一昨年、何回か参加させた頂いた「古事記のこころ」の小野先生の今年の講座「新嘗のこころ」に参加させて頂きました。
家の中の軋轢があると、この講座にはよく救われたものです
小野先生というのは湯島神宮で神職をされている先生なのですが、その教えは熱くとてもシンプル。
というより「神道」というものが何なのか、その根源的なものはシンプルであり、それを熱く熱く教えて下さる先生なのです。
簡単に言ってしまえば、「人はかみさまと同じであり、魂は1つであり、宇宙と1つである」ということ。
これを「体で感じる」ことが昔の日本人は出来ていた、ということ。
「かみさまの命を受け継いできてご先祖様があり、ご先祖様の命を受け継いできて自分がいる。つまり、自分の中にご先祖様がいて、かみさまがいる。そのかみさまを大事にしなくてはいけないよ、自分の異心(傲慢、妬み、嫉妬などなど)で覆ってしまってはいけないよ、見えなくなったら祓わなくちゃいけないよ」
ということです。
「祈り、祓い、かみさまの命と自分の命が1つのものということが分かれば、この世は感激・感謝の世界であることがわかる」
というのです。
まあ、凡人の私にはなかなかそうはいきませんが
とにかく、小野先生の教えてくれる内容とは、終始一貫、このことなのです。
古事記も「物語そのものが重要ではなく、その中にある教えを理解すれば、1つ1つの物語ではその物語が繰り返し示されているということがわかる」というのです。
確かに古来の神話などはその物語が大事なのではなく、その歴史というか伝承の中で今の自分たちがある、ということを感じ入ることが大切なのでしょう。
もっといえば、「神話」という言葉は明治に出来たそうで、古事記などは「古来伝承」といういい方をしていたそうです。
そんな小野先生の勉強会ですが、昨年は参加しなかったのですが、1年半ぶりに参加した今年は「新嘗のこころ」という本を使ってのお勉強でした。
「古事記のこころ」の時は、古事記そのものが私には難しかったのですが、それに比べると「新嘗のこころ」は小野先生の講演をもとに本にされていたのと、そもそもの「新嘗祭とは何なのか?」ということを伝えるための本なので、とてもわかりやすく、新嘗祭とは何なのか?とか、天皇と国民と神事の関係などが非常にすっきりとしました。
特に、1番「お~」と思ったのが、小泉八雲の話が出てくるところです。
小泉八雲というのは、明治時代に日本人女性と結婚し、日本人になった西洋人の英語教師なんですが、その小泉八雲がこれから出征する教え子と対話した内容が挿入されていて、それが「なるほど~」と思ったのです。
教え子は、「自分はご先祖さまや父や母と共にいるし、もし自分が死んでも家族が供養してくれるから、死がすべて無になるとは全く思わない」と言います。
小泉八雲は「昔のローマ人は、確かに今の日本人と同じように魂は残ると信じていたということを知識としては知っている。でもそれは遠い昔のことで、今の西洋人の私達からは、死は現実の世界から完全に離れることを意味する。死んでもなお魂は残るという感情は、先祖や親から伝承してこないと伝わらないものだろうから、私にはわからないな」と答えるのです。
これを読んで、「なるほどな~」と思いました。
小さい頃に、おばあちゃん家や、お寺でもいいのですが、ご先祖様に手をあわせ、お祈りをしている大人の姿を何となくでも見て、ものまねをしたりしながら、何となく「その感情」を小さいうちにもったことがあるか、ないか、で、その後の「魂が何となくそこにあるかもしれない」という感情があるかないかが決まるんだな~、と。
そんな話をしながら、天照大神から皇祖に委託された「瑞穂の国や国民の幸せをひたすら祈ること」ということを、今も代々、終始一貫されてきた天皇、あるいは新嘗祭の意義、意味を学びました。
そして、それは「どの家庭も戦前までは当たり前にやってきた」という事実です。
私の知っている範囲では、農家の高柳さんが、今も神嘗祭の時、新嘗祭の時には甘酒を作ってお供えしています。
「昔はどこの家庭もやっていたけど、最近はうちぐらいかな」と言います。
また、神崎町の神山酒店の店主から以前聞いたのは、「50年ぐらい前は、みんな11月23日はお供えをするために甘酒の注文があって、どこの酒屋も忙しかったんだよ。まあ酒屋でいえばかき入れ時みたいな感じだったんだ。まあ本当に昔のことだけどね」という言葉が思い出されます。
新嘗祭はお米の国の日本にとっては一番大切な行事ですが、それと対になって2月に行う「今年1年の豊作や国の平和を祈る行事」もあったそうです。
それは決して天皇のものではなく、各地域、各村、各、各家庭で戦前まではずっと行われてきたこと。
そんなことを近代まで国をあげてやっていた国は世界中探しても無いそうです。
確かに、そうですよね。
国主を頂点に、国民のほとんどが五穀豊穣を祈り、地域の平和を祈るということを同じ日にやってきた、というだけで、確かに西洋人からみれば「アメージング」なわけです。
「それは天皇のものだけではなく、1人1人のこころなんです。そのこころを取り戻し、1人1人が国の平和、世界の平和を祈りながら自分の異心を祓い、清らかに暮らしていくことが、日本に求められていることなんです」
と、小野先生からの熱いメッセージでした
そして、主催者のKさんの手作りおはぎもお土産に
お昼は近くの蕎麦居酒屋で美味しく頂き、素敵な1日になりました
家の中の軋轢があると、この講座にはよく救われたものです
小野先生というのは湯島神宮で神職をされている先生なのですが、その教えは熱くとてもシンプル。
というより「神道」というものが何なのか、その根源的なものはシンプルであり、それを熱く熱く教えて下さる先生なのです。
簡単に言ってしまえば、「人はかみさまと同じであり、魂は1つであり、宇宙と1つである」ということ。
これを「体で感じる」ことが昔の日本人は出来ていた、ということ。
「かみさまの命を受け継いできてご先祖様があり、ご先祖様の命を受け継いできて自分がいる。つまり、自分の中にご先祖様がいて、かみさまがいる。そのかみさまを大事にしなくてはいけないよ、自分の異心(傲慢、妬み、嫉妬などなど)で覆ってしまってはいけないよ、見えなくなったら祓わなくちゃいけないよ」
ということです。
「祈り、祓い、かみさまの命と自分の命が1つのものということが分かれば、この世は感激・感謝の世界であることがわかる」
というのです。
まあ、凡人の私にはなかなかそうはいきませんが
とにかく、小野先生の教えてくれる内容とは、終始一貫、このことなのです。
古事記も「物語そのものが重要ではなく、その中にある教えを理解すれば、1つ1つの物語ではその物語が繰り返し示されているということがわかる」というのです。
確かに古来の神話などはその物語が大事なのではなく、その歴史というか伝承の中で今の自分たちがある、ということを感じ入ることが大切なのでしょう。
もっといえば、「神話」という言葉は明治に出来たそうで、古事記などは「古来伝承」といういい方をしていたそうです。
そんな小野先生の勉強会ですが、昨年は参加しなかったのですが、1年半ぶりに参加した今年は「新嘗のこころ」という本を使ってのお勉強でした。
「古事記のこころ」の時は、古事記そのものが私には難しかったのですが、それに比べると「新嘗のこころ」は小野先生の講演をもとに本にされていたのと、そもそもの「新嘗祭とは何なのか?」ということを伝えるための本なので、とてもわかりやすく、新嘗祭とは何なのか?とか、天皇と国民と神事の関係などが非常にすっきりとしました。
特に、1番「お~」と思ったのが、小泉八雲の話が出てくるところです。
小泉八雲というのは、明治時代に日本人女性と結婚し、日本人になった西洋人の英語教師なんですが、その小泉八雲がこれから出征する教え子と対話した内容が挿入されていて、それが「なるほど~」と思ったのです。
教え子は、「自分はご先祖さまや父や母と共にいるし、もし自分が死んでも家族が供養してくれるから、死がすべて無になるとは全く思わない」と言います。
小泉八雲は「昔のローマ人は、確かに今の日本人と同じように魂は残ると信じていたということを知識としては知っている。でもそれは遠い昔のことで、今の西洋人の私達からは、死は現実の世界から完全に離れることを意味する。死んでもなお魂は残るという感情は、先祖や親から伝承してこないと伝わらないものだろうから、私にはわからないな」と答えるのです。
これを読んで、「なるほどな~」と思いました。
小さい頃に、おばあちゃん家や、お寺でもいいのですが、ご先祖様に手をあわせ、お祈りをしている大人の姿を何となくでも見て、ものまねをしたりしながら、何となく「その感情」を小さいうちにもったことがあるか、ないか、で、その後の「魂が何となくそこにあるかもしれない」という感情があるかないかが決まるんだな~、と。
そんな話をしながら、天照大神から皇祖に委託された「瑞穂の国や国民の幸せをひたすら祈ること」ということを、今も代々、終始一貫されてきた天皇、あるいは新嘗祭の意義、意味を学びました。
そして、それは「どの家庭も戦前までは当たり前にやってきた」という事実です。
私の知っている範囲では、農家の高柳さんが、今も神嘗祭の時、新嘗祭の時には甘酒を作ってお供えしています。
「昔はどこの家庭もやっていたけど、最近はうちぐらいかな」と言います。
また、神崎町の神山酒店の店主から以前聞いたのは、「50年ぐらい前は、みんな11月23日はお供えをするために甘酒の注文があって、どこの酒屋も忙しかったんだよ。まあ酒屋でいえばかき入れ時みたいな感じだったんだ。まあ本当に昔のことだけどね」という言葉が思い出されます。
新嘗祭はお米の国の日本にとっては一番大切な行事ですが、それと対になって2月に行う「今年1年の豊作や国の平和を祈る行事」もあったそうです。
それは決して天皇のものではなく、各地域、各村、各、各家庭で戦前まではずっと行われてきたこと。
そんなことを近代まで国をあげてやっていた国は世界中探しても無いそうです。
確かに、そうですよね。
国主を頂点に、国民のほとんどが五穀豊穣を祈り、地域の平和を祈るということを同じ日にやってきた、というだけで、確かに西洋人からみれば「アメージング」なわけです。
「それは天皇のものだけではなく、1人1人のこころなんです。そのこころを取り戻し、1人1人が国の平和、世界の平和を祈りながら自分の異心を祓い、清らかに暮らしていくことが、日本に求められていることなんです」
と、小野先生からの熱いメッセージでした
そして、主催者のKさんの手作りおはぎもお土産に
お昼は近くの蕎麦居酒屋で美味しく頂き、素敵な1日になりました