真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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安重根は、犯罪者か義士か 

2014年01月28日 | 国際・政治
 獄中の安重根看守を命ぜられた関東都督府陸軍憲兵上等兵千葉十七が、しだいに安重根と心を通わせるようになり、「この人は、生き永らえたら、必ずや韓国を背負ってたつ人物なのであろうに──」と畏敬の念さえ抱き、「日本人はこの人にもっともっと学ばなければならない」と思いつめて、「安さん、日本があなたの国の独立をふみにじるようになったことは、何とも申しわけありません。日本人の一人として、心からお詫びしたい気持ちです」と頭を下げた話は、すでに取り上げた。

 また、安重根の裁判で検察官を務めた溝淵孝雄が、安重根の「伊藤の罪状15ヶ条」を聞き終わって、現状を的確にとらえた鋭い指摘に驚き、安の顔をじっと見つめ、「いま、陳述を聞けば、そなたは東洋の義士というべきであろう。義士が死刑の法を受けることはあるまい。心配しないでよい」と思わず言ってしまったという事実にも触れた。他にも、安重根と関わった日本人が、彼を高く評価していた事実が 伝えられている。

 「安重根と伊藤博文」中野泰雄(恒文社)には、次のような文がある。

”…大連からハルビンまで伊藤と同行し、事件後、傷の手当てを受けて伊藤の遺骸とともに大連にもどった田中(安重根の銃弾を足に受けた満鉄理事田中清次郎)が、後に小野田セメントの社長から会長となる安藤豊録の質問、「今まで会った人の中でだれが一番えらいと思われるか」に答えて、「それは安重根だ。残念ながら」と言ったというが、その証言は、中江兆民の『一年有半』(明治35年9月2日発行)とともに、伊藤の虚像を粉砕して、正体をあらわすものといえよう。……「大韓国人安重根」は伊藤を日韓両国民の「逆賊」として処断しようとした。生誕百年をすぎて、彼が獄中で書いた自伝と『東洋平和論』は日本近代史の真の姿を照射しはじめている。”

 上記の満鉄理事田中清次郎の言葉は、安藤豊録の書いた『韓国我が心の故里』にあり、安藤が1922年5月に、安重根の故郷を訪ねた思い出も綴られているという。その中に「安義士は伊藤公を殺した日本人の仇敵である。その住居に行くことは日本人にとって聊か憚りがある。韓国人は当時の警察の空気からいって多少遠慮せざるを得ない情勢にあった」と安藤自身が書いていることを「伊藤博文を撃った男 革命義士安重根の原像」(時事通信社)で、斎藤充功ノンフィクションライターが紹介している。

 また、彼(斎藤充功)は、安重根に魅せられた典獄(監獄の事務をつかさどる官吏)「栗原貞吉」の親族を探し当て、安重根に関する証言を得ている。下記は、いずれも孫娘の証言である。

 「私は母から聞かされた話で、二つだけは今でもはっきり覚えています。一つは、役人を辞めた理由で、祖父は、あんな立派な人物を救うことができなかったのは自分に力がなかったことと、監獄の役人の限界を思い知らされたことで、随分悩み、それで役人を辞めたそうです。
 それに、もう一つの話は、安さんが処刑される前日、祖父は安さんと会い、遺言というんでしょうか、何か希望することがあれば自分ができることは何でもすると約束したそうです。そして、その約束は絹地でできた韓服を死に装束として安さんに着てもらうことのようでした」

 「安さんが身に着けた白絹の韓服ですが、母は、官舎で祖母や姉たちが祖父の言いつけで夜なべして生地から寸法を取り、縫い上げている姿を目をこすりながら見ていたそうで、後になって、祖母から話を聞かされたそうです。その話とは、かいつまんで申しますと、祖父が安さんと約束した遺言のようなもので、安さんは、見苦しい死に方はしたくないので、死に装束は国の礼服である白絹の衣装を身に着けたい、その衣装を差し入れてほしいと、祖父に頼んだそうです」

 「日にちははっきりと覚えていなかったようですが、官舎には毎日のように韓国の人が訪ねてきて、安さんの助命嘆願を祖父にお願いに来ていたというんです。それと、祖父は処刑直前に安さんに『助けることができずまことに申し訳なかった』と謝ったというんです。私は、広島で晩年の祖父と生活したこともありまして、母から聞いたこの祖父の言葉は本当だと信じているんですの」


安重根は栗原貞吉に一書を揮毫したという。 

 「安重根と日韓関係史」(原書房刊)の著者、市川正明教授は、下記のように「安重根が早くからカトリックに帰依していたキリスト教徒であったことからすれば、安重根の思想が単に民族主義者であったばかりではなかったのではないかと思われる」と、彼の言動の背後に、キリスト教(ヒューマニズム)の影響があったのではないか、ということをにおわせている。

 私はそれを、彼の言動全体で感じるとともに、獄中記「安応七歴史」の中の、日本人捕虜釈放の話の部分で、特に強く感じた。安重根は、下記のように、日本人捕虜に武器を返還して釈放し、仲間に不満を抱かせているのである。下記は「安重根と日韓関係史」市川正明(原書房刊)からの抜粋である。
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                  四 安重根 小伝

死に臨んで

 この公判については、外務省の倉知鉄吉政務局長と小村外相との間に、電信の往復がなされている。その結果、「政府においては、安重根の犯行は極めて重大なるを以て、懲悪の精神に拠り、極刑に処せらるゝこと相当なりと思考す」と、小村外相より政府当局の裁判に対する指示がなされたが、「高等法院長に交渉したるところ、同院長は大いに当惑し、政府のご希望に副うことの非常に困難なる」旨の意思表示がなされ、若手職員中には、「司法権独立の思想より法院政府の指揮を受くる姿」となるのに反対する者が多かったが、結局「安重根に対しては、法院長自身は死刑を科すべしとの論なるを以て、政府のご希望もこれにある以上は、先づ検察官をして死刑の求刑を為さしめ、以て地方院において目的を達するを努べく、もし万一にも同院において無期徒刑の判決を与うることあるときは、検察官をして控訴をなさしめ、高等法院おいて死刑を言い渡すことゝなすべし」として、あらかじめその量刑を決していた。


 翌1910年3月26日、安重根は刑場に立ち、欣然として、「私はみずから、韓国独立のために、東洋平和のために死ぬと誓った。死をどうして恨もう」と云い放った。
 そして韓国服に着がえて従容として死に就いた。時に32才であった。

 公判を終えて宣告を待っていた安重根を取材した「満州日日新聞」は、「12日朝、重根の弟、定根、恭根の2人は恐る恐る検事局に出頭して、13日兄に面会を願出たのが、其用向きは母からの伝言で、愈々(いよいよ)死刑の宣告を受けたなら、潔い死方をして名門の名を汚さぬよう、早く天国の神の御側に参るようにと伝えることにて、2弟は涙ながら物語り出でて、許可を得たる後、悄然として引き取れり」と報じている。安重根は第1審で死刑判決を受け、上告の道があったのにかかわらず、その道をとらず、従容として死の道を選んだ背景には、この母の伝言があったことによるのである。

 安重根をして伊藤博文を銃撃させた動機は、彼のナショナリズムに根ざしたものであった。
 安重根の伊藤博文狙撃行為は、抗日義兵闘争に立ちあがった重根にとっては、その延長線上にあるものの闘いの一つの形態としての抗日テロというふうに、これをとらえることができる。
 たしかにこの日の安重根の狙撃行為は、韓国の将来に対する強い危機意識によってもたらされたものであり、それまで義兵中将として一群の義兵を率い、危機に瀕した韓国の命運を案じ、身をもってこれを救うために努めてきた安重根にとっては、祖国に危害を及ぼしてきた日本帝国に対する闘いの一環としてその狙撃行為があったのであるが、その対象が伊藤博文であったことは、伊藤が韓国の国運を大きく狂わせるにあたって主役を演じたものであったことによるのである。すなわち、伊藤が初代統監として辣腕をふるった結果として、日本帝国は具体的には伊藤の姿を借りて韓国人の前に現れ、その眼底に強烈な印象を残すことになった。伊藤博文はそれほどまでに安重根の心に、拭いがたいものを刻みつけてきたのである。


 つまり、安重根の狙撃行為は、私憤のまぎれこむ余地のない、まさしく民族的公憤によるものであったが、それだけではなく、安重根が早くからカトリックに帰依していたキリスト教徒であったことからすれば、安重根の思想が単に民族主義者であったばかりではなかったのではないかと思われる。
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           九 安重根の獄中記(自伝)の新訳

 1909年旧11月1日・12月13日書き始め

安応七歴史

 
……だとすれば、今日、国の内外の韓国人は、男女老少問わず銃を担い、剣を帯びて、一斉に義兵を挙げ、勝敗をかえりみることなく決戦を挑み、後世の物笑いを免れるべきである。もし戦いが不利になっても、世界列強の公論によって独立の望みがないわけではない。いわんや日本は5年以内に必ず露・清・米の三国と戦いを開くだろう。これは韓国に対して大きな機会を与えるものである。その際、韓国人にもし予め備えがなければ、日本が敗北したとしても、韓国はさらに他の賊の掌中に入ることになるだろう。だから、今日より義兵を継続して活動させ、絶好の機会を失わないようにし、みずから力を強大なものにし、みずから国権を回復し、独立を健全にすべきである。つまり、何もできないと考えることは滅びる原因であり、何でもできると考えることは興隆の根本である。したがって、自ら助くるものは天も助くという。諸君よ、坐して死を待つべきであろうか。それとも憤起して力を振るうべきであろうか。決心し、警醒し、熟思勇進することを望むものである。このように説明しながら、各地方を歴訪した。

 自分の説を聞いた者のうち、多数の者は服従し、あるいはみずから戦いに参加することを願い出、あるいは武器を提供し、あるいは義捐金を出した。こうしたことは、義兵を挙げるための基礎とするに充分であった。このとき、金斗星、李範允等みな一致して義兵を挙げた。これらの人々はさきに総督となり、中央官庁に大いに重用された者であった。自分は参謀中将に選ばれた。義兵や兵器を秘密の内に輸送し、豆満江の近辺に集結した後、大事を謀議した。この時、自分は、次のように論じた。現在、われわれは300人に過ぎない、したがって、賊の方が優勢で、我が方は劣勢であるから、賊を軽んずるべきではない。いわんや兵法を無視するべきではない、かならずや万全の策があるにちがいない。その後で大事を図るのがよい。いま我等一たび義兵を挙げても成功することができるかどうか明らかではない。そうだとすれば、かりに1回で成功しなかったならば、2回、3回、10回と繰り返し、百回やぶれても屈することなく、今年成功しなくても、明年を期し、明年あるいはその翌年、さらには10年、百年と、持続させるべきである。もしわれわれが目的を達成できなければ、子供が代わって受けつぎ、さらにその子孫がこれに代わり、必ずや大韓国の独立を回復するまでやめない。先ず、前進し、後退し、急進し、緩進し、予備し、後備し、具備し、いろいろやった後必ず目的を達成するよりほかにないのである。そうだとすれば、今日の先進の師を出す者は病弱少年をも合すべきである。その次の青年等は社会民志の団合を組織し、幼年の教育を予備し、後備し、各項の実業を勤務し、実力を養成し、しかる後に、大事をなすことが容易であろうと。聞く者の中には賛同する者が多くなかった。なぜかといえば、この地方の風気頑固なるものは、第1には権力ある者と金持ち、第2に腕力の強い者、第3に官職の高い者、第4に年長者である。この4つのうち我々は一つも掌握していない。それでは、どうして能く実施できようか。これに対して、不快感をおぼえ、退き帰る気持ちを起こした者があったとしても、すでに騎虎の勢いがあふれ、どうすることもできない。時に領軍諸将校は隊を分つて斥候を出し、豆満江を渡った。1908年6月のことである。昼は伏して夜に行軍して咸鏡北道に到着し、日本兵と数回衝突し、彼我の間には死傷者や捕虜が出た。

 そのとき、日本軍人と商人で捕虜となった者を連れてきて、尋ねてみた。君等はみな日本国の臣民である。なぜ天皇の聖旨を承けないのか。日露開戦の時、宣戦布告書のなかで東洋平和維持と、大韓国の独立堅持といいながら、今日このように侵掠するようになったのでは、平和独立ということができないではないか。これは逆賊強盗でなくて何であろうかと、その人々は涙を流して、これは我々の本来の気持ちではなくてやむを得ず行動に出たものあることは明らかである。人がこの世に生まれて生を好み、死を厭うのは普通の人情であって、いわんや我々は万里の戦場で無残にも朽ち果ててしまうことを憤慨しないわけがない。こうした事態は他に理由があるわけではなく、これはすべて伊藤博文の過ちである。皇上の聖旨を受けず、ほしいままにみずから権勢を弄し、日韓両国の間に貴重な生霊を殺戮すること数知れず。彼らは安心して就寝し、恩賞に浴している。我々は憤慨してみてもどうすることもできず、やむなくこうした状況に立ち至ったのである。いわんや農商民の渡韓する者ははなはだ難渋している。このように国も疲れ、民も疲れているのに、ほとんど顧みることをせず、東洋の平和は日本国勢の安寧となるということを、どうしてそれを望むことができようか。我らは死んでしまうとしても、痛恨の念はとどまるところがないといって痛哭した。自分は君等のいうところを聞いて、君たちは忠義の士というべきである。君等をただちに釈放する。帰ってこのような賊臣を掃滅せよ、もしまた、このような奸党が出てきて、端なくも戦争を起こし、同族隣邦の間に侵害の言論を提出する者がある場合には、すべてこれを取り除け、十名足らずの人数でも東洋の平和を図ることができる。君たちはこうしたことをやることができるかどうか、と言うと、彼らは勇躍してこれに応じたので、ただちに釈放した。彼らは、我々は軍器銃砲等を帯びずに帰投すれば、軍律を免れることが難しい。どのようにしたらよいかと聞くので、自分は、それではただちに銃砲等を返還しよう。また、君らは速やかに帰り、捕虜となったことを口外せず、慎重に大事を図れと言った。その人たちは深く感謝して立ち去って行った。

 その後、将校たちがこの事件を聞いて不満をもち、自分に対して、なぜ捕虜を釈放したのかと質した。自分は、現今万国公法によって捕虜を殺戮することはできず、後日送還することになっている。いわんや彼等のいうところを聞くに、真情発する美談であり、これを釈放せずにどのようにすれえばよいのかと答えた。多くの人々が、彼等は、我等義兵の捕虜を余すことなく無残にも殺戮するだろう。我等としても殺賊の目的をもってこの地に来て野宿しているものである。しかも、このように苦労しながら生捕りにした者を釈放するのであれば、我等は何のために戦っているのかわからないではないか、と彼らはいう。そこで自分は、そうではない。賊兵がこのような暴行を働くことは神も人も共に許さぬところのものである。ところが、いま我等も同じように野蛮な行動を行なってもよいのであろうか。いわんや日本4千万の人口をことごとく滅ぼして、しかるのち国権を回復するという計をはかろうとするのか。彼を知り己を知れば百戦百勝す、現在は我らが劣勢で、彼等は優勢であって、不利な戦闘をすべきではない。ひとえに忠孝義挙を以てするのみでなく伊藤博文の暴略を攻撃して世界に広布し、列強の同感を得て、国権を回復すべきである。これがいわゆる弱小な力でよく強大な敵を除き、仁を以て悪に敵するの法である。諸君らは、いろいろと言うことはないと。いろいろ論じてみたが、しかし、議論が沸騰して容易に承服せず、将軍のなかには中隊を分けて遠く去る者もあった。

 その後、日本兵の襲撃をこうむり、衝突4,5時間におよび、日が暮れて霧雨が降りそそぎ近い所も見えなくなった。将卒みな分散し、生死の判断もつけ難く、どうすることもできず、数十人と林間に野営した。その翌日、6、70名の兵隊に逢ったが、各隊を分け、ちりぢりに逃げ去ったという。そのとき、いずれも2日間にわたって食事をすることができず、皆飢えこごえていた。そこで、みなの者を慰め諭した後、村落に身を寄せて麦飯を求めて食べ、僅かに飢えと寒さをしのいだ。しかし、多数の者は承知せず、紀律に従わなかった。このような烏合の衆は、孫子、呉子、諸葛孔明がまた生まれて来たとしてもどうすることもできない。さらにその他の兵を探しているうちに伏兵に逢い、狙撃され、散り散りになった兵卒をまた集合させることもむずかしくなった。自分はひとり山上に坐し、自ら笑って誰を怨みだれを仇とすることもないと自分に言った。さらに発憤して四方を捜探した末、幸い2,3人に逢い、これからどうすればよいのかを相談したが、4人の意見は同じではなかった。或る者は生きのびることを図ろうとし、或る者は自刃して死のうといい、或る者はみずから日本軍に投降しようという。自分は熟慮ののち、たちまち一首の詩を作った。「男児有志出洋外、事不入謀難処身、望須同胞誓流血、莫作旦間無義神」(男児志を持って国外に出たのである。大事がうまくいかず身の処し方に難渋している。ただ君たちに望むことは、同胞の流血に誓って大義のない行動をとることをしないようにしてほしい)と吟じ終えて、みなの者は思い思いにしたらよい。自分は山を下りて日本兵に決戦をいどみ、大韓国2千万人の中の一人として義務を果たした後に死ぬつもりである。こう言って、武器を携帯し、賊陣を探して立ち去ろうとした。そのうち、一人が身を乗り出して来て慟哭しながらあなたの意見はきわめて間違っている。あなたはただ一個人の義務を考えているが、幾多の生霊ならびに後日の多大な事業を顧みないのか、今日の情勢では死んでも全く益がない。責任の重い身体であるのに、どうして草や塵芥のように棄てていいものだろうか。現在は江東(露国領の地名である)に渡って、後日の好機会を待ってさらに大事を図るべきである。これは十分合理性がある。どうして諒解してもらえないのだろうかと言う。自分はさらに考えをめぐらしたのち、あなたの言うことは確かにそのとおりである。……

 ・・・(以下略)


http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は段落全体の省略を、「……」は、文の一部省略を示します。 
 

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