水本爽涼 歳時記

日本の四季を織り交ぜて描くエッセイ、詩、作詞、創作台本、シナリオ、小説などの小部屋です。

短編小説集(20)ガソリンを飲む男  <再掲>

2024年08月28日 00時00分00秒 | #小説

「今日はもう、帰っていいよ。お疲れさん!」
 所長の下岡にそう言われ、多田は緩慢に席を立った。ようやく一日の仕事が終わったか・・と多田は解放された機械のように思った。やれやれ、これでガソリンが飲めるぞ! と多田は嬉しくなった。下岡経理事務所に勤める多田にはひとつの秘密があった。それは秘密というより、下岡ばかりか誰にも話せない科学を覆(くつがえ)す秘めごとだった。多田がそうなったのには一つの原因があった。その頃、多田は親の脛(すね)を齧(かじ)る学生だった。なに不自由なく学生生活を満喫していた多田は、卒業式の後、打ち上げの飲み会に参加していた。学生生活もこれで最後か・・という気分も多少あり、テンションは高かった。
「イッキ! イッキ! イッキ!」
 チューハイをすでに2杯飲んでいた多田だったが、同期の学生仲間に煽(あお)られ、よし! 飲むか! と一気に飲んだ。酔いも手伝わせていた。そのとき異変が起きた。なんの飲みにくさもなく、水を飲むようにスゥ~っと飲めたのである。しかも、それまでの酔いは完全にどこかへ消え失せていた。その異変を他の者達は、まったく気づいていなかった。ただ、多田が飲み干す余りの早さと、そのスムースな飲みっぷりには驚きの歓声と拍手が上がった。多田は顔で笑ったが、体調の異変に内心では笑えなかった。それ以後、異変が断続的に多田を襲うようになった。無性にアルコールが欲しくなるのだ。酒ならなんでもよかった。それでいて飲むと、酔わなかった。どういう訳か、酒臭さもなく、まるで水を飲んだような感じだった。そして、ついに究極の異変が起きた。
 ある時、仕事をしていた多田は、無性にアルコールが欲しくなった。生憎(あいにく)、いつも鞄(かばん)に隠し持っていたカップ酒を切らしていた。身体はアルコールを求めている。ついに多田は我慢し切れなくなった。
「すみません! ちょっと失礼します!」
 下岡は脂汗を流す多田の異常に気づいた。
「どうした? 腹具合でも悪いか? 顔色が悪いぞ」
「いえ! …」
 立つとペコリと頭を下げ、多田は事務所を走り出た。向かったのは酒屋ではない。もう、その余裕が多田にはなかった。事務所の駐車場の片隅には、万一のガス欠用のガソリンが小タンクに買って保管されていた。多田はそのキャップを開けると一気飲みしたのである。このとき多田は、えも言えぬ満足感を覚えた。いままでのアルコールにはなかった感覚だった。そして飲んだ直後、多田は無性に走りたくなった。いくら走っても息切れしなかった。それどころか自動車並みに走れた。
「君さ、最近、食べなくなったね? 大丈夫かい、身体…」
 昼食も食べなくなった多田を気づかって、下岡が声をかけた。
「あっ! 僕は大丈夫です、ガソリンがありますから」
「えっ?!」
 下岡は耳を疑って、訊(たず)ねた。
「いえ、別になんでもありません…」
 口が滑(すべ)った…と、多田はすぐ打ち消した。しかし多田の身体は、いつの間にか機械人間へと変身していた。さらに怖ろしいことに、この異常現象は多田から下岡へ、そして…感染するかのように地球全体の人類すべてへと蔓延していったのである。ガソリンなしでは生活できなくなった人々。ついに、ガソリン需要を賄(まかな)えなくなった人類は…、この先をお話しするのは、身の毛がよだつので、やめることにしたい。

              THE END


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