夜通(よどお)しは、きついな・・という気分で木本努(きもとつとむ)は欠伸(あくび)をした。誰もいない暗闇の編集部にスタンドの灯りだけが白っぽく眩(まばゆ)い。腕を見れば、すでに二時半ばは回っている。車通勤だから終電が過ぎた心配はなかったが、家まで20分少々を戻って眠ったとしても、七時に起きたとして四時間・・いや、正確にはすぐに寝つけないだろうから、正味は二、三時間も眠れれば、いい方だ…と木本の脳裡はグツグツと巡った。それで、そのまま社へ残ることにして、そのまま机にうつ伏せの姿勢で眠ることにした。幸い、季節はまだ夏の暑気が残る頃で、寒さは感じない。結果、六時過ぎまでウトウトと微睡(まどろ)み、小鳥の囀(さえず)りに薄目を開けると、早暁の明るさが課内を覆い始めていた。昨日も、まったく同じだったから、この椅子に一日、座っていることになる…と、ぼんやりと木本は思った。動いたと考えれば、トイレだけだった。朝は後輩の下田学(しもだまなぶ)が菓子パンと牛乳などを買ってきてくれるはずだった。毎度のことだから、金は先払いにし、釣りはいいという手間賃がわりの条件で話ができていた。昼と夜は前の食堂が出前してくれるから、電話を入れるだけで事、足りた。夜七時まで店は暖簾(のれん)を下ろさなかったから、木本としては助かった。
明日までに纏(まと)めろ! と編集長に釘を刺された原稿は、どうにかこうにか形になっていた。OKかボツかは別にして、とりあえずは怒られないだろう・・とは思えた。木本はデスクから据え置いた洗面用具の入ったバッグを手にすると席を立った。そして、トイレの化粧室へと向かった。中へ入った木本は、いつものように歯を磨き、顔を洗った。そのとき木本は異変に気づいた。歯を磨いている自分の姿がなかった。完全に消え去って、まったく人の気配がないトイレの内部が鏡に映っていた。しかし、木本は歯を磨いている感覚は確かにあった。自分の姿もはっきり見えていた。ただ、鏡に自分の姿はなかった。そんな馬鹿なことはない…俺、疲れてるな、と木本は目を指で擦(こす)りながら思った。まあ、些細(ささい)なことだ・・と、このときの木本はそう気にせず、タオルで顔を拭(ふ)くとデスクへ戻った。
朝、編集部のドアが開き、後輩部員の下田と本郷和也(ほんごうかずや)が入ってきた。
「あれっ? キモさん、いねえぞ? お前、知らねえか?」
「知る訳ねえだろ! 俺、今、来たとこだぜ」
本郷が不機嫌な声で返した。
「それも、そうだな…」
下田は買ってきた袋を木本の席へ置き、辺りを見回して呟(つぶや)いた。木本はすぐ左の隣席に座っていた。
『おいっ! シカトかっ!? 俺は、ここにいる!』
木本としては面白くない。冗談半分の完全無視としか考えられなかった。
確かに、木本は木本のデスクに存在していた。だがその姿は、木本にしか見えなかった。他の部員達の目には空席の木本のデスクが映っていた。
「ははは…、パタン、キュ~~じゃねえか? キモさん、ここんとこ徹夜だろ?」
本郷が対面の下田に言った。
「ああ、そうか…。そのうち電話が、かかってくるか。今日、明日、休みます・・ってか? 編集長がまた、怒鳴るぞ、はっはっはっ…」
笑いながら下田はデスクスタンドの灯りをONした。パッ! と机が明るく映えた。
「待てよ! 怪(おかし)かねえか…」
下田は木本のデスクスタンドが灯っていることに気づいた。
「なにがよ?」
俄かに険しい表情になった下田は、木本のデスクスタンドを指さした。本郷も分かったのか、顔を険しくした。
『お前らっ! 馬鹿言ってんじゃねえ! 俺は、ここにいるっ!』
木本は必死に訴えるような大声をあげた。だが、二人の反応は何もなかった。
「まあ、編集長が来てからだっ!」
本郷は空(から)元気な声を出した。
「そうだな。電話待ちってことで…」
二人は、互いの仕事をやりだした。そのとき、ふと、木本は浮かんだ。そうだ! 電話だ! と…。目の前の電話を手にした。そして、編集部の番号を押した。すぐ、本郷の席の電話が鳴った。
「おっ! キモさんか…」
本郷は受話器を手に取った。
『おい、本郷か。俺は、ここにいるぞ!』
木本のは必死に訴えた。
「ここって、どういう意味です?」
『ここは、ここだ! 編集部だっ!』
「ははは…ご冗談を。今、下田に…。おい! 下田」
本郷は下田に振った。
「かわりました。キモさん、下田です。どうされました?」
『どうもしてねえよ! 俺は、お前の横にいる!』
「えっ!? 誰もいませんが…」
『いる! 俺は!』
「… …」
声を失った下田の顔は恐ろしさで次第に青白くなっていった。
「どうした、下田!」
対面席の本郷は、受話器を握りしめたまま震えて立ち尽くす下田へ声を投げた。下田は震える指で木本のデスクを指さした。
「ああ、キモさんだろ? そのうち電話が入るさ」
能天気な本郷の声に、下田は受話器を指で示した。
「えっ? なんだ、電話はキモさんからか?」
下田は黙って頷(うなず)いた。
「どうしたんだよ…。俺が変わる!」
本郷は自席の受話器を手にした。下田は内線の切り替えボタンを押した。
『本郷か! 俺だ』
「ああ、キモさん。おはようございます。どうかされました? 今、どこです?」
『馬鹿野郎! 俺は、ここにいる!』
「えっ?! どこです?」
『お前の斜め前の席だ!』
「… …」
本郷の顔の表情が一瞬で変化した。本郷の視線の先にはデスクライトに照らされた誰もいない木本のデスクがあった。もちろん、内線の受話器も置かれたままだった。座ることを忘れた下田は唖然(あぜん)としたまま、まだ立っていたが、ふと、下田の椅子の上を見た。どこから入ったのか、一匹の蝉が、木本の椅子の上にいた。その蝉は少しずつ椅子の上を時計回りに円弧を描いて動いていた。下田は恐る恐る、木本の椅子へ近づいた。すると、やはり一匹の蝉が椅子の上を時計回りに円弧を描いているではないか。まさか! とは思えたが、下田はそっと声をかけた。
「あの…キモさんですか?」
すると、蝉はそれに答えるかのようにミーンミンミンミンミーと小さく鳴いた。その響きは下田の知っている普通の蝉より明らかに低く小さかった。下田はすでに怖(おそ)ろしくなっていた。対面席の本郷は受話器を手にしたままその様子を眺(なが)めていた。
「キモさんの席に…蝉がいます」
『蝉じゃねえ! 俺だ!』
少し怒れた木本の声は声高(こわだか)になっていた。そのとき、編集室のドアが開き、編集長の垣沼荘一(かきぬまそういち)が入ってきた。その瞬間、下田の前の蝉はスゥ~っと跡形もなく消え失(う)せた。
「おい! どうした! 挨拶がないなっ」
「おはようッス!」「おはようッス!」
垣沼の声に促され、下田と本郷は放心のまま浮ついた声を出した。
「ははは…なんかおかしいな、今朝は! まあ、いいが…」
垣沼は深く追求せず、二人も奇妙な出来事のことは黙秘した。
「おっ? 木本がいないな! まだ来てないのか?」
「ああ、木本さんなら、体調が悪いとかで今日は来れないと連絡がありました」
「そうか…。俺にドヤされるのを恐れて、ズルじゃねえだろうな、ははは…」
木本にはその声が聞こえている。ある意味で垣沼の言うことは図星だったから、木本は見えないことでホッとした。だがその実(じつ)、この先が不安だった。
「よし、下田! 木本の原稿、お前が書け! あいつを待ってりゃ、一年かかる!」
決断したように編集長の垣沼の声が飛んだ。木本はクソッ! と思った。徹夜の挙句、やっとの思いで完成した手渡すはずの原稿は、木本の机の上に置かれていた。
「はい!」
下田は恐る恐る木本の机を見ながら小さく返事した。
「なんだ! おいっ! あいつ、点けっぱなしで帰ったのか。消しとけ!」
不機嫌っぽく垣沼が誰に言うともなく言った。下田は黙ってデスクスタンドをOFFった。それと同時に木本の意識も絶えた。
次の朝が巡ったとき、木本は車の中で眠っていた。コンコン! とドアガラスを叩かれ、目覚めた。社の駐車場だった。目を擦(こす)ると、ガラス越しに下田の姿があった。
「おはようございます、キモさん!」
デスクに顔を伏せ眠ったつもりだった。いや、それは夢だったのか…。現実の木本は、やはり家へ戻ろうと車へ乗り込んだ。そこで眠気に負け、意識が遠退いたのだ。そして、夢を見た…と木本はぼんやりと思った。
「早く入らないと、編集長にどやされますよ!」
「あっ! ああ…。今日は何日だ?」
「18日ですが、それが?」
「いや、なんでもない」
18日に徹夜したから、今日は19日のはずだった。一日が消えていた。木本は急いで車を出ると、下田とともに駐車場を抜けエレベーターに乗った。編集部の中に人の気配はなく、まだ、本郷は来ていなかった。不思議なことに、木本のデスクスタンドは点きっぱなしで、置いたはずの原稿はなかった。そして一匹の蝉がデスク椅子の上で時計回りに、のっそりと円弧を描いていた。
THE END