前日本相撲協会理事長の元大関魁傑が亡くなった。
また1人、私が大相撲に一番熱狂していた頃の花形力士が、この世を去ってしまった。
本当に寂しい。
輪島、貴ノ花(現在の貴乃花親方の父)と並んで「阿佐ヶ谷トリオ」と言われていました。
現役当時「クリーン魁傑」と言われ、その真面目な性格からにじみ出る真面目な土俵態度は、今も忘れられないものがあります。
そして相撲協会理事長就任後、八百長問題が起き、大揺れに揺れた難局に敢然と立ち向かい、そして日本相撲協会の公益法人化への道筋をつけた業績は大きなものがあったと思います。理事長在職期間は短かったですが、現在の満員御礼の垂れ幕が下がる大相撲界に戻ってきた礎を作った素晴らしい理事長だったと、私は強く思っています。
理事長時代、協会内の多くの親方衆の反発は凄かったと聞いています。
しかし、そんな状況の中から大相撲存続の最大の危機と言うべき難局を乗り切ることが出来たのも現役時代から「クリーン魁傑」と言われ、「休場は試合放棄」とまで言った真面目な土俵態度から得た相撲哲学からくるものがあったにちがいありません。
さて私が魁傑の現役時代の取組で忘れられないのは昭和53年三月場所七日目の大関旭國戦。
この時、魁傑は二度目の大関からも陥落して前頭四枚目。それでも土俵への執念は消えることはなく、二度の水入り、そして取り直し。そして三度目の水入り寸前に、すくい投げで旭國を破った大熱戦。
この場所10勝5敗、敢闘賞候補に挙げられましたが、元大関と言うことで見送られました。その結果を聞いた当時NHKの大相撲解説者の玉ノ海さんが「元大関だからこそ敢闘賞だ!」とテレビ放送で言い放った言葉は今も心の底に残っています。
享年66歳。心より、ご冥福をお祈りします。
また1人、私が大相撲に一番熱狂していた頃の花形力士が、この世を去ってしまった。
本当に寂しい。
輪島、貴ノ花(現在の貴乃花親方の父)と並んで「阿佐ヶ谷トリオ」と言われていました。
現役当時「クリーン魁傑」と言われ、その真面目な性格からにじみ出る真面目な土俵態度は、今も忘れられないものがあります。
そして相撲協会理事長就任後、八百長問題が起き、大揺れに揺れた難局に敢然と立ち向かい、そして日本相撲協会の公益法人化への道筋をつけた業績は大きなものがあったと思います。理事長在職期間は短かったですが、現在の満員御礼の垂れ幕が下がる大相撲界に戻ってきた礎を作った素晴らしい理事長だったと、私は強く思っています。
理事長時代、協会内の多くの親方衆の反発は凄かったと聞いています。
しかし、そんな状況の中から大相撲存続の最大の危機と言うべき難局を乗り切ることが出来たのも現役時代から「クリーン魁傑」と言われ、「休場は試合放棄」とまで言った真面目な土俵態度から得た相撲哲学からくるものがあったにちがいありません。
さて私が魁傑の現役時代の取組で忘れられないのは昭和53年三月場所七日目の大関旭國戦。
この時、魁傑は二度目の大関からも陥落して前頭四枚目。それでも土俵への執念は消えることはなく、二度の水入り、そして取り直し。そして三度目の水入り寸前に、すくい投げで旭國を破った大熱戦。
この場所10勝5敗、敢闘賞候補に挙げられましたが、元大関と言うことで見送られました。その結果を聞いた当時NHKの大相撲解説者の玉ノ海さんが「元大関だからこそ敢闘賞だ!」とテレビ放送で言い放った言葉は今も心の底に残っています。
享年66歳。心より、ご冥福をお祈りします。
長男さんと孫さんと 一緒に出かけた先での 急逝 幸せに過ごされていたのでしょう。
あの頃の 相撲観戦の興奮が 蘇りました。 ありがとうございました。
ご冥福をお祈りいたします。
コメントありがとうございます。
かなり以前、大相撲関係の本で夫人との、なれそめを読んだことがあります。
関取になる前から愛を育んでいたとのことで、その一途さに魁傑の人間性を強く感じさせられます。
大昔、相撲雑誌で結婚式の写真をみたことがあります。奥様は、たいへん綺麗な方でした。
相撲協会の理事長として、たいへん辛い決断もあって苦しかったと思われます。
それだけに、本当はもっと気楽に余生を過ごしてほしかったのですが、あまりにも早い死は本当に残念です。
「阿佐ヶ谷トリオ」のうち、貴ノ花と魁傑が故人となり、時の流れの早さを強く感じます。