今朝は秋空だった。歩けば汗ばむけれども、紛れもない秋が来ている。
勝負は下駄を履くまで分からないと言うが、国の行く末は下駄を脱ぐまで分からないと言えるかも知れない。
果て、どういうことと思われるだろう。
下駄を履かせると言うのは余程の優等生以外には馴染みのある表現のはずだ。例えば、問題が難しすぎて?、期末試験で六十点以下の不合格者が四割も出てしまったとする。再試験対象の不合格者が多すぎるので、各自の得点に十点を加えて(これを下駄を履かせるという)不合格者を減らす教師の操作があった。今もあるかな?。
少し前の新潮社の「波」に、戦前は戦争に勝とうと国力に精神力という下駄を履かせていたが、戦後は経済発展させようと原子力発電のリスクを低く見積もる下駄を履かせてきたというような事が書いてあった。ちょっと単純化しすぎた見方かも知れないが腑に落ちるものを感じた。
誰しも時には背伸びをしたり腰をかがめたりして、個人的な危機を凌いで生きているが、背伸びにくたびれて下駄を履き、それを忘れて背が高くなったつもりで居ると痛い目に遭う。今は履いた下駄を脱ぎ、ちょいと身をかがめて危機をやり過ごす時のように思える。下駄を履かせてもらって合格になったのを、実力と勘違いして大きな態度でいると陽が沈んでしまう。