと言います。
まず、と殺場を訪れた時の日記や詩、あるいは「いきものや いきものや いきものや」といった句を読んでいて、生き物に対して直感的に哀れみというか悲しみを覚えています。
そして、宮沢賢治はご存知のとおり、法華経の熱狂的な信者でした。
以前、テレビで見て知ったのですが、一番有名な「雨ニモマケズ・・・」は、最後は「そういふものにわたしはなりたい」で終わっているのではなく、その後に「南無妙法蓮華経」といった般若信教のようなものも書いてあるそうなのですね。
そんな宮沢賢治の中には、直感的にも法華経的にも「自然界の輪廻転生」を心底考えていたようで、例えば、自分もいつ牛に生まれてくるかわからない、馬に生まれてくるかわからない、食べられる側になるかわからない、と思っていたようです。
こういった切り口で、この本では、宮沢賢治の著作を読み返すと、この視点で書かれている、というのです。
例えば、「注文の多い料理店」では、都会から銃を使いたくて狩猟にやってきたハンターが、ヤマネコに食べられそうになる、といったお話になっています。
熊の狩猟を生業にしていた人の話、カタツムリなどを騙して捕食していたナメクジなどが最後はエサになってしまう話、虫などを食べていたヨダカがタカに命を狙われて虫を食べる側だったのが捕食される側になって悩んで夜の彼方へ飛んで星になった話、クラムポンは死んじゃった…で始まり捕食者だった魚がいつの間にかカワセミに食べられてしまったやまなしというお話などなど。
そういったところから、食べる側と食べられる側という両方の立場というか、自然の流れに心を向け、それが悪いこととは言わないけど、理解をする必要はある、といった主張があったのではないか、というのです。
なるほどね~、と思いました。
これまたテレビで見たのですが、仏教では功徳を積むという思想があります。
現生で功徳を積み、過去の罪などを落とし、次は菩薩として生まれ変わる、といった考えです。
チベットだったかどこかの山奥では、死んだら鳥葬といって、死骸を鳥に食べてもらう習慣がまだあるそうで、鳥葬士という人もいて、その人に任せながら、ハゲタカに家族の死体を食べてもらう。それを見守る家族は「死んだ自分の肉体を他の生き物に与える功徳を最後に積んだ」と思って見送るんです。
それを見た時は、う~ん、と思っていたのですが、今回の本を読んで、ちょっと理解が出来ました。
宮沢賢治の本にもいくつか出てくるそうなのですが、例えば、虫を取って生きていたスズメが最後は自分の体を他の生き物に供物としてささげることで、菩薩になる、というのがあるそうなのです。
法華経の考えでもあるのでしょうが、自分も色々な生き物のい命を食べて生きながらえてきた。だから自分もいつか誰かのための命のために肉体を差し出すのは大宇宙の法則の1つに沿った考えなんです、というのが宮沢賢治の思想の根底に流れているようなのです。
なるほどな~と思いました。
面白いですね~。
世界中のベジタリアンを紹介している方が日本に居て、その方がその本の中で日本人のベジタリアンとしては宮沢賢治だけを紹介しているのです。
宮沢賢治の時代はベジタリアンは流行のようなものだったそうで、特に珍しくは無かったそうです。
ただ、宮沢賢治がベジタリアンになった理由をこの方が紹介しているのですが、「へ~、なるほど」と思うようなものなのです。
日本ではベジタリアンは、菜食主義者と訳されることもあり、自分の健康のために、という人が多いような印象を受けます。
でも、実際に、高柳さんのところにくる海外の農業ボランティアの子などもそうですが、世界的に言うと「肉食を辞めることで世界が平和になる」といった知識・情報・思考をもって、「肉食を辞めよう」と決める人が多いのです。
肉食というのは、まず命が明確に見える動物を殺すことになるということ。
そして、家畜を育てるために、飼料穀物がグローバリズムの中の商材として作られるため、例えば日本の商社がアマゾンを開墾して大豆を育てているように、環境破壊、国の経済格差の助長、資源戦争などの争いを生んでいるということ。
そして、高タンパク高脂質の肉は病気を起こすということ。
こういったことを知るにつけ、「世界の争いの大きな原因の1つにも加担しているし、健康にも良くない肉食を辞めよう」といってベジタリアン、最近ではビーガンになる人が多いようです。
しかし、宮沢賢治はこういった理由というよりは、著者の話だと、思考ではなく直感的なものや自然の中の人間、という観点でベジタリアンになったと言います。
まず、と殺場を訪れた時の日記や詩、あるいは「いきものや いきものや いきものや」といった句を読んでいて、生き物に対して直感的に哀れみというか悲しみを覚えています。
そして、宮沢賢治はご存知のとおり、法華経の熱狂的な信者でした。
以前、テレビで見て知ったのですが、一番有名な「雨ニモマケズ・・・」は、最後は「そういふものにわたしはなりたい」で終わっているのではなく、その後に「南無妙法蓮華経」といった般若信教のようなものも書いてあるそうなのですね。
そんな宮沢賢治の中には、直感的にも法華経的にも「自然界の輪廻転生」を心底考えていたようで、例えば、自分もいつ牛に生まれてくるかわからない、馬に生まれてくるかわからない、食べられる側になるかわからない、と思っていたようです。
こういった切り口で、この本では、宮沢賢治の著作を読み返すと、この視点で書かれている、というのです。
例えば、「注文の多い料理店」では、都会から銃を使いたくて狩猟にやってきたハンターが、ヤマネコに食べられそうになる、といったお話になっています。
熊の狩猟を生業にしていた人の話、カタツムリなどを騙して捕食していたナメクジなどが最後はエサになってしまう話、虫などを食べていたヨダカがタカに命を狙われて虫を食べる側だったのが捕食される側になって悩んで夜の彼方へ飛んで星になった話、クラムポンは死んじゃった…で始まり捕食者だった魚がいつの間にかカワセミに食べられてしまったやまなしというお話などなど。
そういったところから、食べる側と食べられる側という両方の立場というか、自然の流れに心を向け、それが悪いこととは言わないけど、理解をする必要はある、といった主張があったのではないか、というのです。
なるほどね~、と思いました。
これまたテレビで見たのですが、仏教では功徳を積むという思想があります。
現生で功徳を積み、過去の罪などを落とし、次は菩薩として生まれ変わる、といった考えです。
チベットだったかどこかの山奥では、死んだら鳥葬といって、死骸を鳥に食べてもらう習慣がまだあるそうで、鳥葬士という人もいて、その人に任せながら、ハゲタカに家族の死体を食べてもらう。それを見守る家族は「死んだ自分の肉体を他の生き物に与える功徳を最後に積んだ」と思って見送るんです。
それを見た時は、う~ん、と思っていたのですが、今回の本を読んで、ちょっと理解が出来ました。
宮沢賢治の本にもいくつか出てくるそうなのですが、例えば、虫を取って生きていたスズメが最後は自分の体を他の生き物に供物としてささげることで、菩薩になる、というのがあるそうなのです。
法華経の考えでもあるのでしょうが、自分も色々な生き物のい命を食べて生きながらえてきた。だから自分もいつか誰かのための命のために肉体を差し出すのは大宇宙の法則の1つに沿った考えなんです、というのが宮沢賢治の思想の根底に流れているようなのです。
なるほどな~と思いました。
面白いですね~。
その方の本の名前を教えていただけませんか。
ありがとうございます。
ブルジュ