夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

私達夫婦の新婚時代は・・♪

2009-03-30 10:39:32 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
昨夜の夕食の時に、
『明日・・あたしたちの結婚記念日ね・・』
と家内から私は云われ、微苦笑をしたりした・・。

今朝、少し寝過ぎて、ぼんやりと庭先のテラスで、
春の陽射しのつつまれた樹木、草花を眺めながら、煙草を喫ったりし、
私達夫婦は子供に恵まれなかったが、こうして34年を迎えることが出来たか、
と思ったりしたのである。

そして、居間に戻り、パソコンで私が新婚の頃の想いでを投稿した文を読みながら、
しばらくの間、煎茶を飲みながら、読んだりしていたのである・・。


【 新婚旅行・・♪ 】と題して、
あるサイトに2005年10月28日に投稿しているが、
あえて再掲載をする。

【・・
私達夫婦は、昭和51年の春に結婚した。

この頃の新婚旅行は、友人達はハワイ旅行が多くなり始めていた。

私は海外に行くより、京都と長崎をゆっくりと観るのを希望した。
京都は日本文化、長崎は江戸時代の西洋文明の発祥地という理由だった。

会社における私の担当する業務の関係で、休暇は1週間が限界である上、
国鉄が1部ストが予定されていたのである。

結局は、長崎の遠方を避けて、倉敷、六甲山、京都となった。

結婚式の当日は、午後より結婚式、そして夕刻より披露宴であったが、
台風のように春の嵐で、風が吹き、ときおり小雨まじりの日中であった。

披露宴に来客して下さる方々に恐縮していたが、
私の育ち、そして今後の人生を暗示しているかのようだった。

披露宴が終了し、ニューオータニに宿泊した。
翌朝、朝食をしながら窓辺からの景観は、
快晴の上、都心の良き縮図を現していた。

東京駅で家内の友人達に見送られ、
岡山駅に向かい、そして倉敷に着いた。

翌日の三時頃まで、倉敷を散策した。
幾度もハイヤーに乗ったり、程度の高い宿泊先、新幹線はグリーンといったように
身分不相応し、落ち着きがなかったので、散歩の折は心身良かったのであった。

この後、新神戸に行き、駅前より観光ハイヤーに乗り、付近を周遊した後、
六甲山のホテルに泊まったが、ホテルが改装中で神戸の夜景は観ることが出来ず、
部屋でワインを呑んだりしていた。

翌朝、京都の鴨川の畔(ほとり)にあるホテルで泊まった。
夕食は地下の割烹で、京料理を食べながら、日本酒を呑む。

翌日は西方寺を観た後、鴨川を散策した後に帰京した。

たった3泊4日の新婚旅行となったが、
翌日は仲人の宅などの挨拶廻りを二日ばかりして、短い休暇は終わった。

翌年の春、ニューオータニに宿泊し、
家内はドレスを身に付け、
ワインを呑みながらフランス料理のデイナーとした。

このホテルの庭園、そして景観が私共を魅了したからである。
・・】



そして、この後の新婚生活の頃を
【  夢の中で・・♪ 】と題して、
翌日の2005年10月29日に投稿しているが、
あえて再掲載をする。

【・・
   第一章

私達夫婦は、昭和51年の春に新婚生活の始めた。

入居した所は、東京都と千葉県の間に流れる江戸川沿いにある『国府台』であった。
この駅は東京医歯大、和洋女子大、国府台高校などある学園街であった。

この頃の『国府台』駅は、木造造りの駅舎で、
私共は最初に観た時はこうした老朽化した建物に驚いたりした。

駅より商店街を抜けると、真間川が流れて折、
この近くに賃貸マンションがあり、ここの最上階の1室を借り入れた。

角部屋の窓を開けると、樹木に覆われた小高い丘にお寺があった。
私はこの窓辺から観える景観に魅了され、借り入れることを決めたのである。

このお寺が由緒ある弘法寺(ぐほうじ)であることを知るのは後日ある。



   第二章

4月の初めの日曜日、家内と連れ立って付近を散策した。

住宅街のはずれに弘法寺への石段があった。
60数段を昇りきると仁王門があり、
仁王の特有の表情を見せており、運慶の作といわれているが、
こうしたことはどうでも良いことである。
ただ、歴然と私共の前に仁王の容姿を見れば、
まぎれなくその時代の作者が仁王に心身を懸けて取り組まれたのを受容できた。

境内は広々としていた。
正面には祖師堂、本師堂が並び、
右側には土塁の上に鐘楼堂があり、
左の遠い彼方に中雀門と本堂があった。

私共は祖師堂の右側にある枝垂桜に吸い込まれ、歩み寄った。
静寂な境内のはずれに、枝垂桜の大木は、
世間の喧騒も捕われず、淡々と花びらを湛えていた。

家内と共に語り合い、歳月を共に過せる喜びに慕ったひとときを重ねてきたが、
行く先に世間の荒波が待っている事は、
この時は解らなかった。



   第三章

私はこの頃会社の担当業務で忙しく、
日曜日以外は休めるような状態ではなかった。

桜が散りかけた頃、この弘法寺を家内と散策していた時、
雑木林の開けた所で、中高年の30数名の男女の方達が、
料理と酒など持ち寄って、大声でそれぞれのお方たちが談笑していた。

そばに『国府台砲兵之碑』の石塔が建てられていた。

大家さんから先週に聞く所に寄ると、
戦前はこの付近に陸軍の野戦重砲第7連隊があった、と教えてくれた。

あの戦いに明け暮れ、不幸にも亡くなられた方達の身寄りの人が、
こうして桜の舞い散り中、供養されていると思えた・・。

この小高い丘に立つと、街並みが一望できた。

風は樹木の間をゆるやかに流れ、
春の木洩れびの光の中で、夢幻のようなひとときであった。

私共の夫婦は、少し離れた所で、
ビールを呑みながら、持参したお握りを食べはじめた・・。



   第四章

晩秋の頃、家内の師事している先生が、
この弘法寺にある遍覧亭の茶室で、
お茶会を行なった。

この頃の家内は、週二回先生の宅にお稽古に和服で、通っていた。

家内の妹と友人達の社中の人々は、
私達の家に立ち寄ってくれた後、お茶会に行った。
後姿の女性達を見送り、華やかな雰囲気に私は包まれた。

この後にしばらくして、雨が静かに降ってきた。

その後、家内より電話があり、何かしら届けて欲しい、と連絡があった。

私はセーターとズボン、素足の下駄でこのお茶室までの道を5分ほど歩いた。

お茶室の水屋近くで、声を掛けた。
家内の妹が出てきて、手渡した。
普段、見慣れない和服だったので、
私は眩しげに観た。

帰路の時は、雨は止んでいた。
静寂な弘法寺を後にし、迂回した坂道を降った時、
道の端に雨水が流れ、落葉した紅葉、黄葉が流れ下っていた。

私達はこの弘法寺の近くで仮住まいを2年過した後、
私の実家の近くに移り住んだ。

こうして30年近く前の情景を想い返して、
綴ってきたが、今から観ると新婚生活のこの時の時代は、
夢の中のような出来事であった・・。
・・】


このように拙(つたな)い綴りで投稿していたので、
今こうして読み返すと恥ずかしい限りであるが、
私達夫婦の人生の駆け出しの新婚時は、
まぎれなく余りにも人生の苦楽も知ることが少ない甘味な時代でもあった。




a href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする