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世界の片隅から、愛をささやいてみたり @goo

次が始まる前に

2018年01月07日 | NHK大河ドラマ
今日からNHK大河ドラマも新作『西郷どん』が始まりますので、
その前に『おんな城主直虎』について、書いていなかったことを。

私、『直虎』で一番好きだったことは、
いろいろとフラットというかニュートラルというか、
ボーダーレスだったところなんです。

例えば、直虎は龍雲党の面々に「女か男かわからないが上玉」と評され、
龍雲丸には長らく「尼小僧」と呼ばれていました。
その龍雲丸は、終盤では通訳を生業とし、様々な国の衣装や小物を身につけて、
「どこの者かわからぬ」と直虎に言われていました。
中村屋は「お殿様があのようなというか、おなごがあのようなというか」
と直虎の働きを評していました。
昊天さんは直虎のことを最後まで「次郎」と呼んでいました。
政次は、最初は幼なじみの姫としておとわが好きだったのでしょうけど、
最終的には「殿をしている殿が好きだ」と評しました。
そんな直虎は、殿を降りて農婦となってからも、
領地経営をあきらめなかった、というよりむしろ、一層うまく立ち回っていました。
方久は、商人でありながら城を任され、「殿」と呼ばれていました。
万千代は、一時期色小姓という女にはできないけど女性的な
役割を果たしていました(あくまで仮の姿でしたが)。

家や国や男女の役割がきっちりある時代背景の中で、
そういう流動的な、とらわれない部分がある。
それが、私にはとても新しくて心地よい感じがしました。
直虎は、家や井伊谷に縛られた人生だった、と見ることもできますが、
一方で、自由だったのではないか、と思います。
何より直虎は、いつでも違う生き方もできたのに、そうはしなかった。
彼女はいつでも自分で選んでいた(南渓和尚の画策があったとしても)。
そして、生き方を自分で選んでいたのは、直虎だけではなく、
政次も之の字も六左も瀬名も虎松も龍雲丸も・・・それが悲劇につながったとしても。

一昨年の『真田丸』では、生きたいように生きる人は滅ぶしかない、
という厳しさが描かれましたが、
『直虎』では、制約の中でも生きたいように生きるには、が
描かれていたように思うのです。

そういう意味でも、私は『直虎』が大好きでした。
最初の10話は録画を毎回消していたので、DVD-BOXを買いたいです。


次の『西郷どん』は、男は男らしく女は女らしく、的な世界観かもしれない、
と思うと、まだちょっと乗り切れていないのですが、
(あと、『ドリフターズ』の冒頭で直政を銃撃したのが島津豊久だし)(^^;
(や、史実が違うのは重々承知)
『50ボイス』観るとやっぱりわくわくしてしまいますね(毎年そう)。



コメント
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