私は昨日の午前中のひととき、NHKテレビのBS2で、
『NHKスペシャル』番組のアンコールとして『沸騰都市・東京』を
放映の途中から何気なしに視聴したのであるが、
東京の都心の開発がダイナミックに進行する状況に脅威したのである・・。
この番組の解説として、
【・・
人口流出が続いていた東京だが、今再び毎年10万人という大幅な人口増加に転じている。
大きな原因が、企業の東京移転と外資系企業の進出。
グローバリズムの地殻変動を日本は、
東京一極集中という方法で受け止めようとしている。
首都圏で進む再開発プロジェクトは、100を超える。東京の再開発を担ってきたのは、
三菱地所、森ビルといった民間デベロッパーである。
情報、文化を東京に集積し、環境に配慮した街作りで、
世界の都市間競争で生き残ろうとしている。
それを達成する2つの手段が、高層化と地下世界の拡大である。
容積率は一挙に緩和され、東京は世界有数の超高層都市に生まれ変ろうとしている。
また地下鉄網、インフラの埋め込み、地下高速道路、東京の地下は世界最高の集積率を誇るに至った。
・・】
注)NHKの番組紹介の原文の大半であるが、あえて改行を多くした。
http
://www.nhk.or.jp/special/onair/090216.html
私は民間会社のサラリーマンを卒業し、
年金生活の5年生の64歳の身で、東京郊外の調布市に住み、
古惚けた一軒屋に家内と2人で過ごしている・・。
このような私は、数多く都心の中に林立する高層ビル、マンションなどには、
少し驚ろいたりしたが、
何より驚いたのは、池袋から新宿、渋谷、品川方面に到達する地下高速道路であった。
地下鉄が網のように数多く現存している路線の中を、
あたかも掻(か)い潜るかのように工事の状況が紹介され、
この後、この地下高速道路を走破する状景を想定し、
番組で表示されていたのである。
私は番組を視聴しながら、都心は果てしなく開発、再開発が進み、
どこまで到達すれば気が済むの、
と少しため息をしたのである。
このような心情の私は、秘かに深い思いとなっている心のひとつとして、
このサイトにも、少なくとも10数通は投稿してきている。
【 齢を重ねるたびに、『都心』は苦手となり・・♪ 】
と題し、2008年1月25日に投稿しているが、あえて再掲載をする。
【・・
東京郊外の調布市は、昨日の晩秋の陽射しにつつまれて、
風もなく暖かな1日であった。
家内と約束どおり、『調布』の駅前に出かけて、
銀行、専門店の集約されたパルコ、スーパーの東急、西友などを寄ったりしたのである。
私が定年退職後、年金生活に入ると、
通常の買物は私の担当となっているので、家内と2人で買物などは、
四季折々を含めて7回前後である。
私は自宅から最寄のスーパーに行くことが多いが、
週に1度ぐらいは『仙川』、『喜多見』などの駅前に散策を兼ねた出かけて、
本屋に寄ったり、『ドトール』でコーヒーを飲んだりしている。
このような生活を4年ばかりしていると、
調布市の中核の『調布』の駅前で人の多さに驚き、
まして『新宿』駅の付近の専門店、デパートに買物をしたりすると、
ただ人の多さに圧倒されて、疲れが増すのである。
昨日も買物の途中で、最寄の駅前にある衣料専門店で家内が婦人衣料品を眺めだした時、
私は『ドトール』でコーヒーを飲んで待っている、と告げて、
私は本屋に寄り、一冊の本を買い求めて、
『ドトール』で煙草を喫いながら、本を読んだりしたのである。
結果としては、私達の買物などの外出は、
11時過ぎに出かけ、帰宅したのは午後の4時過ぎであったが、
私は人の多い場所は疲れ果てて、
主庭に下り立ち、静寂な中で煙草を喫ったりしていると、
心が落ち着き、苦笑したりしたのである。
私は64歳の身であるが、齢を重ねるたびに、
人の多い場所は苦手になっているのである。
このような思いは、以前にこのサイトに綴っていたと思い、
過去に投稿したのを読み返したのである・・。
【『都心』は、遠くなりにけり・・♪ 】と題して、
2007年4月30日に投稿していたが、あえて再掲載をする。
【・・
第一章
私は東京の郊外の調布市で生を受けて、
結婚した前後の5年間ばかりを除き、
これまでの大半はこの地で過ごしている。
そして中小業の民間会社のサラリーマンとして35年務めた後、
定年退職後の3年生の身である。
私は高校時代から都心を目指して、通ったりした。
それまでは幼年期に母に連れられ、新宿の伊勢丹(デパート)に行ったりして、
階段の踊り場、地下の通り道などで、
不幸にして戦争で身体の一部を失くされ、軍歌の音色とも、その容姿を見るのが恐かった。
小学校の高学年になると、地元の映画館はひとりでよく通ったりしていた。
ある日、次兄から都心の日比谷にある映画を観ようと、
新宿から築地行きの都電を乗ったが、乗り物酔いで私はしょげた・・。
確か都電の運賃は均一13円であったが、
下車したら当然もう一度支払う必要があったので、
日比谷まで頑張れ、と次兄に励まされ、
青ざめた顔で日比谷で降りた記憶が残っている。
高校は中野区に所在していたが、新宿を経由し通学したので、
荻窪行きの都電を利用したり、或いは中央線で中野駅から登校したりした。
下校は殆ど新宿の繁華街を通り、食べ盛りであったので、
街中の食堂でカツ丼、親子丼、ラーメンを午後の3時過ぎに食べることが多かった。
そして、ひとりで映画館に立ち寄ったりしていた。
この頃に、『小田急デパート』そして『京王デパート』が開業されたりし、
特に新宿の西口は激しく変貌してた。
私は読書も好きだったりで、神保町の古本街に行ったり、
ときには映画の封切を求めて、日比谷の映画街も通ったりしていた。
東京オリンピックの数年前の出来事である。
第二章
大学に入学してからは、映画鑑賞に没頭していたので、
新宿、日比谷の映画館を中心で鑑賞していたが、
池袋の『人生座』と銀座の『並木座』は名画が上映して折、
私なりに欠かせない映画館となっていた。
東京オリンピックの開催していた時、京橋の『近代美術館』に於いて、
日本映画の昭和初期からの名画特集を上映していたので、
日参したりしていた。
映画以外は、新宿の『紀伊国屋書店』、
このビルの中にある喫茶の紅茶専門店を利用したり、
新宿御苑を散策したりした。
その後、大学を中退し、芸能専門学校のシナリオ科に通った頃は、
銀座の『松坂屋』の裏手のビルに教室があり、数寄屋橋から歩いたりしたが、
お金に余裕のない私は大人の街である銀座の高級店には縁がなく、
もっぱら大衆向けの店を利用したりしていた。
映画、文学青年きどりの生活を過ごし、
アルバイトや随時契約の単発仕事で何とか生計を立てていたが、
30過ぎた時、きちんと家庭を持てるだけの力があるの、と叔父など云われ、
根拠のない自信ばかり過ごしてきたので、通常の社会人に戻る決心をした。
この時代は高度成長期であったが、
大学を中退し、企業の中途入社は容易ではなかった。
私は止む得なく、コンピューターの専門学校でソフト科に1年間学び、
何とか大手の企業に中途入社できたのは、
25歳を過ぎた昭和45年の春であった。
横浜の新子安にある工場の一角で、商品管理を得た後、
私は独立したレコード会社に配属された。
本社は赤坂見付駅前の東急ホテル・ビルの一角にあり、
私は昭和46年の早春から数が月程、通った。
この東急ホテル・ビルの2階は小売専門店が並んで、
おしゃれな高級店であったので、
私は喫茶店を利用できる程度であった。
赤坂は銀座と同様に大人の街であったので、
若いサラリーマンの身としては、
TBS方面の小料理店で昼食を食べたりした。
この直後、本社が六本木に移転したので、
平成4年までの20年、私は六本木の界隈の空気と共に過ごした。
第三章
昭和46年5月に本社が六本木の所在となり、
四丁目から百メートル内のビルが勤務地となった。
四つ角に『誠志堂書店』、『アマンド』、銀行があり、
最寄には中華料理の『楓林』があった。
都の経営する大衆的な『六本木食堂』があったり、
日本料理の大衆化の『正直屋』、
イタリア料理の『カーディナル』、その他小料理店があったりした。
喫茶店は洋菓子の『クローバー』、『貴奈』をはじめとし、
数多くの喫茶店があった。
『俳優座』のビルが新築過ぎた頃から、街は急速に変貌をはじめた・・。
レコード店の『WAVE』、本屋の『青山ブックセンター』に通ったり、
或いは日本料理の『美濃吉』を利用したりしていた。
私は昭和47年頃から、シャンソンに熱中したので、
銀座の『銀巴里』でコーヒーを飲みながら、
水割りのウィスキーを呑みながら『蛙たち』でシャンソンに酔いしれた。
或いは、渋谷にもカンッオーネを主体の店にも足を運んだりした。
そして私の勤務上、兄弟会社のようなレコード会社が原宿のピアザビルにあって、
原宿駅、表参道などから業務提携の関係で数年通ったりした。
平成4年の5月過ぎに、レコード会社の合併により、
渋谷の外れの勤務となり、
私が20代の後半に散策したパルコ、スベイン坂、道玄坂を懐かしんだりした後、
東急の文化村を知ったりした。
私の現役時代は、中小業の会社であり、管理畑が大半であったので、
世間がよくいう社用族として、
銀座の一流と称されるバー、料亭などの世界は知らない。
従って、私は普通のサラリーマンの身なので、
シティ・ホテルは『帝国ホテル』、『ニューオータニ』、『六本木プリンス』、『京王プラザ』等ぐらいしか利用した事はないが、
駅付近の商業ビル内の食事処、街中の専門料理店、
居酒屋をたびたび利用していた。
そして、ときには男の子であるので、風俗店に行ったりしていた。
定年退職後、都心の人混みに疲れたせいか、齢を重ねたせいか、
六本木ヒルズ、東京ミッドタウン、新丸ビル等の興味がない。
ときおり、新宿の『伊勢丹』、『小田急デパート』、
そして登山の専門衣料店で買物はするが、
帰路の最寄の『成城学園前』の駅ビル、付近の食事処で食事をするのが、
何かしらほっとし、気楽に食べ、呑んだりしている。
日常の多くは、小田急腺の『成城学園前』、『喜多見』、『狛江』、
京王線であったならば、『仙川』、『つつじヶ丘』、
『調布』の駅付近で充分と思っている。
一番気楽なのは、自宅の庭を眺めながら、
弐合徳利で純米酒の辛口を呑みながら、
家内とおしゃべりをし、食事をするのが最良である。
そして、ときおり家内と国内旅行をし、
料理、和菓子、日本酒をほめ、仲居さんにからかわれ、
温泉に入浴したりして、
その地の風土を愛(め)でるのが良薬となっている。
このように長年に於いて苦楽を共にした都心であったが、
私の心は遥か彼方遠くなっている。
・・】
この以前にも、
【 『東京ミッドタウン』・・♪ 】
と題して、2005年7月18日に於いて投稿しているが、再掲載をする。
【・・
読売新聞の15日の朝刊で、
《 防衛庁跡地に東京ミッドタウン
都内一高く、2007年春開業 》
と見出し記事があった。
無断であるが、転記させて頂きます。
【・・
三井不動産は14日、国有地再開発として
過去最大の規模となる防衛庁跡地(東京都・港区、10.2ヘクタール)の再開発計画の概要を発表した。
同社や積水ハウスなどの共同企業体が約3800億円かけて、
都内で最も高い54階建て(248メートル)の超高層ビルなど、
5棟の複合ビルを建設する。
名称はニューヨークのミッドタウンにちなんで、
「東京ミッドタウン」とする。
複合ビルには、オフィスやむ商業施設、賃貸マンション、ホテルなどが入り、
2007年の春に開業する。
既に、アメリカ高級ホテルのザ・リッツカールトンの進出や
サントリー美術館の移転、
富士フジフィルムや富士ゼロックス、ヤフーの入居が決まっている。
・・】
以上が記事の全文です。
私は昭和46年春から平成4年春まで、
六本木にある会社に通勤していた。
この六本木のはずれに、防衛庁があった。
六本木の地下鉄の駅を出ると、四丁目の交差点があり、
ここから二百メートル前後に東西南北に小さな複合ビルが立ち並びんでいた。
この繁華街のはずれに防衛庁があったので、
何となくとりとめのない感じを持った。
防衛庁の塀は、安すぽいコンクリートで囲みを造り、正門は頼りのない感じであった。
最初、この正門を通った時、昭和35年の安保闘争の時、全学連等のデモ隊が押し寄せた場所だったのか、
と考え深げであった。
退社後、地下鉄の駅に向かうと、繁華街を目指した人々とすれ違った。
ビジネスマンは少なく、遊びに来ている人のほうが圧倒的に多かった。
この繁華街のはずれに防衛庁があったので、誰しも違和感を持っただろう・・。
その後、地下鉄の千代田線が開通となり、
『乃木坂』駅が出来て、この駅から防衛庁を通り、
四丁目の交差点までの大通りに客足が増えた。
確か昭和57年前後だった。
防衛庁も塀、門扉を一新し、小奇麗になった。
私は退社後、この通りを歩いて『乃木坂』駅に向かった。
途中、黒人兵が日本の若い娘と腕を組んだり、若い娘のグループ、
そして30前後のご婦人たちがノーブラで高価なブラウスを召して、
さっそうと歩いてくるのを見惚れたりしていた。
その後、ディスコ・ブームとなり、
六本木の繁華街は益々大人のおもちゃ箱をひっくり返したの様に、
活気と喧騒につつまれていた。
しかし、この大通りの二百メートル前後の防衛庁だけは、
いつもひっそりしていた。
その後、市ケ谷にある自衛隊の基地に移転したが、
この跡地から江戸時代の小判が出てきた、と風のうわさで聴いた。
私は長年この防衛庁の前を通り過ぎたので、なつかしく綴った次第である。
私は、この「東京ミッドタウン」が開業しても、行かないだろう。
あの時代の空気を知っているひとりとして、
心の宝物として大切にしまっておきたいからでもある・・。
・・】
このように綴っていたのであるが、
私は愛惜は限りなくあるが、都心は卒業した、と感じているのである。