ようやくメガネができました。
ヤッター!文字通り晴々しています。
白内障手術では、水晶体をとって代わりに人工レンズを入れます。
その時に遠くに焦点を合わせるか、近くに合わせるかを選択しなくてはいけません。
私は小さいころからの近視だったので、遠くに焦点を合わせるということは近視がなくなるわけですから、迷わず遠くにしていただきました。
どう見えるか、興味津津。
一方、近くを見ると調節が利きませんから見えないのです。つまりひどい老眼状態。
もちろん術前から言われて理解していたつもりでしたが、ちょっと読めないと当たり前のように近づける、そうするともっと読めない!
日に何度もびっくりしてしまう始末でした。
生まれてこの方、遠くが見えないことは当たり前、でも近くはきちんと見えるという生活を送ってきたのですから、まあ仕方ありませんね。
散歩の途中見かけた花たち(ホテイアオイ)
というか、「仕方がない」と思うように心がけました。
「だって遠くがメガネなしで見えるんだもの」とポジティブに納得させながら。
さて、近視がなくなって乱視だけになった私の視力はどうなったかというと、右眼0.8 左眼0.4です。(リコリス)
これは、朝起きると、まずメガネをかけなくては行動できない状態から、メガネなしでも普通に生活できる状態。
10メートルくらい離れた木々の葉っぱも大体分かる(右眼)。
部屋のこちら側から、テレビが見える。
家事にはほとんど支障がない。
生活は十分にできるのです。
ドクターが言われたように、確かに
「災害の時にメガネがなくても逃げられる」
(律義なヒガンバナ)
老眼だと
炊事は手元が、いまひとつはっきりしない。
ところで小ボケレベルになると、
①食材の切り方が雑になる
②盛りつけに配慮がない
③食器の洗い方が雑
という症状がありますが、老眼になっていることを前提にすると、そのような症状を出さない高齢者は、意識的に家事をきちんとやっていることになりますね。これは間違いなく前頭葉機能が正常であることの証です。 (リュウキュウアサガオ)
新聞や本は読めない。
友人からお借りした老眼鏡を使っていました。
ほんとにメガネなしには、近くの世界は生活できないのです。
身の回りには、近くと遠くがあるのですから、老眼になったら少なくとも、何か読むかもしれない外出時にはメガネ持参が当然でしょう。
以前の私がメガネなしでは外出できなかったのと同じ。メガネなしの外出なんて考えたこともありませんでした。
(もう萩が!)
ということは、社会生活が可能な正常高齢者は、老眼があるなら老眼鏡を持って外出するのがあたりまえなんですよ。
「認知症予防教室」初回のかなひろいテスト時に、メガネを持参しなかった方はそれだけで要注意です。
もちろん度忘れすることは、あるのですけど。(珍しいナンバンギセル)
食事のときには、お皿の上のものがいま一つはっきり見えないので、ちょっとおいしさが足りないというか、かなしい思いになります。
お化粧をていねいにする人なら、細かいところがはっきりしませんからそれはちょっと困るでしょうね。老眼鏡をかけるとメークができません・・・
(ハナニラ)
さて、私の新しいメガネは遠く用の乱視と、近く用の老眼を一体化したいわゆる「遠近両用メガネ」です。
顔を動かすと、少し揺れる感じがあって、これには慣れが必要だろうと思いますが、快適。
もうメガネなしの生活は考えられません。
考えてみれば、年をとるということは種々の能力を失っていく過程でもあります。体力にしろ視力・聴力・・・脳の力だって例外ではありません。
どう対処するか、積極果敢に挑戦していく(手術)、現状を認め、その中での生活を組み立てる(術後)次なる工夫をしてみる(新しいメガネ)
(シュウカイドウ)
今回の白内障手術から、年をとってなお生き続けていくことがどういうことなのかちょっとわかった気がします。
積極性はもちろん大切なことですが、それとともに現在の自分を受容してやれるのは、まさに自分しかないということにも気づく必要があります。
その中で、その能力を生かしつつ自分らしく生きる方法を模索するということでしょうか?