今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

ネットでの自己表現

2013年09月01日 | 時事
9月1日は、1月1日、4月1日に次いで、本来なら1年のうち3番目に気分一新になれる日なのだが、
今日のように東京で37℃を超える猛暑だと、まだとうてい8月気分から抜けられない。
ただし地上天気図も高層天気図もともに秋口の気圧配置になっているので、
秋は確実に近づいている。
もう少しの辛抱だ。

さて、
今夏は、あちこちで若者がバイト先の飲食店などで馬鹿な写真をネットに晒して、結果自分に災いを招いていた。
自己表現欲求を満たしたいのであれば、誰でも出来る安直な受けねらいで満足せず、
きちんと自己表現のトレーニングをすべきだ。
それが出来るのがIT技術なのだから。

そもそも現代は、誰もが情報発信者すなわち表現者になれるすばらしい時代。
パソコンのコンセプトをその提唱者アラン・ケイから(本で)学んだ私は、
パソコンをマルチな自己表現ツールとして使うよう教育してきた。
アラン・ケイの更なる師、マーシャル・マクルーハンに言わせれば、
パソコンは自己の”脳”を拡張するものだ。
ところが世間は、デジタル技術を人間を怠惰にするという意味での便利なものと勘違いしている。

「バカ発見器」と言われるツイッターは、何も考えず(試行錯誤せず)脊髄反射的な応答ですませられる(LINEも同様か)。
フェイスブックは、同窓会的情報交換としてはまぁ価値がないこともないが、
ほとんど無意味な情報でさえ、友だちとの「いいね」の押し合いで満足してしまう低レベル性が問題。

自己表現ツールとしてやり甲斐があるのはブログだ。
ブログは見えない不特定多数を相手にしているからこそ、表現に気を使う。
もちろん、著作権とプライバシーの保護、それに公序良俗違反にならないことは言うまでもない。
そういう最低限レベルではなく、
文章表現として誤解されず、効果的な日本語となるべく推敲することに価値がある。
すなわち情報の付加価値をいかに高めるかに神経を使う。
この記事のレベルの文でさえ、推敲を繰りかえして幾度も打ち直している。

言い換えれば、誰でも書けるような安直な情報は社会的価値がない。
たとえば、フェイスブックでは、「今日~に行ってきました」的簡単な情報が写真つきで、
まさに友だちの数だけ毎日並ぶが、
正直いってつまらないのでもう毎日開く気がしない。

今日行った先を記事にするなら、ブログだったら行き先についての詳しい情報か、
旅行記としての読み物的価値が必要となる。
なにしろ、評価の高いブログは、そのまま本として出版されるほどだ。
ネットに情報を流すなら、そこまで苦労しないと。

デジタルメディアは自分の表現力を鍛えるためにある。

一人一人が公的意識をもった自己表現者になること、
それは自己の能力の、自己の存在意義の社会的実現でもある。
それがマクルーハンやケイそしてジョブズが理想(ビジョン)としたIT社会だ。