高尾山などの「寅太の山野草」

中越地震で被災した小千谷市と長岡市にある戊辰史跡の復興を応援しています。
山野草を中心にしたブログです。

三国峠越えの総仕上げ(前編)

2014-06-16 05:46:12 | 歴史
安政5年(1858)12月28日に長岡を発って、河井継之助は三国峠を越えて江戸に向かいました。新暦では1月31日の出立で、厳冬の三国を越えるのは極めて困難ですので、実際は信濃川から千曲川沿いに上り飯山から善光寺に抜けたのでしょう。でもまっすぐな性格の継之助には三国峠越えが相応しいと考えています。
戊申北越戦争の前哨戦は、国境を越える西軍を会津藩が向かい撃つ戦いから始まりました。若干17歳の町野久吉が戦死したのが、長い戦いのは始まりでした。
「会津に告げよ武士の死を(小出島)」
三国峠の上州側の永井宿を訪ねたのが、4年前のことでした。三国峠の群馬県側(永井宿側)の道は厳しく、2回でやっと三国峠まで到達しました。1か月ほど前の北国の旅では、残された越後側(二居宿側)から三国峠までの三国街道を歩いてきました。この日はかなりの雨が降っていました。


(いよいよここから国境の険しい登りが始まります)

 
(登り口の石仏を見ながら階段にかかります)

 
(階段を過ぎると街道はやや平坦になります)


(道の両側のニリンソウも雨で閉じたままです)

 
(街道は急になり水流が激しく雪があります)


(街道の石畳も残っています)

 
(ショウジョウバカマとシロバナニシキゴロモ)

 
(クリンユキフデとヒゲネワチガイソウ)


(見覚えのある三国峠の石灯籠)

(三国街道)            (つづく)


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