
もとより氏は、長らく毎日新聞に在籍されたこともあり、
私はネットで、【毎日新聞】が発信するサイトを読んだりした。
《・・毎日新聞2025/4/15 14:26
元サンデー毎日の徳岡孝夫さん死去 95歳 三島由紀夫に檄文託される

元毎日新聞記者のジャーナリストで、
作家の三島由紀夫との親交で知られる評論家の徳岡孝夫(とくおか・たかお)さんが12日、
老衰のため死去した。95歳。
葬儀は親族で営む。喪主は次男良介(りょうすけ)さん。
大阪府生まれ。京都大文学部卒。1953年毎日新聞社に入社。
大阪社会部記者やバンコク特派員を歴任した。
三島との初対面は「サンデー毎日」編集部時代の1967年5月、
自衛隊体験入隊を終えた際のインタビュー。
以降も交流が続き、1970年11月、
三島が東京・市ケ谷の自衛隊に乱入して割腹自殺した事件の直前に、
檄文(げきぶん)を託されたことで知られる。
1985年に退社しフリーに。
気鋭の文筆活動と翻訳の業績に対して、1986年菊池寛賞。
ミステリーノンフィクション「横浜・山手の出来事」で、
1991年日本推理作家協会賞。
三島との交友を基に生身の人間像に迫った「五衰の人 三島由紀夫私記」で、
1997年新潮学芸賞。
他の著書に「妻の肖像」「『民主主義』を疑え!」、
訳書にドナルド・キーン「日本文学史」など多数。 ・・》
注)記事の原文に、あえて改行など多くした。
ご逝去の報に接し、謹んで哀悼の意を表します、
と心の中で呟(つぶや)きながら、黙祷
私は小学2年に父に病死され、母と兄ふたり妹ふたりの間で育った身である。
やがて私は1970年(昭和45年)の春、民間会社に中途入社し、
最後の5年半は、リストラ烈風が加速される中、あえなく出向となったりした。
そして2004年(平成16年)の秋に定年を迎えることができたので、
敗残者のような七転八起のサラリーマン航路を過ごした。
こうした中で、私はもとより上司、先輩などから多々教示されたりし、
或いは書物から多く学んだりしてきた。
そして少年期から父親が不在であったので、
何かしら慈父のような御方を探し求めたりしてきた。
或いは年長の御方たちから、人生のものさし、を学びたく過ごしてきた。
こうした中で書物からは、庄野潤三、城山三郎、山口 瞳、宮脇俊三、倉本 聡、各氏の
随筆から学んだりしてきた。
やがて2004年(平成16年)秋に35年近く勤務し定年退職した後、
多々の理由で年金生活を始めたりした。
こうした中で、阿川弘之、曽野綾子、三浦朱門、 高峰秀子、松山善三、徳岡孝夫、各氏の随筆から、
殆ど読み、人生の指針を学んだりしている。
或いは私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たったふたりだけの家庭であるが、
いつの日にか、家内が私を残して、あの世に旅立ち、
まさかの遭遇で、私が『おひとりさま』になること考えられる。
こうした思いもあり、愛妻を亡くされた倉嶋 厚・著作の『やまない雨はない』、
徳岡孝夫・著作の『妻の肖像』、 垣添忠生・著作の『妻を看取る日』、 川本三郎・著作の『いまも、君を想う』、
新藤兼人・著作の『愛妻記』、それぞれの各氏の愛妻の終末の病状、そして告別の死、
その後の『おひとりさま』の生活状況を多々教示されてきた。
そして私は、川本三郎さんは恥ずかしながら同年であるが、
これ以外はすベて年長の御方たちである。
私は年長の御方たちから、少なくとも人生の機敏を深く学び、今日に至っている。
このような私の深情であるが、私は論壇月刊誌の『諸君!』は愛読者のひとりで、
確かこの中に於いて、作家・曽野綾子さんの数多い著作の中で、
田子倉ダムやアジア・ハイウェーの建設現場で働く技術者たちの人生を描いた作品、
『無名碑』(講談社、1969年)を称賛されていた。
NHKテレビの『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』は、
確か2000年3月に放映されたドキュメンタリー番組であるが、
この番組を企画された御方は、曽野綾子さんの『無名碑』より、
誘発されたものかしら、と私は感じ深めたりした・・。
いずれにしても私は、40歳の頃から氏の公表された作品より、
氏の確かな視線を多々学び、敬愛してきた御方であり、
安らかにご永眠されますよう心よりお祈り申し上げます、
と私は心から哀悼の意を表したりした。