真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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安重根の公判における陳述と「韓国人 安応七所懐」

2014年01月04日 | 国際・政治
 「安重根と伊藤博文」中野泰雄(恒文社)には、安重根がその裁判の公判で語ったことが取り上げられている。その中から第1回公判および第3回公判で語ったことを抜粋した。日本と韓国と清国とが東洋の平和の共同体をつくらなければならないという理想を持った義兵の参謀中将「安重根」が、逆賊「伊藤博文」を、一身を捨てて無きものにしたのだという主張である。
 また、最終段は、安重根(安応七)が「伊藤博文の罪悪15箇条」を書いた後、引き続き旅順獄中で書いた所感である(原文は漢文)。いずれも、「安重根と伊藤博文」中野泰雄(恒文社)より抜粋したものであるが、これらを読むと、殺人罪による死刑の判決は、いかがなものか、と思う。
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                第4章 裁判と審判

4、第1回公判・2月7日 人定訊問と求刑


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 真鍋判官は安重根に外国語教育についてたずねると、「私の一家は天主教を信仰しておりますので、信川で天主教の宣教師フランス人洪神父からフランス語を数ヶ月習いましたが、日本語、ロシア語、その他の外国語は知りません」と答えている。またシベリアでの3年間の生活に関し、安重根は何の目的で行ったのかと問われ、

 その目的は、外国に出ている韓国同胞の教育をすることを計画し、また義兵として、本国を出て、韓国の国事について奔走していました。この考えは数年前からありましたが、切に必要を感じたのは日露戦争当時からで、今から5年前の日韓五箇条条約および3年前の七箇条条約が締結されてから、ますます奮励するようになり、国外に出たのです。

 と述べている


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 また判官の韓国の前途をどう考えるかという問に対して、

 1904年、日露戦争に際し、日本天皇陛下の宣戦の詔勅によれば、日本は東洋の平和を維持し、韓国の独立を期するためにロシアと戦ったので、韓国人はみな感激して、日本人と同じに出陣して働いた者もありました。また韓国人は日本の勝利をまさしく自国が勝ったもののように喜び、これによって東洋の平和は維持せられ、韓国は独立できると喜んでいました。ところが伊藤公爵が統監として韓国にきて、五箇条条約を締結しました。それは前の宣言に反し、韓国に不利益となるので国民一般は不服でした。さらに1907年には七箇条条約が締結され、伊藤統監が兵力をもって、圧迫を加えて締結しましたので、国民一般は大いに憤慨し、日本と戦っても世界に発表したいと願いました。本来、韓国は武力によらず、文筆をもって成立してきた国でした。伊藤公爵は日本でも第一位の人ですが、韓国にやってきて二つの条約を締結したのは、日本の天皇陛下の聖旨ではないと思い、伊藤公爵は日本天皇陛下をあざむいているので、伊藤公爵を無きものにしなければと思い、七箇条条約成立当時から殺害することを決意し、ウラジオ附近で一身を捨てて韓国の独立を期しておりました。

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6、第3回公判・2月9日 私は義兵中将

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 安重根は、それまでの2日半にわたる裁判の経過は、判官の些細な審問に答えるばかりで、彼が世界に訴えようとした真実を、十分述べることができなかったので、ようやく自分の真意を述べつくそうと決心して陳述しはじめた。裁判は日本語で進行し、安重根の発言の記録は園木通訳による日本語訳しか残されていない。

 今回の殺害について、その目的の大要は申しましたが、私は好き好んで伊藤公爵を殺害したのではありません。ただ私の大きな目的を発表する一手段として行ったものですから、社会の誤解を免れるために申し述べたいことがありますので、その大要を申します。
 今回の殺害は私一個人のためにした事ではなく、東洋平和のためにしました。日露戦争について日本の天皇陛下の詔勅によれば、「東洋の平和」を維持し、「韓国の独立」を強固にするとありました。それで、日本の凱旋を韓国人は自国の凱旋のように喜んでいました。そこに伊藤公爵が統監としてきて、韓国上下の民をあざむき、五箇条条約を締結しました。これは日本天皇陛下の聖旨に反したものですから、韓国民はみな統監をうらむことになりました。つぎにまた七箇条条約が締結され、ますます不利益を受け、さらにあるべきでない皇帝の廃位まで行われましたので、みな伊藤公爵を仇敵と思っていたのです。


 それで、わたしは3年間、各所で遊説し、また義兵の参謀中将として各地で戦いました。今回の殺害も韓国の独立戦争のために、わたしが義兵の参謀中将として韓国のためにしたことで、普通の刺客としてやったわけではありません。わたしは今、被告人ではなく、敵軍のために捕虜となっているのだと思っています。

 安重根は「普通の刺客」ではなく、「義兵の参謀中将」として韓国人民のレジスタンスの義士としての自覚を持っており、さらに、伊藤博文を「仇敵」としていたのを、日韓親和を前提として、両国皇帝の「逆賊」として告発しようとし始めていた。

 今日、韓国と日本の関係を見ると、日本人が韓国の官吏となり、韓国人が日本の官吏となっているので、両国人は互いに日本と韓国のために忠誠をつくさねばなりません。伊藤公爵は韓国統監として韓国の臣民であるべきものであるのに、皇帝を抑留して終に廃位しました。元来、社会でもっとも尊いのは皇帝ですから、皇帝を廃位することはできないはずであるのに、伊藤は皇帝を侵したのです。臣下としてあるまじき行為であり、この上もない不忠の者です。


 そのため韓国では今も義兵が各地で起こって戦っています。日本の天皇の聖旨は「韓国の独立」を強固にし、「東洋の平和」を維持するということでありますが、伊藤公爵が統監として韓国にきてから、そのやり方すべて聖旨に反するので、日韓両国は今も戦っているのであります。そして、韓国の外務法部および通信機関などは、みな日本に引き渡され、これでは韓国の独立が強固になるはずがありません。伊藤は日本および韓国に対しての逆賊であります。ことに伊藤はさきに韓国人を教唆して閔妃を殺害させとこともあります。

 これらのことはすべて新聞紙上で世間に公表されていることで申し上げました。わたしたちはかねて伊藤は日本のために功労があると聞いていましたが、また一方、日本天皇陛下に対しても逆賊であると聞いております。
 これからその事実を申し述べます。

 安重根がここまで発言したとき、真鍋判官は、審問を公開することは、「安寧秩序を害する恐れがある」との理由で、公開をやめ、傍聴人を退廷させてしまった。


 安重根は、5日後に死刑の判決を受け、8日後に平石高等法院長とのやりとりの後に控訴を行わず、死刑が確定する。その日から3月15日まで自伝として『安応七歴史』を書くことに専心することになるが、「安応七歴史」の中で、2月7日、8日の審問については、訊問の延長として何も述べず、9日午後の意見を述べる機会を得て、「幾つかの目的を説明する際に、裁判官が大いに驚いて立ち上がり、即時、傍聴禁止とした」としている。法廷を退き、他の部屋に入れられた安重根は考えた。

 私の言葉の中に刀剣があったのか、鉄砲があったのか、たとえれば、清風が一吹きして、塵埃がことごとく消え去ったようだ。
 これはほかではなく、伊藤の罪名をあげて、日本孝明天皇弑殺をかたろうとした時、このように席を破った。

 と書いている。韓国閔妃殺害、高宗皇帝廃位と、日本の天皇の詔勅に反する逆賊であり、さらに、孝明天皇を殺害したものとして、伊藤博文を告発しようとしていた。孝明天皇が慶応2年(1866)12月25日に、天然痘にかかって快癒に向かいまがら毒殺されたのは、幕府と朝廷との公武合体路線から開国倒幕へと転換する際に、天皇から遠ざけられていた岩倉具視の政界復帰をもたらしたもので、岩倉が主犯と思われ、長州藩の若輩であった伊藤の手の及ぶ事件ではなかった。しかし、明治維新、明治6年および14年の政変と、およそ7年ごとに行われた天皇の権威によって権力を握り、天皇の人格的意志を無視する岩倉の宮廷官僚的政治手法は、明治16年(1883)7月20日の岩倉の病死後は、長州藩閥によって支えられた伊藤によって受けつがれた。


 ・・・

 …判官の「目的」についての問に対して、

 わたしは日本4千万、韓国2千万同胞のため、また日本天皇陛下および韓国皇帝陛下に忠義をつくすために今回の挙にでました。

 と述べ、日本と韓国の両国民のために伊藤を殺害したことを明言し、さらに、「東洋平和」の目的について語った。


 日韓両国人の間では、たがいに隔てなく同国人であるという観念で尽力しなければならないと思います。伊藤は韓国に統監としてきてから、韓国の人民を殺し、先帝を廃位し、現皇帝に対して部下のように圧制し、人民を蠅を殺すように殺しました。元来、生命を惜しむのは人情であります。しかし英雄は常に身命をなげうって国につくすよう教えられています。ところが伊藤はみだりに他国人を殺すのを英雄と心得、韓国の平和を乱し、十数万の人民を殺しました。私は日本天皇陛下の宣戦詔勅にあるように、東洋の平和を維持し、韓国の独立を強固にして、日韓清三国が同盟して平和をたたえ、8千万以上の国民が互いに相和して、徐々に開化の域に進み、ひいては欧州および世界各国と共に平和に力をつくせば、市民は益々安らかに暮らすことができ、宣戦の詔勅にそうことになります。
 しかし、伊藤公爵がいては、東洋平和の維持はできない思ったので、今回の事件を行いました。


 安重根は逆賊としての伊藤を処罰するばかりでなく、日本と韓国と清国とが東洋の平和の共同体をつくり、ヨーロッパおよび世界にその平和の輪をひろげる理想を信じていたのである。しかし、安重根は公開の裁判を継続するために、公平な裁判で主張しようとした「政治上の意見」を述べて、伊藤の害悪を明らかにすることを断念し、判官に「かかることは申し上げぬつもり」」と約束した。真鍋判官は公開の禁止を解くことを告げ、午後4時25分に閉廷し、翌日、10日午前9時の開廷を告げた。

 伊藤博文を逆賊とする安重根の「政治上の意見」は10日で終わるはずの裁判の日程を狂わせることになったが、公開の法定で国際世論に訴えよとした安重根の意見は、ついに発表の機会を失ったのである。その無念の思いを、彼は『安応七歴史』の中に書きとめている。


 真鍋判事が法律を知らないのは、これほどなのか。天皇の詔命が重んじられないのは、これほどなのか。伊藤公が立てた官制は、このようなものか。なぜ、このようになったのか。大いに秋風に酔って、こうなったのか。私が今日、遭っているのは真実であるか、夢であるか。私は堂々たる大韓民国の国民であるのに、なぜ日本の監獄にかこわれ、日本の法律を受けねばならないのか。これはなぜか。私がいつ日本に帰化したというのか。判事は日本人、検察も日本人、弁護士も日本人、通訳官も日本人、傍聴人も日本人、これでは唖者の演説会を聾者が傍聴しているのと同じだ。まことに、これは夢の世界だ。もし夢なら、速く醒め、こころよく覚め、速く醒め、こころよく覚めたい。この境涯を説明しても役にたつものではなく、公談しても益がない。

 安重根は、自分の受ける裁判をこのように理解し、真鍋判官の要求に対して笑って答え、「裁判官は思いのままにやってください、私は他にいうことはない」と述べた。

 
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            第3章 伊藤博文殺害者の正体

2 本名はアン・ジュングン(安重根)


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 天壌民ヲ生ジ、四海ノ内ミナ兄弟トナス。各々自由ヲ守リ、生ヲ好ミ死ヲ厭ウハ人ミナノ常情ナリ。今日、世人ヒトシク文明時代ヲ称ス。然レドモ我ヒトリ長嘆ス。然ラズ、東西両洋、賢愚男女老少ニ論ナク、各々天賦ノ性ヲ守リ、道徳ヲ崇尚シ、トモニ競争ノ心ナク、土ニ安ンジ業ヲ楽シミ、トモニ泰平ヲ享受ス。コレヲ文明トスベシ。現今ノ時代ハ然ラズ。イワユル上等社会、高等人物ノ論ズルハ競争ノ説ニシテ、究メルハ殺人機械ナリ。故ニ東西6大州、砲煙弾雨、絶エザル日ナシ。現今ノ東洋ノ大勢、コレヲ言ワバ スナワチ惨状モットモハナハダシ。真ニ記シガタシ。イワユル伊藤博文、未ダ天下ノ大勢ヲ深量スルヲ解セズ、残酷ノ政策ヲ濫用ス。東洋全般、将来魚肉ノ場トナルヲ免ガレザラントス。アア、天下ノ大勢ヲ憂慮スレバ、有志ノ青年ヲ、アニ手ヲツカネテ策ナク、坐シテ以ッテ死ヲ待ツベキヤ。故ニ、コノ漢(私)コレヲ思イテヤマズ、哈爾賓(ハルビン)ニオイテ万人ノ公眼ノ前ニ銃ヲ発シ、声ヲアゲテ伊藤老賊ノ罪悪ヲ討チテ、東洋有志ノ青年ノ精神ヲ警醒セント欲スルナリ。

 として、「1909年11月6日午後2時30分提出」と書いた。「伊藤博文罪悪15箇条」と「韓国人 安応七所懐」とは、伊藤博文を代表とする大日本帝国の政策が韓国にどのような害悪を与えているか告発するとともに、世界人類がみな兄弟であるべきだという世界市民の思想に立ち、帝国主義時代に日本が「殺人機械」によって東洋全般を侵略しようとしているのを阻止するために、韓国人ばかりでなく、日本、中国もふくめた広い東洋の有志の青年への呼びかけとなっている。


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 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は、段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。 
 

コメント (4)
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