真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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三島由紀夫 「反革命宣言」をめぐる論争

2008年10月21日 | 国際・政治
 元自衛隊陸将補山本舜勝は、旧陸軍時代の同期生Mを三島に会わせた。彼は三島の「反革命宣言」を読んで、その思想に共鳴していたが、具体的な部分におおきな誤りがあると言ってきたという。そして、三島ほどの人物がその誤りに気づかず進むのはいかにも惜しいので、ぜひ会って議論したいと申し入れてきたというのである。その議論の一部を『自衛隊「影の部隊」三島由紀夫を殺した真実の告白』元自衛隊陸将補山本舜勝(講談社)から抜粋する。
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三島を理解しなかった自衛隊

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 私は初め躊躇した。熱心なMの要請を聞いているうちに、議論によっては三島の民間防衛構想に、あるいは自衛隊の治安出動時の協力に関連して、何か新しい展開への糸口が見つかるかもしれない、と思い始めた。二人の議論を聞くことで、三島の当面の情勢判断を客観的に評価できるのではないか、という私自身のちょっとした願望も働いて、私は彼らを会わせることにした。私は三島が拙宅を訪れることになっていたその日、Mを招いた。
 Mは、「反革命宣言」に対するいくつかの質問を用意していた。そして議論は「行動原理における有効性」の問題に集中した。それは同論文で次のように述べられていた部分である。


 ……自らを最後の者とした行動原理こそ、神風特攻隊の行動原理であり、特攻隊員は「あとに続く者あるを信ず」という遺書を残した。
 「あとに続く者あるを信ず」の思想こそ、「よりよき未来社会」の思想に真に論理的に対立するものである。なぜなら、「あとに続く者」とは、これもまた、自らを最後の者と思い定めた行動者に他ならぬからである。有効性は問題ではない。


 Mは初めから鋭く切り込んだ。
 「有効性を問題にしない運動とは、いったいどのようなものですか?それではただの言葉上の遊び、いや、思想をもてあそんでいるだけ、と言われても仕方ないんじゃないですか?」
 「それは違う。言葉の遊びや思想上の問題などではない。実際に、自らの命を賭けて斬り死にすること、その行為がまた、あとに続く者を作り出すんだ!」
 「真に日本の変革を目指すのであれば、そのための行動であれば、行動する以上勝たなければ意味がないじゃないですか。だとすれば、敵に勝る武器が、戦車であれミサイルであれ、必要になってくるはずです。あなたのおっしゃる精神論ももちろん必要ですが、手段に裏づけられない精神論など、絵に描いた餅ですよ!」
 「違う。それは問題の立て方がまるで違うんだ。己の肉体を賭けて文化を守るのがわれわれの目標である以上、
武器は日本刀で十分なんだ!」
 議論は最後まで平行線をたどり、交わることがなかった。現代という歴史の時間軸の中では、即時的有効性よりも最終的な成果こそ重視さるべきであるという三島の論理は、Mの考える戦闘における勝利の概念を突き崩すことはできなかった。
 もちろん、武器戦法の優劣に立った行動の具体的有効性に依拠するMが、三島の歴史性や精神性の考え方に少しでも動揺を与えることもなかったのである。とはいえ、自ら信ずることの埒外について眼中にない論者は、三島のように相手を理解しつつ、 自分を理解させようと考える論者を圧倒してしまうものである。
 この強硬な論者は三島を手こずらせたばかりでなく、深く傷つけることとなった。


・・・

 3月に入ると、「盾の会」第3期生の訓練が富士で行われた。訓練が終わって間もなく、その訓練に関わった若い自衛官から電話がかかってきた。
 「三島先生は、どうもあなたが、最近妙な人物に会わせるが、とおっしゃっています。もしあなたが心が変わったのなら、われわれも黙ってはおりませんから、どうかそのつもりでいてください」
 「私に心変わりなどあるはずがない。よけいな心配をするな」
 私は電話を切ったが、内心、三島が自衛隊内部に深く浸透し始めている事実に舌を巻いていた。彼は富士の訓練などを通して、若い自衛隊幹部の中に協力者を見つけ出す努力を重ねていた。その成果がここまで来ている。



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三島由紀夫 切腹(三島事件)に至る思想

2008年10月21日 | 国際・政治
 下記は、三島由紀夫が自刃3ヶ月前に伊豆下田のホテルから元自衛隊一佐山本舜勝(後陸将補)に宛てた手紙の中に同封されていたという書類の一つ、『武士道と軍国主義』からの一部抜粋である。
 『自衛隊「影の部隊」三島由紀夫を殺した真実の告白』元自衛隊陸将補山本舜勝(講談社)によると、三島は、自刃の年の7月、当時の保利茂官房長官から、防衛に関する意見を求められたという。同封されていた書類は、三島の持論をタイプ印刷したもので、佐藤栄作総理大臣と官房長官が目を通した後、閣僚会議に提出されるはずだったが、公表されることはなかった。筆者によると、当時の中曽根康弘防衛庁長官が、閣僚会議に出すことを阻止したのではないかという。
 彼にとって過去の戦争の犠牲は何であったのか。”繰り返すまい”という思いはなかったのか。
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『武士道と軍国主義』

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 しかし、日本は、天皇という民族精神統一、その団結心の象徴というものを持っていながら、それを宝の持ち腐れにしてしまっている。さらに、我々は現代の新憲法下の国家において、ヒューマニズム以上の国家理念というものを持たないということに、非常に苦しんでいる。それは、新憲法の制約が、あくまでも人命尊重以上の理念を日本人に持たせないように、縛りつけているからである。
 防衛問題の前提として、天皇の問題がある。ヒューマニズムを乗り越え、人命よりももっと尊いものがあるという理念を国家に持たなければ国家たり得ない。その理念が天皇である。我々がごく自然な形で団結心を生じさせる時の天皇、人命の尊重以上の価値としての天皇の伝統。この二つを持っていながら、これをタブー視したまま戦後体制を持続させて来たことが、共産圏・敵方に対する最大の理論的困難を招来させることになったのだ。この状態がずるずる続いていることに、非常な危機感を持つ。


・・・

 故に、(核ではなく)在来兵器の戦略上の価値をもう一度復活させるべきだと考える。つまり日本刀の復活である。むろん、これは比喩であり、核にあらざる兵器は、日本刀と同じであるという意味である。
 その意味で、武士と武器 本姿と魂を結びつけることこそが、日本の防衛体制の根本問題だとするのである。
 ここに、武士とは何かという問題が出て来る。
 自衛隊が、武士道精神を忘れて、コンピューターに頼り、新しい武器の開発、新しい兵器体系などという玩具に飛びつくようになったら、非常な欠点を持たざるを得なくなる。軍の官僚化、軍の宣伝機関化、軍の技術集団化だ。特に、技術者化が著しくなれば、もはや民間会社の技術者と、精神において何ら変わらなくなる。また官僚化が進めば、軍の秩序維持にのみ頭脳を使い、軍の体質が、野戦の部隊長というものを生み出し得なくなる。こうして精神を失って単なる戦争技術集団と化す。この空隙をついて、共産勢力は自由にその力を軍内部に伸ばして来ることになる。

 では、武士道とは何か。
 自己尊敬、自己犠牲、自己責任、この3つが結びついたものが武士道である。このうち自己犠牲こそが武士道の特長で、もし、他の2つのみであれば、下手をするとナチスに使われた捕虜収容所の所長の如くになるかもしれない。しかし、身を殺して仁をなす、という自己犠牲の精神を持つ者においては、そのようにはなりようがない。故に、侵略主義や軍国主義と、武士道とは初めから無縁のものである。この自己犠牲の最後の花が、特攻隊であった。
 戦後の自衛隊は、ついに自己尊敬の観念は生まれなかったし、自己犠牲の精神に至っては、教えられることすらなかった。人命尊重第一主義が幅をきかしていたためだ。

 日本の軍国主義なるものは、日本の近代化、工業化などと同様に、すべて外国から学んだものであり、日本本来のものではなかった。さらに、この軍国主義の進展と同時に、日本の戦略、戦術面から、アジア的特質が失われてしまった。
 日本に軍国主義を復活させよ、などと主張しているのではない。武士道の復活によって日本の魂を正し、日本の防衛問題の最も基本的問題を述べようとしているのだ。日本と西洋社会の問題、日本文化と西洋のシヴィライゼーションの対決の問題が、底にひそんでいるのだ。



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