私は年金生活5年生の64歳の身であるが、
午後のひととき、中断していた筒井清忠・著の『西條八十』(中公文庫)を読んだりした・・。
http://www.honya-town.co.jp/hst/HTdispatch?nips_cd=9984031969
この本に関しては、過日に於いて、
【・・
私は買い求める気持ちになったのは、
昭和19年に東京郊外で生を受けて、
幼年期の時、このお方の歌謡曲がラジオから流れ、
私は聴き入ったことがある。
こうしたことは、後年に作詞家の西條八十氏の作品であった、
ということを知ったのであった。
何より興味があったのは、本の裏の明記された、
【・・
戦前戦後のヒット曲に作詞家として名を連ね、
ランボー研究をはじめ、詩人・フランス文学者としても大きな足跡を残した西條八十。
多大な功績にもかかわらず近代文学の系譜から疎外されてきた、
忘れられた巨人の生涯を精緻に描いた初の本格的評伝。
第57回読売文学賞、第14回山本七平賞特別賞、
第29回日本児童文学学会特別賞受賞。
・・】
こうしたことを読みながら、
私は西條八十氏は数々のヒット曲を遺(のこ)された単なる作詞家だけでなく、
《 近代文学の系譜から疎外されてきた ・・》
このような文面を読むと、読みたくなるのが私の性格のひとつである。
こうして、雨の降る静寂な午後、私は読みふけったのである。
第一世界大戦後、パリに留学した氏が、この頃のパリの状況、心情などを
読むと、
まぎれなく文化史である、と思索させられたりした・・。
このように読み込むと、中々ページが進まず、
5時間ばかり読書であっても、3分の1程度であり、
私は苦笑したりしたのである。
・・】
このように綴ったりしていたが、私は西條八十氏が数多く作詞された中で、
特に関心のあったのは、
『越後獅子の唄』の歌であった。
私は2007年10月19日に於いて、
【 私の小学生時代の愛唱歌・・♪ 】
と題して、あるサイトに投稿しているが、あえて再掲載をする。
【・・
私が小学校に入学したのは、昭和26年の春だった。
東京の郊外の調布市であるが、この頃は田畑、雑木林が圧倒的に多く、
緑豊かな町村であった。
私は長兄、次兄に続いて生を受けた三男坊で、
祖父と父は女の子を期待していたらしく、私は幼児なりに何となく感じていたのか、
いじけた可愛げのない子の上、無口であった。
兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿を頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、
と担任の女の先生がため息まじりに云われたりしていた。
音楽の授業は、先生がオルガンを弾いて、
生徒の我々全員が『春の小川』、『夕やけこやけ』等を唄っていた。
学期末の頃に、ひとりの生徒が教室の1番前にある黒板の近くで、
先生のオルガンの伴奏に合わせて、唄うことが定例であった。
私は人前で他愛ないおしゃべりをすることが苦手であったので、
私の順番になると、ドキドキし、出来たら逃げ出したかった。
結果として、通信簿『2』であった。
私が下校で独りぼっちで歩いて帰る時、
或いは家の留守番をしている時は、
♪笛にうかれて 逆立ちすれば
山が見えます ふるさとの
わたしゃ孤児(みなしご) 街道ぐらし
【 『越後獅子の唄』 作詞・西條八十 】
私は何となくこの歌に魅了されて、唄っていた。
唄い終わると、何故かしら悲しくなり、涙を浮かべることが多かった。
そして、私が気分が爽(さわ)やかな時は、
♪私は街の子、田舎の子・・、
と名曲のひとつの『私は街の子』という歌を勝手に変更して、唄ったりしていた。
・・
(略)
・・】
このような深い想いがあったので、著作者の筒井清忠氏に導かれて、
西條八十氏が『越後獅子の唄』を作詞された発想などを知りたくて、
読み込んだのである・・。
無断であるが、引用させて頂く。
【・・
昭和25年の春、西條八十が『山のかなたに』の打ち合わせるのため、
新東宝の撮影所を訪れると、
柳谷金語楼・主演の『続・向う三軒両隣り』のセツトがあり、
小憩中で、誰もいない中に一人の女の子がぼんやりと立っていた。
西條八十が元気づけようと、
「君も金語楼劇団に入っているの? 小さいのに感心だね」
と話しかけると、
少女は笑って、
「いやだわ先生、私コロムビアの専属歌手なのよ。
先生と同じ会社ですよ」と言った。
これが西條八十と美空ひばりの出逢いだと、森一和は著している。
西條八十は美空ひばりを知らなかったが、美空ひばりは西條八十を知っていたのである。
それ以来、西條八十は美空ひばりを興味をもって眺めていたのだが、
天才少女への世間の眼は冷たいものがあり、
新聞で「ゲテモノ!と叩かれたりしていた。
こうした中で、西條八十は会社から美空ひばりの正月用の作品を頼まれたのである。
西條八十は戦前に住んでいた柏木あたりに、
正月になると越後獅子が来ていたのであるが、
その子供達が芸をしながら、いつも怖い目つきの親方を恐れいた痛々しい様子を思い出し、
この曲を作ったという。
つまり、『越後獅子』とは当時、社会的に冷たい目で見られ、
大人の歌手の間で肩身の狭い思いをしていた美空ひばり自身のことなのであった。
この歌のテスト盤を聞いた斎藤寅次郎・監督が、
この歌を主題歌とした美空ひばりの主演映画『とんぼ返り道中』を企画、
26年の正月映画として大ヒットした。
浅草六区の直営館では、
満員の客をさばくためにフィルムを適宜カットし、上映回数を一回多くしたが、
美空ひばりの出る場面、歌う場面は残したので、客は満足して帰ったという。
しかし、この『越後獅子』が、美空ひばり自身を象徴していたことを
当時の観客の何人が察知していただろうか。
・・
(略)
・・】
注)本書の原文(425・6ページ)より、あえて改行など多くした。
このように作詞家としての西條八十氏の『越後獅子の唄』の発想としての秘話、
その後の斎藤寅次郎・監督の英知で『とんぼ返り道中』が上映されたのは、
私は無知であった。
私はラジオから聴こえたのを幼年心なりに覚え、
数年過ぎた頃、独りで三流の映画館で観ながら、涙を流したのである。
こうした創作の秘話などを読んだりし、具体的に教示されたのであるが、
こうしたことは本書のような本を読まない限り、
たとえネットの世界が広まり安易に知識が得られる今日でも、不明と思われ、
改めて読書は限りなく奥深く、思索させられる根幹かしら、と確信させられたのである。
尚、余談であるが、
【美空ひばりの歌った『越後獅子の唄』・・
後の名歌手・島倉千代子は少女の頃、
この歌を聞いて歌手になりたいと思ったという】
注)本書の原文(423ページ)より、あえて改行など多くした。
このような本書の一部を読むと、私は思わず微苦笑したりしたのである。
午後のひととき、中断していた筒井清忠・著の『西條八十』(中公文庫)を読んだりした・・。
http://www.honya-town.co.jp/hst/HTdispatch?nips_cd=9984031969
この本に関しては、過日に於いて、
【・・
私は買い求める気持ちになったのは、
昭和19年に東京郊外で生を受けて、
幼年期の時、このお方の歌謡曲がラジオから流れ、
私は聴き入ったことがある。
こうしたことは、後年に作詞家の西條八十氏の作品であった、
ということを知ったのであった。
何より興味があったのは、本の裏の明記された、
【・・
戦前戦後のヒット曲に作詞家として名を連ね、
ランボー研究をはじめ、詩人・フランス文学者としても大きな足跡を残した西條八十。
多大な功績にもかかわらず近代文学の系譜から疎外されてきた、
忘れられた巨人の生涯を精緻に描いた初の本格的評伝。
第57回読売文学賞、第14回山本七平賞特別賞、
第29回日本児童文学学会特別賞受賞。
・・】
こうしたことを読みながら、
私は西條八十氏は数々のヒット曲を遺(のこ)された単なる作詞家だけでなく、
《 近代文学の系譜から疎外されてきた ・・》
このような文面を読むと、読みたくなるのが私の性格のひとつである。
こうして、雨の降る静寂な午後、私は読みふけったのである。
第一世界大戦後、パリに留学した氏が、この頃のパリの状況、心情などを
読むと、
まぎれなく文化史である、と思索させられたりした・・。
このように読み込むと、中々ページが進まず、
5時間ばかり読書であっても、3分の1程度であり、
私は苦笑したりしたのである。
・・】
このように綴ったりしていたが、私は西條八十氏が数多く作詞された中で、
特に関心のあったのは、
『越後獅子の唄』の歌であった。
私は2007年10月19日に於いて、
【 私の小学生時代の愛唱歌・・♪ 】
と題して、あるサイトに投稿しているが、あえて再掲載をする。
【・・
私が小学校に入学したのは、昭和26年の春だった。
東京の郊外の調布市であるが、この頃は田畑、雑木林が圧倒的に多く、
緑豊かな町村であった。
私は長兄、次兄に続いて生を受けた三男坊で、
祖父と父は女の子を期待していたらしく、私は幼児なりに何となく感じていたのか、
いじけた可愛げのない子の上、無口であった。
兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿を頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、
と担任の女の先生がため息まじりに云われたりしていた。
音楽の授業は、先生がオルガンを弾いて、
生徒の我々全員が『春の小川』、『夕やけこやけ』等を唄っていた。
学期末の頃に、ひとりの生徒が教室の1番前にある黒板の近くで、
先生のオルガンの伴奏に合わせて、唄うことが定例であった。
私は人前で他愛ないおしゃべりをすることが苦手であったので、
私の順番になると、ドキドキし、出来たら逃げ出したかった。
結果として、通信簿『2』であった。
私が下校で独りぼっちで歩いて帰る時、
或いは家の留守番をしている時は、
♪笛にうかれて 逆立ちすれば
山が見えます ふるさとの
わたしゃ孤児(みなしご) 街道ぐらし
【 『越後獅子の唄』 作詞・西條八十 】
私は何となくこの歌に魅了されて、唄っていた。
唄い終わると、何故かしら悲しくなり、涙を浮かべることが多かった。
そして、私が気分が爽(さわ)やかな時は、
♪私は街の子、田舎の子・・、
と名曲のひとつの『私は街の子』という歌を勝手に変更して、唄ったりしていた。
・・
(略)
・・】
このような深い想いがあったので、著作者の筒井清忠氏に導かれて、
西條八十氏が『越後獅子の唄』を作詞された発想などを知りたくて、
読み込んだのである・・。
無断であるが、引用させて頂く。
【・・
昭和25年の春、西條八十が『山のかなたに』の打ち合わせるのため、
新東宝の撮影所を訪れると、
柳谷金語楼・主演の『続・向う三軒両隣り』のセツトがあり、
小憩中で、誰もいない中に一人の女の子がぼんやりと立っていた。
西條八十が元気づけようと、
「君も金語楼劇団に入っているの? 小さいのに感心だね」
と話しかけると、
少女は笑って、
「いやだわ先生、私コロムビアの専属歌手なのよ。
先生と同じ会社ですよ」と言った。
これが西條八十と美空ひばりの出逢いだと、森一和は著している。
西條八十は美空ひばりを知らなかったが、美空ひばりは西條八十を知っていたのである。
それ以来、西條八十は美空ひばりを興味をもって眺めていたのだが、
天才少女への世間の眼は冷たいものがあり、
新聞で「ゲテモノ!と叩かれたりしていた。
こうした中で、西條八十は会社から美空ひばりの正月用の作品を頼まれたのである。
西條八十は戦前に住んでいた柏木あたりに、
正月になると越後獅子が来ていたのであるが、
その子供達が芸をしながら、いつも怖い目つきの親方を恐れいた痛々しい様子を思い出し、
この曲を作ったという。
つまり、『越後獅子』とは当時、社会的に冷たい目で見られ、
大人の歌手の間で肩身の狭い思いをしていた美空ひばり自身のことなのであった。
この歌のテスト盤を聞いた斎藤寅次郎・監督が、
この歌を主題歌とした美空ひばりの主演映画『とんぼ返り道中』を企画、
26年の正月映画として大ヒットした。
浅草六区の直営館では、
満員の客をさばくためにフィルムを適宜カットし、上映回数を一回多くしたが、
美空ひばりの出る場面、歌う場面は残したので、客は満足して帰ったという。
しかし、この『越後獅子』が、美空ひばり自身を象徴していたことを
当時の観客の何人が察知していただろうか。
・・
(略)
・・】
注)本書の原文(425・6ページ)より、あえて改行など多くした。
このように作詞家としての西條八十氏の『越後獅子の唄』の発想としての秘話、
その後の斎藤寅次郎・監督の英知で『とんぼ返り道中』が上映されたのは、
私は無知であった。
私はラジオから聴こえたのを幼年心なりに覚え、
数年過ぎた頃、独りで三流の映画館で観ながら、涙を流したのである。
こうした創作の秘話などを読んだりし、具体的に教示されたのであるが、
こうしたことは本書のような本を読まない限り、
たとえネットの世界が広まり安易に知識が得られる今日でも、不明と思われ、
改めて読書は限りなく奥深く、思索させられる根幹かしら、と確信させられたのである。
尚、余談であるが、
【美空ひばりの歌った『越後獅子の唄』・・
後の名歌手・島倉千代子は少女の頃、
この歌を聞いて歌手になりたいと思ったという】
注)本書の原文(423ページ)より、あえて改行など多くした。
このような本書の一部を読むと、私は思わず微苦笑したりしたのである。