今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

『サピエンス全史』の先にあるもの

2024年02月16日 | 作品・作家評

イスラエルのマクロ歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史:文明の構造と人類の幸福(2011年ヘブライ語版、2014年英語版)を今頃になって読んだ(上下全巻の2023年電子版)。

20-15万年前に出現した現生人類(ホモ・サピエンス)のトータルな歴史を論じた、人間についての最もマクロな視点の書なので、出版後10年たって読んでも遅くはない。
大袈裟に言えば、現生人類だったら、ぜひ読むべき本だ(と思っていた)。

サピエンス=賢いの名のとおり、現生人類(以下、サピエンス)は、7万年前の認知革命によって、思考能力を元に想像の世界を構築できるようになった。
それすなわち心のサブシステムの「システム2」である(もう1つの「システム1」は動物と共通の、条件づけられた反応様式)。
サピエンスのサピエンスたる所以は単なる言語能力ではなく、むしろ物語創作能力にあることを示している。

私が本ブログでシステム2のパワーとして強調しているのもその能力だ。

本書によれば、サピエンスはその能力を駆使して、物理世界には存在しない、貨幣・国家・宗教を作り、人間自身をその物語内で生かした。
そういうわけで、私から見れば本書は『システム2全史』に他ならない。
すなわち、システム2のパワーと罪禍(他民族や他の動物に対する)、そして限界を知ることができる。
※:システム2の欠点は、思考の自縄自縛性と、感情(システム1)の制御が下手なこと。

そして、著者が最後に問題にしたのは、果たしてサピエンスは幸せになったのか、ということ。

そもそも、幸せとはどういう状態か。
願いが叶う、願望が実現する、欲求が満たされることは、確かに幸せかもしれない。
サピエンスはそう思って、資本主義という欲求充足システムを開発し、その結果経済的・物質的・エネルギー的繁栄を謳歌した。
それで、サピエンスは満ち足りたか。
欲求はさらなる欲求を生み、サピエンスは常に欲求不満状態になっているのではないか。
すなわち果てしない欲望の無限循環に陥っているのではないか。
サピエンス固有のシステム2が動物的なシステム1の道具に成り下がったのである。

面白いことに著者は2500年前の仏教に特別な注目をしている(一方、ユダヤ教にはほとんど触れない)。
人々の苦の原因が、飽くことのない欲望(渇愛)にあると見透し、その苦しみからの脱出、すなわち真の幸福の道を探求した仏教は、物語の強化に過ぎない他宗教とは一線を画すことを著者も理解している。

そして本書では、サピエンスの行く末を生命工学の進歩の問題と絡めて終わっている。
そこが10年後の2024年の時点では不満だったが、著者の2023年の文庫本あとがきで、AI(人工知能)の進歩の問題に触れているので納得した。

といっても、「心の多重過程モデル」の視点からは、こういう心の”単層”モデルによる論議は、人間の心の一面しか見ていない不満が残る。

私から見れば、認知革命以降から今後のAIまで全てシステム2内の問題に過ぎない(生命工学はシステム0の問題だし)。
著者の仏教への注目はいい線いっているのだが、心≒システム2という視点なので、仏教がトライしているシステム3というサピエンス(システム2)を超越する心の開発という脱サピエンス的志向が見えていない。
※:本ブログのあちこちに記したように、サピエンスのほとんどがシステム3と無縁だが、瞑想という方法で作動可能となる(それを自ら体験して発見したのが釈迦)。システム3によって思考と感情それぞれの暴走から脱せる。

すなわち「心の多重過程モデル」から見た人類の進化は、システム2主導のサピエンスから、システム3主導のポスト・サピエンスへの方向が見えている(釈迦の示した道が、大多数のサピエンスにとって実行困難なのはそこが理由でもある)。
なので、AIもシステム2(情報処理)の高度化に過ぎないので脅威でない。
むしろ、システム2の作動で一生を終えるサピエンス的生き方から解放される機会がやっと訪れつつあるように思える。
私が本ブログでその辺の話題を繰り返しているのも、そのためだ。→AIと心の進化



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