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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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「従軍慰安婦」 軍医麻生徹男「戦線女人考」(写真集)より

2012年03月31日 | 国際・政治
 「上海から上海へ 戦線女人考 花柳病の積極的予防法」(石風社)の著者で、元陸軍軍医であった麻生徹男は、戦後写真集『戦線女人考』を編集し、印刷するばかりのところで亡くなったという。「上海から上海へ 戦線女人考 花柳病の積極的予防法」(石風社)は、その写真集をそのまま「第1部」とするかたちをとり、「上海から上海へ」と題した回想記を第2部、「麻生徹男軍陣医学論文集」を第3部として、彼の死後に出版されたものである。写真集の中の写真は、彼が「1300枚ほどの写真の中から、戦争中の女達に焦点を当てて、看護婦、付添婦、慰安婦、中国現地の女性、上海のバー、カフェの女給やダンサー、軍の慰問に訪れる芸人(日本人と中国人)、芸者」などを撮ったものをまとめた62点で、それぞれに彼自身が丁寧な説明をつけているのである。したがって、「従軍慰安婦」の問題に関して も、当時の実態を知る上で貴重な資料といえる。

 その説明の中に、軍と慰安所に関わる重要な記述があるので、それらを抜粋した。まず「兵站司令部の経営」で慰安所が開業したという記述である。慰安所は民間の業者が経営するものだけではなかったということがわかる。また、「慰安所規定」は、軍直営でないとあり得ないような内容である。
 さらに、「楊家宅慰安所」の記述「一人の慰安婦が脱走して軍工路の立哨に捕らえられ、その身柄引取に、命により麻生は現地に赴いた」は、多くの「従軍慰安婦」であった女性が証言している通り、自由でなかったことを物語っており、「金儲けの商売をしていた」などと言えるものではなかったことがわかる。

 憲兵隊に関する記述も重要であると思い抜粋した。明らかに人道に反する拷問が行われていたことがわかる。
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 陸軍慰安所の立て札
 楊樹浦路のはずれ、呉淞に向かう工路の土手を、新市街敷地の方へ下ると、楊家宅と云ったの跡があった。この地に
陸軍慰安所が、兵站司令部の経営で開業した。その立て札。

 昭和13年3月11日、楊家宅慰安所より慰安婦8人来訪し、次の事を訴える、今回老人の軍医見習士官が来て慰安所の管理は自分がする、検診は週1回とする旨、そして麻生は手を引いてくれ、と。かの女等の言外の意味は現在の兵站業務の多忙に乗じた彼の私物命令らしく、現に彼はこの数日慰安所に居続を決め込んでいて、慰安所を私物化している。甚だ迷惑と。即ち監督医師の個人的登楼にて、リール事件そのもので事重大。


 慰安所規定
 昭和13年1月の検診に次いで2月7日、第2回目の検診が、江湾鎮と楊家宅にて行われた。楊家宅にては立派な建物が軍の手で建てられ、この様な慰安所規定が掲げられてあった。一方江湾鎮では既設の民家その物を利用した。

一、
本慰安所ニハ陸軍々人軍属(軍夫ヲ除ク)ノ外入場ヲ許サズ。入場者ハ慰安
   所外出証ヲ所持スルコト。
一、入場者ハ必ズ受付ニオイテ料金ヲ支払ヒ之ト引替ニ入場券及「サック」一個ヲ
   受取ルコト。
一、入場券ノ料金左ノ如シ
   下士官・兵・軍属金弐円
一、入場券ヲ買ヒ求メタル者ハ、指定セラレタル番号ノ室ニ入ルコト、但シ、時間ハ
   30分トス。
一、用済ミノ上ハ直チニ退室スルコト(以下略)
                  (この部分は『「陸軍娯楽所」ノ開設ト私』より抜粋)



 楊家宅慰安所
 上海より呉淞に向かう軍江路に近く、地理的にも、自由に上海に行ける所であった。慰安所開設後間もない2月24日夜、
一人の慰安婦が脱走して軍工路の立哨に捕らえられ、その身柄引取に、命により麻生は現地に赴いた。


 慰安所入口
 楊家宅慰安所入口に立っている河合軍医見習士官(松山市出身)と上海在住、軍に協力した看護婦二人である。写真の中に在る切符売り場の壁に、例の慰安所規定が掲げてあった。



 民営の軍慰安所
 これは江湾鎮、北四川路の奥にある民営の軍慰安所である。無人となった民家を慰安所として使用したのか、前から在ったこの種の建物を利用したのか判らない。3人の女性は現地雇いの看護婦であり前列の兵は衛生兵、奥に居る人は河合軍医。



 武昌憲兵隊
 昭和16年3月中旬、私は武漢の地を去る事となった。写真中真ん中の建物は、武昌憲兵隊、その後ろ小道を隔て私の勤務の場所、兵站病院レントゲン室があった。嫌でも聞こえる訊問の大声、悲鳴、水攻め。死者を甦らせよ、もう一事聞きたい事ありと私に命じる憲兵殿の語気、それは今でも悪夢である。この建物にはYMの三角マークと武昌基督教青年会と書いてある



 一部、漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。 

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