真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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女性蔑視発言と選択的夫婦別姓問題の源、家族国家観

2021年03月07日 | 国際・政治

 前回、東京五輪・パラリンピック組織委員会・森前会長の女性蔑視発言は、日本が、いわゆる先進国で唯一、多くの国民の声を聞き入れることなく、いまだに法律婚の条件に夫婦同姓を義務付けている考え方と関連していると思われることについて書きました。
 また、選択的夫婦別姓を認めると”夫婦の一体感を損なう”とか”家族の絆が失われる”というような主張がなされていますが、それは表向きの話で、本当はもっと深い理由が隠されているのではないかということも書きました。

 そんな時に、また考えさせられる報道がありました。新しくオリンピック・パラリンピック担当相となった丸川珠代氏が、選択的夫婦別姓の導入を求める意見書などを、地方議会で採択しないよう呼びかける文書に名を連ねているというのです。
 IOC理事会は、オリンピック大会に出場する選手たちの間におけるさらなるジェンダー平等を促進するために、様々な取り組みをしている上に、丸川五輪相は、オリンピック・パラリンピック担当だけではなく、日本における男女共同参画担当も兼務していることから、地方議会に圧力をかけるような文書に名を連ねていることが問題視されたのだと思います。男女平等の社会作りを進める旗振り役でありながら、選択的夫婦別姓導入反対の文書に名を連ねていることは、報道通り、明らかにおかしいと思います。
 あらゆる面で、マイノリティの権利を尊重し、多様性を認め、受け入れるようとしている国際社会の流れにも逆行するものだと思います。

 先日の朝日新聞に、外国で別姓のまま結婚した夫婦が、日本に帰って来たら、「事実婚」と認められず、ビザの手続きができないなど、様々な不利益を被り、国を相手取って裁判中であるという記事が出ていました。欧米で「日本異質論」が広がるのも当然ではないかと思います。
 自民党政権関係者は、支持が得られず、政権を奪われる恐れがあるからか、一般国民の前では真意を語らないようですが、安倍前総理が会長を務める神道政治連盟国会議員懇談会創生「日本」の会合では、明らかに日本国憲法を否定する発言が平然となされているようです。また、自民党政権は、GHQが解体され、日本が主権を回復するや否や、GHQが軍人優遇に問題があるとして停止を命じた軍人恩給をそのまま復活させたり、紀元節の日を建国記念の日にしたり、元号を法制化したり、様々な戦前回帰の政策を進めてきました。また、憲法改正草案は、日本国憲法の第一条の条文に、なぜか”(天皇は)日本国の元首であり…”、という文言を追加しています、だから私は、自民党政権が、なぜ執拗に選択的夫婦別姓導入に反対するのかを、しっかり理解する必要があると思います。

 戦前、日本の子どもたちは、親を敬い、親に尽くすことが何より大事であると指導されました。それは、修身の教科書を開くまでもなく、教育勅語に、”爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ…”と「」が最初にあげられていることでわかります。
 戦前の日本は、家父長制的な家族意識を深化・発展させ、親に対する「」を重視するとともに、それを天皇に対する「」と強引に結び付けていました。そして、皇室は国民の宗家であり、天皇は国民の父、国民は天皇の赤子という日本民族の神聖性を体得させる家族国家観を「修身」の授業の柱としていたと思います。
 それが天皇への忠と親への孝を一つのものとした「忠孝」を第一とする戦前の「神州日本」の精神であったのではないかと思うのです。そして、その「忠孝」第一の考え方が、”一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ”という戦争の考え方に結びつき、日本の戦争を支えたのだと思います。欧米の兵士が戸惑った、日本兵の「万歳突撃」や「特攻攻撃」は、こうした「忠孝」の思想なしには考えられないことであったと思います。

 したがって、選択的夫婦別姓を認めることは、極論すれば、そうした日本の伝統的家族国家観、さらに言えば「忠孝」を第一とした戦前日本の神話的国体観を放棄することにつながり、ひいては、日本の戦争は過ったものであったという東京裁判の判決の正統性を認めることもなってしまうため、日本の戦争責任を認めたくない自民党政権は、あの手この手で、選択的夫婦別姓導入を阻止しようとしているのではないかと思います。
 
 でも、それが欧米のみならず、世界中が多様性(ダイバーシティ)に注目し、諸政策を進めつつある現在、その流れに逆行するものであることは明らかだと思います。だから、現在の自民党政権では欧米でが広がる「日本異質論」を払拭することはできないと思います。

 日本国憲法を「押し付け憲法」だとか、「マッカーサー憲法」などと言って、憲法改正に血道をあげるのではなく、一日も早く、日本の戦争の根本的過ちを認め、戦争責任をしっかり受け止めて、真に日本国憲法の精神に基づく政治を展開し、諸外国の信頼を得て「日本異質論」を乗り越えなければならないと思います。

 また、私は日本の戦争の根本的過ちをより深く理解するためには、明治維新を支えた水戸学を知る必要があるのではないかと思い。今回は「維新水戸学派の活躍」北條猛次郎(国書刊行会)から伊藤博文、吉田松陰、西郷隆盛と水戸学派に関わる記述及び会沢正志齎、藤田東湖にかかわる部分を抜萃しました。明治維新に関わった多くの人たちが、水戸に足を運び、水戸学の思想家、会沢正志齎や藤田東湖に直接会って、いろいろ学んでいるからです。
 
 でも、見逃してはならないことは、御三家の一つである水戸藩の思想家、会沢正志齎や藤田東湖には、当然のことながら、倒幕の意図はなかったということです。会沢正志齎が、その代表的著書「新論」の「はじめに」で、”あえて国家(幕府)が頼むべきものは何かについて論じたい”と書いていることで明らかなように、幕藩体制の改革・強化を意図していたのです。でも、薩長の志士、特に幕府を倒したい長州の志士は、水戸学を倒幕ために利用したといえるように思います。
 だから、薩長の志士は、水戸学を単なる勤王ではなく、暴力を伴う尊王思想に発展させ、明治維新を成し遂げることによって、”天皇の御稜威(ミイツ)がたえず四方に広がる”ことを国家の基本目標とするような侵略国家、皇国日本をつくりあげた、と言えるのではないかと思います。
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               維新水戸学派の活躍

             第三 現代名士の水戸回顧談

伊藤博文公の水戸回顧談
 尚茲に旧水戸藩士前木七郎翁(鈷次郎)がある。今年八十八歳の長寿を保ち、然も耳目聰明確乎たる識見を有し、関雲野鶴(カンウンヤカク)に日を送っている。筆者は一日その居を訪ひ、往時を聞いた。翁は文久三年十七歳の時、適水戸に来った長州の木戸孝允に従つて京師に上り、更に攘夷観察使正親町卿に扈従(コショウ)して長州に下ってゐるうち、平野国臣等と共に但馬生野銀山に兵を挙げた勇士である。
 その直話に”吾等は京洛の間で伊藤博文等と屡々会飲したが、博文は常に、「我藩尊攘の機運を作ったのは、実に貴藩の行動に促された為である」、と言明された”と
 而して此の水戸が勤王の首倡(シュショウ)たる論拠は、伊藤博文が嘗て明治四十二年八月韓国太子太師の重職を帯びて水戸に来りし際、歓迎会席上にて次の如き演説をされたのを見れば一層明瞭である。

 (前略)水戸の学問は、或る諭者の説の如く今日から見ると、鎖国攘夷の如く見えるけれども、日本臣民の耳目を開き、上下一致に出る政策の根本たる勤王の発端は、水戸の学問、水戸の人物の嚮導(キョウドウ)する所であって、此の為に日本国家の盛衰を慮かり、或は文武の道を講究するといふが如く、関西九州の雄藩志士を興起せしめたのも、水戸が率先して、勤王の議論と唱えたのが原因であると私は考へる。 時世の推移することが恰も太陽が朝海を出でゝ、而して天に冲し更に夕陽に至るが如く、次第々々に光線の反射、又は其の熱力の及ぶ所、厚薄の別をなくすが如く、序を追はなければ変遷しないのであるから、発端と終局とを比較して来たらば、大いに異なる点があらう。併しながら、独り此は学問や、時世の変遷にのみいふ事ではない。凡そ事物に当って深く探究すると皆斯の如くである。水戸の学問は、全国の勤王心を誘発し、而して日本国の士気を振興したといふが、当時水戸には攘夷論が唱へられてゐたのであるが固より発端は斯くの如くである。而してそれよりして遂に一面に於ては、徳川の権力を衰微せしむる助となったかも知らんが、又同時に六七百年王権の地に墜ちたのを恢復するの端緒を発達せしむる率先者も、また水戸に在ったと云うて宜しいと考へる。水戸に就いては、今日始めて私は水戸へ参った訳ではない。殆んど四十四五年前に、一度水戸へ参った事がある。其の時は二十一二歳であったかと考へる。その以後、水戸には三四年前に、今泊って居る公園の梅を看に来て、半日ばかり居た事がある。夫れで今回は三回目に当る。水戸の日本の歴史に於て、以上述ぶる如き関係あるは、茲に諸君に述ぶる必要ないと思ふが、自分は維新前の当時より水戸の関係上に於て、之を述ぶる必要があると認めて述べた訳である。当時の人物は固より今日存在して居る訳ではないが、其の子孫が皆それぞれの職に従事して居ると考へる故に、水戸の歴史は日本の盛衰興廃に斯くの如く関係あると云ふことを、一言諸君に述ぶるのは、敢て贅言(ゼイゲン)でないと思ふ云々(伊藤公演説全集)
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          第三十六 吉田松陰の水戸訪問

 天保以降、水戸学の普及と相俟って村田清風(ムラタセイフウ):長州藩士)の水戸移入は、先づ松下村塾の志士等を奮起せしめた。そも、此の村塾は安政三年、吉田松陰の開塾にかゝるものなるが、その前身は松陰の叔父の玉木文之進の開く家塾に基づく。初めこの家塾に入った者は、松陰その兄民治、及び山縣半蔵(子爵宍戸璣)の三人のみであった。
 松陰幼時の感化は、一は敬神家にして忠良篤実なる父、杉百合之介常道、一は硬直廉幹にして勤王の志篤、玉木文之進に依ったものである。彼はこの二尊属より、水戸派の教育を受けた。百合之介といふは好学の志厚き士で嘗てその父が江戸在番中に送り届けてくれた、五経図解を生涯座右に置き、一日も離さなかった。また常に玉田氏の「神国由来」会沢正志の「新論」、頼山陽の「楠公墓下詩」等を愛読し、民治、松陰の二子をして暗誦せしめたといふ。玉木文之進に至っては、最も水戸学派の諸書を熱愛し、藩主より尊攘の大義を確守し云々の故を以て賞賜を受けしこともあった。(徳富氏吉田松陰に拠る)
 要するに松陰の尊王奉公の思想は、庭訓の致す所であると共に、家学たる山鹿流の兵法、佐久間象山、及び水戸学の諸書に負ふ所が少なくなかつた。

 前述の事情にて、松陰の心が常に水戸に馳せてゐたのは、勿論の事である。彼は嘉永四年三月、藩主に扈従(コショウ)して初めて江戸に行き、同年六月同志肥後人宮部鼎蔵(ミヤベテイゾウ)と共に相模安房の海岸を視察してゐたが、同年七月藩主より東北旅行の許可を得て、年来の願望を達し、その喜びや知るべしである。仍(ヨッ)て鼎蔵、安芸五臓(別名、江幡五郎)の二人と約し、その十二月十四日、赤穂義士討入の日を卜して、門出の期と定めた。然るに出発間際に至り江戸詰役人等はその願出の関所札は、一応国許へ照会せし後ならでは渡されずと拒んだ。彼は大に失望したが、一旦張り詰めた弓は弛むべきではない。「よしさらば脱走するまでだ」と叫んで、予定の如く遂行することに決した。彼は求道立志の前には、名誉も、秩禄も、なかったのである。斯くて同年十二月十四日、亡邸した、その江戸を出るに臨み左の一詩を留めた。

  漢詩 略

 宮部等は、突然事故が生じ、急に発するを得なかった。松陰は単身江戸を発し、武總の野を過ぎ水府へと志した。此の行、彼は既に藩籍を脱し、全く天涯万里の覊旅(キリョ)一个(イッコ)の武者修業に過ぎない。素より公の責任もなく、悠々自適の境遇であった。窮冬(キュウトウ、冬の終わりころ))の短日を長亭短驛に関し盡して、常総の境なる阪東太郎河(別名、利根川)を渡り、開曠(カイコウ)の平野に聳ゆる筑波の秀峰に接するに及んでは、一句なかるべからず、左の即事を得た。

   漢詩 略

 ・・・
 松陰水戸に入るや、直ちに永井政介を訪問してこゝを仮宿と定め、滞在三十日に及んだ。而してその間多くの水戸人と往来した。政介は水藩士で剣を好くし、嘗て江戸に在って斎藤弥九郎の門に学んだ。初め弥九郎の子、新太郎長州萩に来った時、松陰はこれに永井への紹介状を貰っておいた。この関係からして突然政介を訪うたのである。当時政介は水戸市外吉田に住してゐた。東北游日記に、「入水戸ナリ直訪永井政介政介不在逢子芳之介」と記してある。猶同日記常陸大津にて記せし所には、

 二十三日(嘉永五年一月)、大津に至る。二十八年前、夷船此処に来る。脚船二隻を卸す。十数人登陸、数日不去。会沢憩齋は筆談役となり、地図を按じて之を詰る。時に永井政介、伊豆韮山に在り。変を聞きて帰り、藤田幽谷の所に至る。幽谷、政介に命じて夷人を斬殺せしむ。たまたま夷船颺去。事果さず。幽谷の意、鼂錯削七国之策、諸を政介に命ぜしなり。

 とある。
 
 永井氏の現主、道直氏は芳之介の嗣で、今その語る所によれば、「私の家と松陰とは、何ら縁故のあった訳ではなく、松陰の旅行がたゞ一個の武者修行であり、私の祖父と父とが剣客であるところから、訪問されたものであるが、一度相逢ふて見ると、いわゆる肝胆相照すで、書を論じ、剣を評して滞在三旬の長きに亙ったのださうだ」、と
 因に永井氏宅には、数多の松陰の書き物があったが、水戸甲子(キノエネ)の難に盗難等に罹り、今は松陰が、野山の獄中より送った書面二通のみであるといふ。
 二十日、政介帰来し、談話益々はずみ、夜に入りて一詩を得た。

 詩 略

 二十一日、二十三日、二回会沢正志を訪問して、その学説や時論を傾聴した。…
 ・・・以下略
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            第十一 会沢正志と全国の門人

 東湖と相並んで、諸国の志士の尊敬措かざるものは、会沢正志である。彼は藤田幽谷の高弟で、その学識の富贍(フセン)といひ、尊王精神といひ、よく師の遺鉢を伝へた。名は恒蔵、諱(イミナ)は安、正志齋又は憩齋と号した。著書頗る多く新論、廸□篇、退食閑話、下学邇言、及門遺範等は有名である。就中新論は実に嵐の如く、霰の如き勢を以て天下の読書界を風靡した。
 この書の成ったのはあ文政八年、彼が四十四歳の時といhれてゐる。初めは深く秘して、世に示さなかった事は、その跋文に見えてゐる。後、文政九年に至り、彼は之をその師幽谷によって藩主哀公(烈公の兄)に献じたところ、その論旨激烈にして、幕府の忌諱(キイ)に渉るものありとして公刊を許されなかった。は門下人は往々伝写し、漸次世に知らるゝやうになり、東湖などは屡々その刊行を慫慂した。が謹厚なる彼は承諾しなかった。弘化に至り、烈公謹慎を命ぜられ、彼も幽囚四年におよんだ。
 その不在中に留守を預かる門人等が、私に印行した。それが新論の初版であった。新論が未だ刊行されぬ時分、即ちその幽囚中、密かに甥へ贈った書簡に

 此間承り候へば、阿勢(老中阿部伊勢守 )儒臣石川円蔵勢州へ新論を侍読(ジドク)候由、老朽九尺中の身と相成候処(中略)時務を諭候新論は閣老の海防掛の人被見候事、志行れ候と申程には無之候へ共、赤誠の甲斐も少く無之様被存候。

 とあり、また徳富蘇峰氏の談話に

 「新論」に就いて、川路左衛門尉が奈良の奉行をしてゐる時、弟の井上信濃守から出版と同時に送り来たのを読み、其の感じを日記に書いてゐるが、其の意味は「これは無名氏とあるが、水戸人の作った本であるに違ひない。これ程の諭を書く人は、藤田虎之介(東湖)以外にない」と書いてあります。又「かういふ論が行はれてはやりきれない」とも書いてあります。川路は偉い人でありますが、此の書物の議論通りに、幕府に肉薄せられては困ると思ったのでありませう。川路が困った程世間に影響は多かったのであります。私の家は熊本の辺鄙な所でありましたが、私が子供の時、私の家の書物箱にも、その「新論」はありました云々(昭和三年三月三日於青山会館講演)

とあって、早くも幕府の要路の注目するところとなり一方次第に伝播したのであった。当時の東湖の書簡中にも「近来新論悉く伝播、雷名有志の間に遍く、愉快此事に御座候」とあるは、よくその消息を物語ってゐる。

 扨(サ)て次の記事は本題にやゝ不適当だが、便宜上茲に録することゝした。私は最近竦然(ショウゼン)衿を正して拝読した一書がある、それに由ると新論が、孝明天皇の御手に触れて、やがて皇運扶翼の機会を生んだ事である。この新論が関東の重圍(チョウイ)を脱出して雲上に翺翔(コウショウ)するに至った経路は、いふまでもなく当時慨世憂国の志士が苦心百端の結果三条実萬(三条実美の父)公の膝下(シッカ)に近づいてその目的を達したもので、実に神助(シンジョ)といふべきである。今、吉田松陰門下の入江子遠(九一:別名河島小太郎)が草稿のまゝ遺した著書「伝信録」の中に孝明天皇の御聖徳に就いて記した一文があるが、その一節に

 兼て御学問を好ませ給ひ、柳原大納言、御素読を上げられしと伝ふ。或は曰く、貞観政要(ジョウカンセイヨウ)、孝経(コウキョウ)の外は御覧に備へ奉らざる事年来の弊なり、是も関東の所為と云可憎……」とか,或は「三条公密奉進新論嘉永五年の事の由、先師(吉田松陰)の反古の中に記してありし」。などとあって、志士憂憤の口吻(コウフン)が明瞭に看取される。
 この一事と思ひ合せて吾人の感激措かざるは、明治二十三年、明治大帝水戸へ行幸し給へし砌(ミギリ)、特別の畏き思召によって会沢正志手澤本の汚れたるまゝの新論稿本を、直接御手許に御納めになったことで、斯る事は全く異例と云ふべく、徒に先生一人の身ならず、水戸学の為に光栄の極みといふべきである。

 新論は勿論漢文であるけれども、嘉永年間には仮名文に訳したものさえ三種出版され、各藩に於ける同書の出版を合すれば、漢文のものを併せ、十数種を挙げることが出来る。新論の内容は、国体、形勢、慮情、守禦、長計の五論七篇に別たれ、すべては夫の有名な蘇東坡の策論に酷似している。次に国体論中の一節を和訳して抽出しよう。

  ・・・以下略(国体論中の一節は、「日本の戦争と水戸学(会沢正志斎) NO2」を参照)

 さて此の書が如何にして地方へ普及されたか、会沢塾生の手によって広がったのは勿論であるが、又多数の水戸志士が四方に同志を求めんとして、出発する際、第一に此の書を土産物として齎した点からも広まったのである。而して彼等が此書を繙くや、如何に感激したか、筑前の平野國臣は、その著藎忠録の日記に
 壬子(嘉永五年)新論を読みて感有り、自ら非を恥ぢ、喫煙を絶ち、武を練る。
と書いてゐる。当時ペルリ提督はまだ来航せざるが、英、米、露艦は辺海に出没して、遠雷の響頻りに耳を掠(カス)めた際であったから、、この二十五歳の青年も今はうかうかしてゐる時勢ではないと目醒めて決然禁欲したのであらう。又久留米藩の勤王家真木和泉(保臣)の「遺稿」に同志木村三郎(士遠)が書かせし跋文を見るに
 余(木村)曾て諸州に遊び、水戸にて会沢翁に親炙(シンシャ)翁の著す所の国体論を読みて、大に感奮する所あり、携へ帰りて、保臣に示すに、保臣一読三歎、奮然として、直に水戸に遊びて翁の門に入る。
とあって、その感激の状躍如たるものがある。斯くて新論によって会沢塾を紹介し、会沢塾によって新論を紹介し、両々相須つて水戸学は普及せられ、会沢門の士の如き、關東北は勿論、遠く中国、四国、九州に及ぼし実に盛んなものであった。当時会沢の家は城下南町の中程にあったから土地の人がその方面を通る時は、会沢塾の所在を、他国の旅人に屡々尋ねられたものだと故老が今もよくいってゐる。その塾には長い長い格子が続いてあって多数の書生の読書の声が始終聞こえてゐたといふ。

・・・以下略
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            第十三 西郷南洲と東湖との会見
 
 薩藩士にして水戸人とも交際し、やがて強烈なる勤王思想を発揮した者は、西郷隆盛を第一とする。元来西郷は学問に於ては如何なる系統であらうか。何に由て腹を拵(コシラ)へたかと探究するに、蓋し陽明の実行主義と禅学とが与って力あったやうである。
 由来、薩藩の文教は古く文明年間、周防(スオウ)の僧桂庵によって播種せられたる程朱学以外に見るべきものがなかったが、幕末に至って、松山隆阿弥及びその親友伊東潜龍の出づるに及んで漸く陽明学の台頭を見るに至ったのである。
 一日、西郷、大久保(利通)二人は、同志有村俊齎(海江田信義)及び長沼嘉平の両氏に向って、「伊東茂衛門(潜龍)翁は陽明学に通ぜりと聞いている、陽明学といふものは士の精神を鍛錬するに最も好い。これから倶(トモ)にいって学ぼうではないか」といったから俊齎も之に同意し、此れから同志相誘って伊東翁の門に入り、翁指導の下に王陽明の伝習録を読み、特に西郷の如きは、親(ミズカ)ら佐藤一齎の言志録を手抄(シュショウ)した程でる。
 西郷はまた傍ら鹿児島の福昌寺の無参和尚に参禅して修養に努められた。
 この陽明学、禅学を外にして、西郷にとって感化力の最も大なるものは東湖との接触であらう。西郷にして、若し東湖の人格、学問、見識、度量に学ぶ所がなかったならば、流石の彼も終に性来の偉器を発揮し得なかったかも料り知ることが出来ない。
 彼が東湖に会するに至った楔子(ケッシ)は、蓋し夫の桜田烈士中ただ一人の薩人、有村左衛門の実兄、有村俊齎であらう。

 ・・・

 さて、茲に東湖と西郷との両雄会見であるが、名にし負ふ当代無雙の英傑だから、その会見の模様も演劇がゝりに奇抜に伝えられてゐて信を掴むことも容易ではない。今世に伝ふる二三を記さう。

 西郷は東上するや間もなく単身飄然と東湖の門を叩いた。刺を通ずると書生は「暫く」といひ置いて、奥へ引き下がったが、再び現れて、西郷を応接間へ請じて去った。が当の主人公東湖は待てども待てども出て来ない。待ち呆けを喰った西郷、例の鈍重振りを発揮して、睡魔の襲ふまゝにいゝ気持になって、ドタリと巨木の倒るゝ様に横臥して了った。忽ち万雷の如き鼾声(カンセイ:イビキ)で、邸もゆるぐばかりである。時しも轟然たる銃声一発、棟も落ちよ、襖も砕けよといふ物すごい物音に、快夢を破られた西郷、ハッと眼を開けば濛々たる硝煙が部屋一杯に立ち込めてゐる。西郷驚くかと思ひきや、平然として大欠伸をしてゐる。
 そこへ大きな跫音がして、煙の中から現れたのは誰あらう、東湖その人であった。東湖は豫(カ)ねて、西郷の来訪と聞いて、故意に先づ銃を放って、その胆力を試みたのだ。二人はこの奇想天外な対面に端を発して、互いに意気を以て相酬い、東湖は早速大好物の酒を呼んで、西郷を歓待すれば、巨体に似ず酒に弱い西郷、忽ち酩酊度を失して、四辺かまはあず、嘔吐し散したといふ。東湖は反って彼の野生を愛して、度々招き、且つ戸田忠太夫、武田耕雲齎を始め熊本の長岡監物、信州の佐久間象山、尾州の田宮如雲等に紹介した。西郷また愈々東湖を景慕して、これより暫々小石川の邸を訪うて意見を聴いた。
以上は「明治功臣録」等に拠って記述するところであるが、「西南勇士伝」所載の記事を掲げると次の如くである。
 ・・・以下略


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