今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

加門七海『うわさの人物』が示す霊能の性差

2023年04月23日 | 作品・作家評

加門七海著『うわさの人物—神霊と生きる人々—』(集英社)という本は、日本各地(青森から沖縄まで)の9人の霊能者とのインタビュー集で、だいぶ前の2007年出版だが、私自身がこういう世界に接近したのが最近なので、出会ったのが先日となったのは致し方ない。
※:著者の一連の著作『うわさの神仏』をもじったタイトル.

心霊科学や超心理学、あるいはスピ系の理論書・実技書にはない、市中で活躍している霊能者のナマの声がとても参考になった。

とりわけ、霊能の男女差に関して、女性の霊能者には身体を駆使した苦行は無意味である、という主張は、霊能を体現してきた当事者だからこそ言えるもので、さらに根源的な謎である卑弥呼などシャーマン(ユタ、イタコ)がなぜ女性ばかりで、逆に山野を駆け巡る行者がなぜ男性ばかりなのかという現象の理解にも通じる。

インタビュー対象のある女性霊能者は、水垢離などの修行をしてみたが、バカらしくなってやめたという。
これらの修行が自身の霊能にとって全く無関係であることがわかったためだ。

実際、誰でもが修行さえすれば霊能が得られるというものではないことは明らかで、
霊能は肉体を痛めつける修行では得られない、という冷徹な現実を突きつける※。
※:そんなことは、そもそもお釈迦様が実感していて、そのために”中道”の道を説いたのだが、どうしても苦行したがる人(♂)がいるもので、修験道は苦行に回帰した。天台宗の千日回峰行はその極限(苦行者の憧れ)。

別の女性霊能者は、女性は一瞬でトランス状態に入れ、基本的に快感でしか能力を高められないという。
苦行はマイナス効果しかないというわけだ。

女性には最初から神性が内在しているのだろう。

一方、2名の男性宗教家が語った(男性にとっての)山修行の意味については、私自身の問題として参考になった。
語り主は、性別を特定せずに語っているが、本題の視点でいえば、”男性”にとっての苦行の意味の問題になる。

かつて山に行く意味を喪失しかけた私にとって、新たな意味づけとして、修験道の”峰入り”すなわち行としての登山に開眼したわけだが、このような修行志向そのものが男性的嗜好であるわけだ。

上述した女性霊能者は、男性はトランス状態に入るのがヘタで、そのための手段として苦労して行をせざるを得ないという。
男は、自分を高めるのに、自分を痛めつけ、自己否定という自己超越の果てに初めて、他なる神性に出会えるのだろう。

それゆえに、著者は女性ながらも、大峰山・山上ヶ岳の女人結界の存続に肯定的となる。
なぜなら、修行が本質的に不要な女性にとっては、山修行の聖地である大峰山のその一角だけ禁足となることはなんら不都合がないから。
対して、男性の行者にとって、女人禁制の空間を設けることがストイックな修行上貴重な空間になることを、著者は理解しているから。
私は、ここの女人結界を性差別思想の名残としてのみ理解していたが、本書によって異なる理解が可能となった。

以上の性差は、雄(♂)という存在が本質(生物)的に”疎外態”であることと関係していると思われるのだが、ここではその方向に議論を持っていくべきではないので、別の機会にする。
※:存在の中心・本質から弾き出されて生きていかねばならぬ状態。その劣等コンプレックスの反動形成として、自分達こそ存在の中心・本質だと思い込もうとした(男(man)=人(man)).

もうひとつ、前々から気になっていた「狐憑き」という日本固有の憑霊現象についても、
ある女性霊能者によれば、動物の狐が本質的なのではなく、神の使い(≒眷属)の練習によるものという意味づけで、他者からはおかしな言動に見えるものの、本人の霊能発現に繋がり、あながち否定的現象ではないという話が参考になった(従来の対応は、憑いた狐を落とすのに必死になり、文字通り本人が絶命する場合もあった)。
この問題については、同じ年に出版された『日本人はなぜきつねにだまされなくなったのか』(内山節、講談社)を読んでいたので、狐という特定動物固有のパワーの問題ではないという理解が進んだ。



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