今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

湯河原城山・頼朝の史跡

2018年03月19日 | 東京周辺

私の春休み第三弾は、第二弾の湯河原温泉をチェックアウトしたところから始まる(すなわち2弾連続)。
宿のチェックアウトは遅くとも10時なので、そのままだと昼前に帰宅してしまう(これだと第二弾でおしまい)。
ならば、せっかくの湯河原をもっと堪能しよう。
アウトドア派なので、温泉街から外に出て空間的・立体的に歩き廻りたい。
具体的に挙がった行き先は、石橋山の合戦(1180年)に敗れた源頼朝が隠れたという
しとどの窟(いわや)」と湯河原温泉街の背後に聳える城山(563m)。
しとどの窟へは、湯河原から箱根芦ノ湖畔に往く路線バスに乗れば、バス停から歩いて20分ほどで行ける。
バスの便が午前9時と10時台しかないので、午後3時のチェックイン前よりも、チェックアウト後に訪れるのに丁度いい。

だが、あいにく昨日と打って変わって天気が悪く、雨が予想されている(折畳み傘は持参)。 
南向いの岩戸山(734m)はもう雲をかぶっている。 

9時46分に乗ったバスに揺られて、城山山腹の道をぐいぐい上り、山の上に出たところの「しとどの窟入口」で降りる。
バスの運転手は帰りの便がないことを心配してくれたが、ここから湯河原駅まで歩く予定なので、心配ご無用。
ここは椿台といって実朝が歌を詠んだ山上の名所。
今日は低く垂れ込んだ雲が手に届きそうだが、海側はまだ明るく、初島・大島が見える。

案内板に従いトンネルをくぐって、地蔵の石仏と石灯籠が並ぶ山道を下る。
この付近は関東山伏の発祥地で、山伏たちの行場だったという。
谷に降りていくと雲の中にはいった感じで、霧雨が降っている。
LLビーンの防水効果のあるハット(つばのある帽子)をかぶって傘代わりにする。

 地藏の列が終って今度はさまざまな観音の石仏が出てくると、まもなくしとどの窟
説明板によると、正式には「土肥椙山岩窟」で、なんか私と縁がありそう。
通称の「しとど」は、頼朝の追手の前で急に飛び出したのが「シトト」という鳥だったということから。
その岩窟は、思いの外奥行きはないが、間口が広く、上から滝状に水が落ちているので、飲料水に困らない(写真)。
今では写真のようにさまざまな石仏が置かれてあるので、なにか異様な霊気がたちこめている。
山中にかような自然の隠れ家があろうとは、地元の土肥氏や山伏以外は知るよしもないだろう(当時のものではないものの、石仏群からすると、少なくとも地元ではよく知られた場所かもしれない)。

ここから復路を椿台まで戻り、城山への尾根道に入る。
こちらは風上側で雲がなく、雨は降っていない。
軽い上下を繰り返して、城山山頂に出る。
ここは地元の豪族土肥氏の城があったといわれるが、小田原北条氏の物見跡ではないかとも言われる。
本当なら、目下に相模湾や真鶴半島が拡がる眺めのいい山頂なのだが、雨が降ってきたので、
直下の「硯石」(頼朝が蹴ったら硯のような形になったという)を見て、湯河原方面に降りる。

今回も ZAMSTのサポーターを左膝に巻いているので、スタスタ降りれる。
途中、これまた頼朝が放り投げて立ったという「立石」を見て
(付近はかように頼朝伝説が多い。実際に頼朝が歴史の表舞台に躍り出ようとして苦労した地である)、さらにスタスタ降り、
山の斜面の住宅街になったので、帽子から折畳み傘に替えて、急勾配の住宅街って歳とったらたいへんだろうなと思いながら、麓の城願寺に達する。

この寺(今は曹洞宗)は土肥氏の菩提寺で、一族の墓所が残っている。
土肥氏は平氏一族だが、坂東の平氏にとって清和源氏はわれらが棟梁(源義家)の家系であるので、
血縁より地縁を優先して頼朝側につき、石橋山の合戦で敗れた頼朝の命を救った(子孫に小早川隆景がいる)。 

この寺の柏槙(びゃくしん)は樹齢850年の巨樹で国の天然記念物になっている。
幹の一部はコンクリで補填されいるが、葉を茂らせて生命力は旺盛なようだ(写真:左奥は頼朝ゆかりの七騎堂)。
貴重な記念物なので囲いがしてあり、また雨天で傘をさしているので、
幹に手をかざして気の交流をするのに苦労。

ここからほどなく湯河原駅に出る。
丁度12時。
高尾山よりも高度差がある下りだったが、左膝はなんともない。
駅前の土産物店で、金目鯛入りのかまぼこ(伊豆と小田原をミックス)を土産に買い 、発泡酒とつまみを買って、グリーン車に乗り込んだ。