オペラファンの仕事の合間に パート2

大好きなクラッシック音楽やフィギュアスケート、映画などを語ります。メインは荒川静香さんの美しさを語るブログ。

総集編

2012年08月21日 11時19分58秒 | フィギュアスケートとの出会い
いよいよフレンズ・オン・アイスまで、あと4日となりました。ただ、まだまだ実感が湧いてこない。おそらく出発前日の夜、職場から帰宅している車の中で湧いてくるのでしょう。以前、出発の前日、閉店の1時間前にクレームがあり、翌日の出発の直前まで対応に苦慮したことがあるので油断は禁物である。
さて今月の8日に今まで何度か断片的にコメントしてきた私自身のフィギュアスケート、そして荒川静香さんとの出会いを自分自身を振り返るためにも、まとめてみたいと書き込みました。今日はフレンズ・オン・アイスまでの直近の最後の公休日なので、本日、駄文ですが、まとめてみたいと思います。

第1章 トリノ冬季オリンピック

あの日から、もう6年も経ってしまったのか!しかし、あの時のことは今も忘れられない。
2006年2月23日朝4時30分に起床。外は真っ暗。家族はまだ寝静まっていた。2月の早朝、シンと冷え切ったテレビを置いている部屋で、たった1人でテレビの実況放送を見ながら、その時が来るのを待っていた。
フィギュアスケートのフリープログラム。ショートプログラムを終えて1位サーシャ・コーエン、2位イリーナ・スルツカヤ、そして3位に荒川静香さん、しかし得点差は、たいへんな僅差で全てはフリープログラム、それも最終グループで全てが決まる。たいへんな緊張感を持って放送を見ました。コーエン、スルツカヤ、荒川静香さんのメダル争いは、今、思い出しても壮絶なものがありました。
そして結果は皆さんご存知の通り。
私の大好きな歌劇「トゥーランドット」の音楽での荒川静香さんの演技。
確か、このオリンピックの開会式の最後、テノールのルチアーノ・パヴァロッティが登場して歌劇「トゥーランドット」から「歌劇「トゥーランドット」から「誰も寝てはならぬ」を歌いました。
声!声!声!たった数分でしたがたった1人のオペラ歌手の大きなオリンピックスタジアムを圧倒した偉大な声!やっぱりオペラは凄い!
その「誰も寝てはならぬ」のメロディに乗っての荒川静香さんの演技。正に心に深く響くものがありました。
さてトリノから5年後の昨年、荒川静香さんプロデュースのアイスショーのフレンズ・オン・アイスに初めてイリーナ・スルツカヤが初めて出演しました。
トリノでの表彰式では、悔しさのためか目を真っ赤に腫らしていた銅メダルのスルツカヤ。トリノでは金メダルの最有力と言われていたスルツカヤ。そのスルツカヤが昨年フレンズ・オン・アイスに初めて登場、そして今年も出演します。時間の経つことの大きさ、またアスリート同士の心のふれあいを思うと感慨深いものがあります。



話が前後します。
トリノでの表彰式が終わったあと、私の母がやって来て言いました。
「(荒川静香さんの金メダル)本当によかったね。死んだお父さんが生きていれば喜んだでしょうね」
この母の言葉の本当の意味が、やっと最近、分かってきました。


第2章 札幌冬季オリンピック

私がフィギュアスケート、いやアイススケートを身近に感じたのはいつだっただろうか?
やはり私が小学6年生の時まで戻らなければいけないでしょう。
私の亡き父は大手建設会社に勤めていたのですが、その頃、四国で初めてのスケートリンク、今は無くなりましたが「高松スポーツパレス」の新築工事の工事責任者を担当することになりました。四国初のスケートリンクと言う事で、たいへんな工事だったらしい。
そして建物もいよいよ出来上がり初めてリンクに氷をはる工程の時、家での夕食の直後、氷の状態が心配だったらしく突然、現場へ見に行くと言い出し、何と小学生だった私も一緒に付いて行ったのであります。
初めて見るスケートリンク、それも、まだ誰も脚を踏み入れていない全く無垢の真っ白なスケートリンク。小学生の私にも何か神々しいものを強く感じました。現在では、私は最低でも年に1回はスケートリンクを訪れていますが、会場に入って客席からスケートリンクを見ると、必ず小学生の時のその時の気持ちを思い出す、その時の気持ちに戻るよう心掛けています。
新築のスケートリンクのオープニングは、三笠宮様やいしだあゆみのお姉さんも登場して、たいへん華やかだったらしい。他に誰が出演したのだろうかと、いろいろ調べましたが、あまりにの年月の隔たりで、今となっては、もう分からなかった。ただ、父は関係者として前の方で、感慨深くリンクを見つめていたに違いありません。
このあと父は酒を飲んで酔っ払ったら、このオープニングのことばかり言うのですが、私はさっぱり分からない。今のようにフィギュアスケートの番組が頻繁にある時代でなかった。いやフィギュアスケートという言葉すら知らなかったと言えるでしょう。まだアイススケートなのである。
そんな状況が続いていましたが、いよいよ1972年の札幌冬季オリンピックを迎えることとなりました。私は中学生になっていました。
その頃、私はトワ・エ・モアの大ファンでしたが、当時、トワ・エ・モアが歌っていたのが札幌冬季オリンピックのテーマ曲「虹と雪のバラード」でした。あの希望あふれる歌詞、親しみのあるメロディーをレコードで聴きながら、まだ見たことがない冬のオリンピックへの期待が高まったものです。
そしてオリンピックが始まって飲んだくれていた父に引っ張られるように見たのがフィギュアスケートの放送でした。女子シングルのフリーとエキシビションの放送を父と見たことを、はっきりと憶えています。
初めて見たフィギュアスケート。こんな華やかで美しい世界があるのかと初めて知ることが出来ました。特に、その頃、私はクラシック音楽にも興味を持ち出したので余計だったかもしれません。
そして1人のアメリカのフィギュアスケートの選手に魅了されました。
ジャネット・リン。このオリンピックでは銅メダル。
真紅の衣装。転倒しても、絶えることのなかった笑顔が今も忘れられません。
ジャネット・リンこそ、私のフィギュアスケートの原点と言えるでしょう。




第3章 荒川静香さん

札幌冬季オリンピックから4年後、父はこの世を去りましたが、父から教えてもらったフィギュアスケートの放送は、ほとんど見ていました。ただ昔はフィギュアスケートの放送と言っても冬季オリンピック、世界選手権、NHK杯ぐらいしか放送がなかったので大きくのめり込むまでは行っていませんでしたが、放送は見逃さないようにしていました。
日本のフィギュアスケート界は渡辺絵美さんの時代、伊藤みどりさんの時代を経て行きました。伊藤みどりさんが1992年のアルベールビル冬季オリンピックで初めて日本人で初めてフィギュアスケートのメダリストになりましたが、まだ個人的にファンになったスケーターは1人もいませんでした。まだまだフィギュアスケートは欧米の競技、欧米のトップレベルの選手の演技を理屈抜きに楽しむもの、そんな気持ちに支配されていました。
1998年の長野冬季オリンピック。フィギュアスケートの放送、当然見ました。女子シングルの金メダルはタラ・リピンスキー。
日本の代表は1人のみ。仙台の高校生でした。フリーでは転倒もあり13位。
その高校生の名前はアラカワ・シズカ。



長野冬季オリンピックから何年か経ち、いつだったか、何の競技会だったか記憶にありませんが、ある世界大会の放送を見ていて1人の日本人選手に心を奪われました。
けっして好成績ではありませんでしたが、他の選手と何かが違う。何か奥に深いものを秘めた演技に、この方はちょっと違うぞと強く感じるものがありました。
そして彼女が、あの長野冬季オリンピックの時の転倒した仙台の高校生だったことに気が付きました。
「こんなに美しく、そして立派になって!」
私の心の中でアラカワ・シズカが荒川静香になった瞬間である。
私にとって、初めてファンになるスケーターに出会えた瞬間でした。
これ以降、2004年の世界選手権、トリノ冬季オリンピック、そしてプロに転向してのフレンズ・オン・アイスのプロデュース。
今もなお、荒川静香さんからフイギュアスケートの神髄を伝えてもらっています。それは、これからも続くでしょう。




第4章 稲田悦子さん

一昨年の暮れ、テレビで全日本選手権を見ていたら、突然、母が言い出した。
「死んだお父さんがえっちゃんを見た。えっちゃん、えっちゃんと、よく言っていた」
えっちゃん?何のこと?えっちゃんて誰?さっぱりわからないが、フィギュアスケート関係の方であることには違いないと思い、まずは2007年の大阪での全日本選手権を見た時に会場で買ったパンフレットに記載されている年度別の入賞者一覧を見てびっくりしました。
昭和10年、12年~16年の優勝者に稲田悦子という名前を見つけ、母に確認すると、稲田悦子さんが父の言っていた、えっちゃんとのこと。
稲田悦子さん(1924年生~ 2003年没)は長い歴史の全日本選手権での最初の女子シングルの優勝者。1936年ドイツのガルミッシュパルテンキルヒェン冬季オリンピックに12歳で出場。日本人女性で初めて冬のオリンピックに出場した方だったのである。オリンピックでは26人中で10位とのこと。
現在、全盛を誇る日本の女子フィギュアスケートの先駆けの選手といって間違いありません。



上の写真は1936年の冬季オリンピックのもの。右から2番目が稲田悦子さん。

えっちゃんは大阪生まれの大阪育ち。父も大阪生まれの大阪育ち。大阪のどこかのスケート場でえっちゃんの演技を見たのでしょう。父より少し年上のえっちゃん。亡き父の憧れ的存在だったのかもしれません。
そうか!父は稲田悦子さんを見たのか!彼女の思い出を胸に閉まって、大阪空襲、そして終戦直後の混乱をくぐり抜けてきたのか!私は言いようもない感情になりました。
正に日本のフィギュアスケート界の黎明期を実際に見ていた父。その頃の話を全く聞くことが出来なかったのは本当に残念です。
私はてっきりスケートリンクの建設にたずさって時に、父がフィギュアスケートを知ったものと長年、信じていたので、まさか戦前まで逆のぼるとは思いもよりませんでした。父が会社からスケートリンクの新築工事を命ぜられた時、心の中で、どう思ったのでしょうか?戦前に見た稲田悦子さんのことに思いを馳せたのか、今となっては知る由もありません。
荒川静香さんがトリノで金メダルに輝いた直後の母の言葉「本当によかったね。死んだお父さんが生きていれば喜んだでしょうね」の重さを実感します。
父が、その時、もし生きていれば稲田悦子さんと荒川静香さんを重ねていたはず。荒川静香さんのトリノでの「トゥーランドット」の演技、父に見せて上げたかった。
「日本のフィギュアスケートも遂に、ここまで来たよ!」と。
そんな気持ちが、今、ますます強くなってきています。


以上、長々と駄文を書き並べて申し分けございませんでした。ただ書き込んでいて日本のフィギュアスケート界の歩みを何か実感するものがあり、それと自分自身の歩みを重ねることができるのも、長い間、フィギュアスケートを見続けてきたお蔭と思っています。
本当は荒川静香さんプロデュースのフレンズ・オン・アイスのことも、もっと踏み込んでみたかったのですが、いよいよこの週末、見に行くので、今年のショーを見終わったあと、改めてコメントするつもりです。
フレンズ・オン・アイスを見に新横浜スケートセンターへ脚を運ぶのも、5年連続となりました。
荒川静香さんからのフィギュアスケートへのたくさんの愛情をしっかりと受け止めてきたいと思っています。


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