谷中七福神は、日本最初の七福神巡りという。
ということは、今や全国に拡がった七福神巡りの発祥元ということ。
その谷中七福神の開帳は本日が最終日なので、歩行運動を兼ねて七福神巡りをする。
もっとも福神の七つのうち五つが自宅からの散歩圏内なので、散歩の延長気分で地図なしで気楽に行ける。
これって「不要不急の外出」かもしれないが、病魔退散祈願という目的を掲げ、屋外の歩行なので問題はない。
それに御朱印集めの趣味はないので、列に並ぶこともない。
人間はかように状況判断できるので、「緊急警戒宣言下の外出」というだけで、パブロフの犬のごとく条件反射的に反応しないでほしい。
まずは北区田端の東覚寺(真言宗)。
今年は本堂内に入れず、本堂入口に福禄寿像が置いてある。
この寺の裏庭の築山に、七福神像が散在しているので、実はここだけでも七福神巡りができる(忙しい人にお勧め。私は元日にそうした)。
次の寺に行くには、正規ルートでななく、目の前の信号を渡って与楽寺(”六阿弥陀”の1つ)を経由するといい。
さらに荒川区西日暮里4町目の住宅街を歩くと、各家に「都市計画道路反対」の表示が目につく(写真)。
この狭い道路を拡張して幅20mの大通りにする計画がなんと関東大震災直後(大正時代)から計画されて、それがやっと部分的に実現したのが東覚寺前の広い道路(ただし通る車はほとんどない)。
その先の道路が荒川区の住宅街を突っ切って計画されているが、実はさらにその先の台東区谷中側は、住民の反対もあって道路計画がなくなって、西日暮里駅前の通りに出合う所で終りになる。
ということで幹線道路としての価値は著しく減じるわけだが、もともと防災用の道路計画(延焼の遮断と緊急車両の通行)なので、車が通らなくても広い道路にすること自体に意味がある。
でも計画道路上の住民は立ち退きが求められ、閑静な周辺住民も大通りに面するので、こうして反対運動が起きて膠着状態を示している(住民の気持ちは痛いほどわかるが、都市防災の視点からは、消防車の入れない木造住宅密集地を無くしたい)。
道路を渡った西日暮里3丁目側の小さい青雲寺(臨済宗)は、本堂の扉が小さく開いて、そこから鯛を抱えた恵比寿様が拝める。
同じ並びの修性院(日蓮宗)の大きな布袋像は、一見に値するが、今回は入れない本堂の奥にあって、遠くから眺めるだけ。
ここから先は、谷中にめったに来ない人なら直進して、谷中銀座(商店街)を散策するといいが、私は左折して「富士見坂」を上がる。
この富士見坂、数年前までその名の通り富士が見えていたのだが、富士を塞ぐ位置に高層ビルが建てられてしまい、名前のみとなった(そのへんの経緯が、坂沿いに掲示してある)。
台地上を歩いて、谷中銀座からの道と合流する所に、戊辰戦争の銃弾痕がある経王寺があり、そこにも大黒天が祀ってあるが、これは谷中七福神には入っていない。
ここから谷中霊園に入ってほぼ直進で天王寺(天台宗)に出る(修性院からここまでは正規ルートではない)。
天王寺の毘沙門堂で毘沙門天を拝み、霊園の五重の塔跡地のところで右折して、民家風の長安寺(臨済宗)に行く。
ここは靴を脱いで本堂に上がり、寿老人を拝む(写真:右側にあるのは中国で長寿のシンボルの鹿)。
寿老人は、七福神で一番マイナーな存在だが、長寿の御利益なので(実は福禄寿も長寿を兼任)、病魔退散の祈願としてはここが一番重要。
またこのあたりは寺町である谷中の中心部なので、築地塀など他にも訪れるに値する所はある。
ここから谷中散策のメインストリートを歩いて上野桜木の交差点に出たら右折し、次の十字路を左折すると、寛永寺の支院である護国院(天台宗)に達する。
靴を脱いで本堂に上がると、正面の釈迦三尊の前に黒い大黒天があり、左右の広間に十二支に対応した仏像があり(毘沙門天、弁才天も)、仏像ファンにはうれしい。
薬師如来の前で、病魔退散を祈願する。
ここから坂を下って上野高校、上野動物園に沿って歩いて、不忍池に延びた弁天堂(天台宗)に達する。
ここも寛永寺の支院なので仏教寺院だが、堂の正面に人面蛇身の宇賀神像が祀ってある(写真:赤い2本の脚は鳥居)。
神仏習合OK!
さすがここだけは、行列があって、距離をあけて並んだ。
私の前の白人男性が熱心に本尊の弁才天※に合掌していた。
※:弁財天とも表記されるが、元はインドの音楽神サラスバティーなので、芸能の神としての弁才天が正しい。才能がお金をもたらすのだ。
これで谷中七福神を踏破。
少々寄り道しながら自宅からここまで1時間半だった。
七福神巡りに徹するならこの程度の時間で済むが、
それぞれの地には時間をかけて見学に値する所もあるので、通しではなく、それぞれの地をじっくり味わってほしい。
たとえば、東覚寺近く(田端駅前)には、田端文士村記念館(この地に住んでいた芥川龍之介など※)がある。
※:この田端には、室生犀星、菊池寛、堀辰雄、萩原朔太郎、直木三十五、林芙美子、佐多稲子、平塚らいてう、板谷波山、田河水泡、小林秀雄など、文士だけでなく芸術家も多数居住していた。言うなら、大正時代の田端は弁才天の地だった。
そして天王寺周囲の谷中霊園(徳川慶喜の墓など)、
長安寺の通り沿いに朝倉彫塑館(谷中銀座とセットで)、
護国院と弁天堂の間には、東京芸大(陳列館)、国立博物館、寛永寺、大仏、清水堂など多数。
谷中銀座から上野までの間には、個性的なランチの店が点在し、公衆トイレもある。
だから私の散布圏なのだ。