この秋公開予定だったが、福島原発の事故を受けて、
急きょ公開されている
映画「100000年後の安全」を観てきた。
原発の本質的問題点は、今回のような”事故”ではなく
(水力発電用ダムの決壊事故と同様、それはあってはならない)、
安全に操業を続けた結果の、”放射性廃棄物の処理・管理”の問題であったはず。
原発への態度は、この問題を避けて通れない。
映画はフィンランドに建設中の
(十万年経たないと安全にならない)放射性廃棄物の永久処分場の工事現場の映像と、
関係者のインタビューのみのシンプルなもの。
決して、反原発の主張を声高に叫ぶものではなく、観る者各人に結論を委ねる態度。
だから、この映画を観て、その厳重な管理計画に安心することもありうる。
ただ、一万年後、五万年後の人類の後継者たちに、その保管場所の危険性をどう知らせるか、
その責任は現代のわれわれにある。
その責任をわれわれに背負わせるのが、原発から出る放射性廃棄物である。
急きょ公開されている
映画「100000年後の安全」を観てきた。
原発の本質的問題点は、今回のような”事故”ではなく
(水力発電用ダムの決壊事故と同様、それはあってはならない)、
安全に操業を続けた結果の、”放射性廃棄物の処理・管理”の問題であったはず。
原発への態度は、この問題を避けて通れない。
映画はフィンランドに建設中の
(十万年経たないと安全にならない)放射性廃棄物の永久処分場の工事現場の映像と、
関係者のインタビューのみのシンプルなもの。
決して、反原発の主張を声高に叫ぶものではなく、観る者各人に結論を委ねる態度。
だから、この映画を観て、その厳重な管理計画に安心することもありうる。
ただ、一万年後、五万年後の人類の後継者たちに、その保管場所の危険性をどう知らせるか、
その責任は現代のわれわれにある。
その責任をわれわれに背負わせるのが、原発から出る放射性廃棄物である。