今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

『大菩薩峠』を読んでみたら

2024年04月06日 | 作品・作家評

世界的長編、中里介山の『大菩薩峠』を2月下旬に読み始めて(→記事)、
3月末日現在で、全41巻中21巻を読み終えた。
ちょうどど真ん中。

3月中は「18きっぷ」での6時間の車内読書が5回でき、それ以外での車内読書(国会図書館通い、熱海、高崎往復など)も入れてもこの結果。
言い換えると、電車内以外ではほとんど読まない(優先すべき作業があるから)。

では、この延々と続く物語を読んでどうだったか。
他の短い小説と何か異なる経験をしたか。
途中経過として報告する。


まず、この小説を読み続けること自体は、ちっとも辛くない。
文体が口語(ただし説明が「であります」)で、登場人物のキャラが分かりやすいので、混乱ない。
また、それなりに事件が続発するので、だらけもしない。

ただ机竜之介を含む主人公群(巻を重ねるにつれ増えていく)が、それぞれの理由・目的で日本各地を移動しながら、同じ土地で出くわす毎回の偶然性に、不自然さを禁じ得ない。
が、そこが”物語”のご都合主義が勝るところで、これが現実だったら、主人公群が各地にバラバラになって、彼らが織りなす関わり合い(物語)が終わってしまう。

要するに、これが(作者の嫌う表現ながら)「大衆小説」なので、そのチカラワザで話が続いていく。

ただ、これらの話にどんどん引き込まれて、熱中して読み進めてしまう、という強い引力はない。

結果として、ダラダラ(ゆっくり)読み進めることになる。
となると、世界的長編なだけに、読み進める状態が延々と続く(まだ道半ば)。


小説の中は、登場人物が生きている世界だから、私が読書を再開するたびに、彼らの生が再作動する
(小説を読むという行為は、生命のない文字列に生命を吹き込むこと)。
すなわち、私と共に、私に並行して、彼らが生き続けている世界が作動して、まさにパラレルワールドの感じがしてくる。
ただし、私から独立して、彼らが自分らの世界を進展させることはない。

彼らの生は、私が読み出すことで(のみ)進行するのだ。
言い換えれば、私がページを開くまで、彼らの運命は(シュレディンガーの箱の中の猫の如く)決定されない。

これって、まるで量子論の世界だ。

こんな感覚は、今までの小説の読書にはなかった。
それは、今までの数冊レベルの小説では、私の生と並行するほどの長い時間経験でなかったからだ。


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