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今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

糖質制限の可否:作法的に考える

2013年06月18日 | 作法

糖質制限ダイエットが問題になっている。
私もそれを謳う書を入手したが、糖質を蛇蝎のように嫌って、
糖質が入っている飲食品を徹底的に排除する極端性にはついていけなかった
(この態度は、1品を異常に崇めるダイエット法と同曲)。
本来ならば糖尿病患者用の食事制限法であり、
健常者にとっては糖質はエネルギー源として不要なわけではない(特に脳にとっては必須)。

ただし、日本の伝統的食卓の「ご飯中心主義」には前々から問題を感じており、
その点で糖質制限はそれを打破するヒントを与えてくれている。

ご飯中心主義は、
ご飯を主食として、他の菜(おかず)はご飯を食べるための添え物という位置づけの明確な主従関係の思想。
この思想には稲への信仰という、日本文化の根源に遡る深みがあるのだが、
栄養学的視点では、糖質過剰摂取となっている。
米の消費量が減ったとはいえ、いまだご飯中心主義は根強い。

たとえば、大衆食堂では、ご飯はどんぶり並の大きな器によそわれ、
しかも「おかわり自由」が売りになっていたりする。
西日本では、「ラーメン+ライス」や「お好み焼き+ライス」などがあるという。
そうまでしてご飯を食べなくてはならないのか。
もっともパンや麺においてもそれら糖質を主食化する発想になっている。
私も「焼そばパン」が好きでつい買ってしまっていたが、
これも糖質過剰なので、今は控えている。
ついでに、餃子はご飯のおかずでなく、(発祥地の中国と同じく)ご飯の代わりとしている。

作法家としての私は、伝統的和食作法を守りたいのだが、
結局ご飯中心主義の食べ方に、我が身がついていけなくなった。
健康のためだ。

そしてその代りに採用しているのが、
以前は和食作法の破壊として手厳しく批判していた”酒宴料理”の食べ方。
すなわち、おかずだけを次々と食べ、最後のご飯を、簡単にさらさらっと平らげる。
ご飯を中心に空間展開する本膳料理形式ではなく、
ご飯を最後として時間展開するコース料理形式への大転換。

後者の利点は限りない。
まず、個々のおかずがご飯との相性から開放され、独自の価値を発揮できる。
ご飯中心主義下ではその存在位置すら無かった生野菜を使ったサラダが堂々と献立にはいる。
そして従来型のおかずも、味の薄いご飯のためでなくなるので、
今までよりも薄味でよくなり、塩分が控えられる。
それらの多くは、醤油やソースを漬ける必要がなくなる(塩分の濃い練り物に醤油は不要)。
ご飯それ自体も最後に位置する事で、すでに腹は充実しているので、軽く1杯ですむ。
最後のご飯の食べ方は、複数のおかずと交互にする必要はなく、”ぶっかけ飯”的でよい。
単独での”菜”になりにくい納豆なんかが向いている。

こうなると、菜とご飯を交互に繰りかえす”一汁三菜”の基本作法は破壊されるが、
湯漬けという食べ方もあったわけだし、なにより健康の為の食が本来的。
つまり、糖質だけではなく塩分も控えられ、そしてビタミン類の摂取が増える。
和食の栄養学的欠点が、作法(食べ方)の変更によって克服されるのだ。

作法の本意は旧習墨守ではなく、最適化にこそある。
最適な所作こそが作法となるべきなのだ。
ただし作法は価値観の表現・実現化であることから、
和食作法の変更は、稲の崇拝という従来(おそらく弥生時代から)の価値観からの離脱をも意味する。