菅総理も所信表明演説で述べているが、ここ数年、地方分権の議論がかなり強く言われている。
私はこれまでこうした意見に漠然とした拒否感を持っていた。その理由は優秀な中央官僚でもダメなのに、質の下がる地方官僚に権力を持たせればもっとだめになるのではないか、という感じからきていた。
ここ数日、テレビや雑誌で片山総務大臣の意見を聞いてそのあたりの感じが大分確認されてきた感じがする。地方は知事や市長と言った首長と議会の2元連立性になっていてそれぞれ独立して選出される。片山総務大臣の話によれば、実権を持っているのは議会のほうだが、議会では殆ど実質的審議が行われず、殆どが根回しで決まっていて、議会は原稿棒読みと反対なしで決まってしまうのが殆どらしい。
そういう状況を熟知している知事たちが、橋下大阪府知事をはじめとして中央政府に地方分権を求めているのは、中央が地方に対して理不尽な締め付けを行っているからだということがやっと最近私にもわかってきた。その例が子供手当である。賛否両論ある子供手当を中央が勝手にやると決めて、その一部を地方で負担しろという。今いくつかの自治体が支払い拒否を表明しているが、こういうことができるようなルールになっているのが問題で国は国、地方は地方で責任を持つべきだというのが理屈のようである。
しかし、民主党政権発足当時にあった政治主導と同様に今の地方分権の流れは大きな危険性をはらんでいると思う。政治主導は官僚が狭い視野で国を動かすことの問題を指摘し、国民の代表である政治家が決断するべきだ、という意見で、一見もっともで今でも賛成意見は多い。しかし実態ではこの機会に乗じて全て自分の言うことを聞く官僚にして君臨しようという政治家が出るリスクもある。実態を知らない政治家が勝手なことをやろうとしてさっぱりうまくいかなかったというのが鳩山政権の総括と言えるだろう。
今の地方分権の話にも同様な問題を感じる。地方分権は権力の移行なので、「自分が権力を手にしたい」という人が、現状の問題点を理由にしているという側面がかなりあるように感じられて権限を移行すると却って大きな問題が出るような感じがしている。
地方分権は時間をかけてゆっくり進めるべきだと思う。
それを待っていたのでは、ちっとも進みません。「ゆっくり」と言っても、それを許すだけの財政的余裕もありません。なぜ地方分権を進めるのか? これは中央集権方式の「非効率」と「現場から遠い」ことによる適応性が悪い事に尽きるでしょう。
中央官僚よりも地方官僚の方が「質的」に劣るのはやむを得ないでしょう。それでも、できる限り地方への権限移譲を進めるべきと私は思います。
その第一目的は、官僚組織の簡素化です。中央官僚をはじめとして、とにかく何でも「お上」頼りにする日本人の要求を受け入れて進めた結果、とんでもなく肥大化して、費用が発生している。また、でき上がった官僚組織が保身のためにますます肥大化、非効率化が進んでします。だから、できる限り、中央主権⇒地方分権、更には民営化による効率の改善を、すべての領域で進める必要があります。
もちろん、現状のまま、地方分権を進めれば色々な問題が起きてきます。それでも、大きな流れとしては中央集権⇒地方分権を旗印にして、出てきた問題をその都度解決していくしかないです。制度や環境の整備だ云々と言っているよりも、まず行動が必要と思います。
幼稚園と保育園の一本化で見せた、官僚たちの粘り強さと、既得権益者の抵抗の強さが、その辺りを見事に物語っています。結局、両方を存続させて、「こども園」なる位置づけの「層」を新たに作ることで決着したようです。官僚の仕事が増えて、既存権益者がなんとなく守られた。結果として「行政の費用は増大し」、「既得権益者の顔を立てただけの決着です。
この一連の動きをみると、小泉さんというのは、つくづく「わかりやすく、大きな方向は正しかった」と実感する次第です。地方分権化や民営化は「現在の日本」では喫緊の課題です。今まで非効率な分は「国債の発行」で先送りし、凌いできました。それを「環境整備してから」と待つだけの余裕はないと思っています。
放置した場合の問題と、多少強引に進めた場合の問題とどちらが「国民の為になるか?」の選択です。もっとも、民主党政権が誕生した段階で私は「地方分権は進まないだろう」と感じていました。官公労の強い組織に支えられた民主党では、地方分権による組合員の権益縮小、まして民営化なんて、とんでもない話です。郵政の民営化見直しを主張して国民の支持を受けた政権ですよ。
私は鳩山政権の政治主導はやらないほうが良かったと思っています。やったけれど中途半端なので押し戻された、ではなく、そもそもゆがんだ狙いを持った政治主導だったと考えているからです。
官僚システムはそれぞれの省の利益を考えて官僚が動くように設計されています。そこで省間にまたがる問題に関しては政治主導で動かすのが、本来の政治主導だと思っていますが、鳩山政権の政治主導はそれぞれの省内の権限を政治家が奪い取ろうとした、小沢幹事長の権力集中が狙いだったと思っているからです。
地方分権にも色々な観点で地方分権を言っている人が居て危ないと思っています。もっとも地方の場合には、殆どの自治体で前より悪くなったとしても、いくつか良くなるところが出れば、それを皆勉強することが期待できるという点が違いますが・・
私は、何事も「結果が皆に分かる、それで、反省して、次の判断に生かす」仕組みが基本で、大切だと思います。それが民主主義の基本で、「民」が最終判断をして、判断をした責任を負う仕組みです。
民主党が「政治主導」を唱えて、その考えに沿って得票があり、それで進めてみたら、「意外と最初の思惑と違っていた」のが現実だと思います。これは政治主導に限らないと思います。公共事業にしても子供手当にしても、従来簡単に変わらないと思っていたことに対し、思い切って変えてみた。それはそれなりの意味があると思います。
多少の不足や行き過ぎはあっても良いと思います。早めに気がついて、軌道修正をすればいいだけの事。金科玉条の如く、墨守することの方が罪が重いと思います。(まさに官僚主導)
官僚の場合は、一旦公務員試験で(国家であれば上級中級等)採用されれば、その後の考課が殆どされないことです。しかも官僚相互で批判して、改善することなく、閉じこもってしまう仕組みが、蔓延っているのが大きな癌になっています。機能が変わって、余剰となっても、大きく職種転換を迫られるわけではなく外郭団体の様な部門で生き延びる。
つまり、官僚主導は「誰が判断したのかが曖昧」、相互でかばいあって、ぼろや失敗を隠してしまう。その様な仕組みが批判を受けても、結果的にはどんどん肥大化して、国家予算(=税金)を食いつぶしている。
これらの仕組みを、何らかの形で変えたい、その民主党の志に多くの国民が賛同したのだと思います。その民主党のパフォーマンスがだらしないから、「政治主導」がだめだと判断するのは、却って守旧派のレッテルを張られかねません。右へ少し揺れ過ぎたら、左へ少し戻し、それでも足りなければ、更にもう少し左に戻す。つまり、常に「より良い方向に向かう改善」が大切と思っています。
少しばかりの失敗に挫けることなく当初に狙った方向に進んでみて、主権者たる国民の審判を仰げばいいのです。それで負けたら反省すればいいのです。その時に、「国民におもねる」姿勢を注意する必要があります。聞こえのいい言葉と主張だけに気を取られて、酔っていると、そのつけは国民に回ります。国債の山がまさにそれです。(大部分は自民党時代のものですが、民主党になり、拍車がかかっています)。つまり、問題がより明確な形で見えるようになっただけの事。
自民党に戻したところで、全部がすぐ元に戻るわけではないでしょう。それでもとにかく、民主党にしろ自民党にしろ、最大4年間まで委託したわけなので、その成果をもう少し我慢すべきでしょう。
私が他のタイトルの時にも主張しているのは、どんな選択をしても、それは選択した人が責任を負う仕組みが我が国の民主主義です。その意味では、何とか回っていると思います。
地方の行政も根本は同じでしょう。自分たちの暮らしを誰に委託したらよくなるのかを考えて投票しています。その結果に失望したら、次の選挙でその反省を反映すればいいのです。誰の主張が、現実的か? その成否をどのような尺度で誰が見極めるのか? それを分析し、開示するのがマスコミの役割と思っています。
日本で、直接批判されずに、業界内(自分たちだけの土俵)で、こそこそと動き回るのが、マスコミと官僚です。だから、民主党が公務員の経費(人件費? 人数?)を2割削減すると掲げた時に、やれると思った人は民主党に投票したのでしょう。私は、「即座に無理だ」と思いました。だって官公労や連合の強い支援を受けた民主党がそんなことできるわけがないと思ったので。その結果は?
いずれにせよ、政治主導と実行して、官僚組織を少しばかり縮み上がらせた点で、「民主党は「それなりの成果」をあげました。問題はその動きを反対に盛り返そうとする勢力です。自らの権限を縮小・削減する動きに必死になる連中が必ず居るでしょう。それを最終的には次回の選挙で国民がどう判断するかです。それは国民の問題です。
政策に関してはおっしゃるようにマニフェストで政策を唱えて、国民が支持すれば選挙で勝ってやってみる。それがうまくいかなければ、与党が政策を見直すか、次の選挙で違う政策を唱える野党が勝つ。失敗も含まれるが、これで良いと思います。しかし権限の移行は違う。
私は権限の移行は慎重にやるべきだと思っています。公務員の人件費削減などの政策と政治主導は本質的に異なったものだと思います。
官僚と政治家のどちらが力を持つべきかは政策とは関係なく権力搭載だと私は認識しています。確かに官僚システムは長年の歪がたまってきて問題点が噴出している。しかし、それを口実に次官を格下げにできるようにして脅しをかけた、私はこれを評価していません。
政治家が打ち出した政策に官僚が抵抗するからその抵抗を排除して実行する、というのは賛成できます。例えば事業仕分けで止めると決めたものが形を変えて出てくる、それを排除しようとするような動きはやれば良い。
しかし、人事権を振りかざして、骨のある官僚を排除して、自分にこびへつらう官僚だけを残そうとするような動きがこれに交じって行われる、この点は排除しなくてはなりません。私は鳩山政権(小沢幹事長)はこれをやろうとしていた、と見ています。だからやらないほうが良い政治主導だったと言っているのです。
事業仕分けはなど政治主導などと言わなくても実行できる。財政の無駄遣いを排除すると言えば良いのです。殆どの政策は政治主導などと言わなくても実行できます。
地方分権だって、地方に権限を移すことは慎重にするべきです。現在、中央官庁に不合理な意思決定がある、それをただすことは個別にやれば良い。しかしそれを「権限を移すべき」というキーワードでくくることには反対です。
要は、どちらの行政方式が、サービス(管理)を、より良質で、より迅速に、より効率的(廉価)に提供できるのか? その判断基準は何か、誰が判断するのか?のQCD管理と同じだと思っています。
民間で一般的な方法や尺度で進められる、これらの施策と見直しが、なかなか、既得権者によって阻まれ、効率化がすすめられない点が問題だと思っています。
鳩山さんや小沢さんの真意が那辺にあったのかは憶測でしか言えません。しかし最初に掲げた主張は「なんとなく賛成できる」方向だったと思います。その実現が怪しくなったときに、なぜなのかを追及するのは、マスメディアの大きな役割です。
ウィトラさんは、高級の良質官僚との付合いが多いかもしれないけど、その取巻き連中の質は、本当に大したことないです。その非効率、「並、もしくはそれ以下」の行動しか発揮できないような部分をどのようにして改善させ、もしくは組織から排除できるかも、大きな課題です。
もちろん、こつことつ地道に業務をこなす人も大切ですが、私は、幹部になれば、何らかの形で昇格と降格は常に並行して行われるべきと思います。上にだけおもねる人間はけしからんと言っても「誰がそれを判断する」のですか? 民間会社組織であれば、「事業収益」があります。これは市場での競争にさらされて、市場が判断する領域です。
ところが、官僚の評価は中央官庁の局長レベルになれば、立派な大企業(一部上場企業)の社長と同レベルです。私は、その人たちが間接的とはいえ選挙で選ばれた議員、大臣の意向に沿って動こうとするのは、至極もっともなことと思います。
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ところで、民間企業なら、不景気になったらばらばらの組織を束ねます(=中央集権化)。拡大するときは分散化(地方組織化)が原則です。中央集権化の際に生じる余剰人員は、判断者が何らかの措置を講ずる必要があります。
中央でやったらいいのか、地方でやったらいいのかの問題は、双方で「自分達の方がQCDで優れていると主張し合って、それを国民が選んだ政治家が判断する方式をもっと取り入れれば、次第に片付くと思います。(もちろん方式を採用した場合、それが結果的によかったのかどうかの判定基準とその時期を明確にすること)。その際に、余剰となった人、職種の転換を迫られた人にどう対応するかです。これも民間が採用している方法が適切だと思います。何年かした時に、その約束した判定基準で成否を確認すればいいのです。もちろん、そのは最終判断と、それによる結果を受け入れるのは国民です。
必ずしも地方分権がいいのか中央主権がいいのかの論議とは少しずれるかもしれませんが、閉塞感の或る現状では、何らかの変化を起こす方向に進むのが「より望ましい」と思っています。
収束しそうにないのでこの件はこれで終わりにしましょう。
私の論点は権力の移行を唱える人には、本当にその方が組織のために良い、と思っている人と、自分が好きなようにしたいから言っている人が居ると思っています。そして後者の方が多い。
私は権力を手放す側で移行を唱える人の意見は先ず尊重するが、権力を入手する側で唱える人の意見はまず疑ってかかる事にしています。