今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

七福神巡りはしご:2024

2024年01月06日 | 東京周辺

正月三が日は意地でも家で過ごすが、それ以降の松の内(4-7日)は、正月気分を味わいながらも、
ナマった体を動かすのにはウォーキングを兼ねた”七福神巡り”が最適。

東京も地元の谷中をはじめとして、各区ごとにあるほどの密集状態なので、むしろ選ぶのに苦労する。
地元に近い谷中(北区・荒川区・台東区)は幾度も巡り(最近はコロナ禍の2021)、
その後は雑司ヶ谷(豊島区・文京区:2022)山手(港区・目黒区:2023)と巡った。

そこで今年は、数ある都内の七福神の中で、紅一点の弁天を基準に、日本橋(中央区)千寿(千住:足立区)が候補に絞られた。
日本橋は、水天宮の弁天が正月5日までと巳の日にのみ開帳。
もう5日を過ぎているが、6日は幸い巳の日。
千寿は、弁天のみが由緒ある石仏(他は七福神巡り用に設置)。
また日本橋は、人形町駅周囲にこじんまりと集まっていて、都内で最も短時間・短距離で回れる。
それって便利だが、言い換えると、ウォーキングとしては物足りない。
千寿も北千住駅から一周で回れる。
そこでまずは日本橋を巡り、日比谷線で人形町から北千住に移動して千寿を巡る、すなわち七福神巡りの”はしご”をすることにした。


自宅からは地下鉄の乗り継ぎの都合で、半蔵門線の水天宮(弁天)が行きやすいので、そこで降りて、地上に出るともうそこは水天宮の脇。
旗を持った他県からの「歩こう会」の団体さんとかちあってしまい、水天宮は一挙に混雑。
なので本殿参拝は諦め、本日開帳日の弁天参拝の列に並ぶ。
金色の弁天様をガラス越しに拝む(写真)。

ここ水天宮は、都内で唯一と言っていいくらい妊婦の帯祝いなどの安産祈願が有名で、
初詣・七福神巡り以外に赤ちゃん連れの参拝客も繰り出してくる。
いわば日本橋界隈で一番混む神社なので、目的の弁天も拝めたことだし、早々に後にする。


大通りを渡って、松尾神社(大黒=大国主)に行くが、小さい神社に参拝客が長蛇の列となってるので、列の外から距離をとって参拝し(願掛けはしないので、これでok)、
社務所で、日本橋七福神の宝船付きの人形セットを買う(5000円)。

七福神巡りの記念品は、それ専用の色紙に参拝先の朱印を7つ集める形式が多いのだが、一部、七福神人形を販売している所もある。
そしてここ日本橋だけは、七福神人形に”宝船”がついたセットを七ヶ所のどこかで買える(水天宮は売り切れ)。
5000円は安くはないが、縁起物だし、今後もずっと飾っておけるので、色紙よりは飾り甲斐があると思い購入する(最下写真)。
実はこれを買うのも日本橋を選んだ理由。

末廣神社(毘沙門天)も長い行列なので、遠方からの参拝で済ませ、笠間稲荷(寿老人)・椙森神社(恵比寿)は、行列が短かったのできちんと参拝。
小網神社(福禄寿)も大混雑なので、遠方から参拝し、最後の茶ノ木神社(布袋)は人が少なく並んで参拝した(ただし布袋の像は見当たらず)。

以上、3ヶ所ほど行列に並ばなかったので、ここまでで約1時間。
はっきり言って、日本橋七福神は、参拝者がキャパを超えている(遠方の歩こう会の団体まで来る始末)。


正午過ぎたので、昼食にそば店を探すが見当たらなかったので(うどん店はあり)、人形町から日比谷線に乗って北千住で降り、駅前の富士そばで腹ごしらえ。

旧日光街道である商店街を北上し、観光案内所で七福神巡りの地図をもらい、千住元氷川神社(大黒天)を参拝。
こちらは日本橋と違って、ほとんど行列がないので、きちんと参拝できる。
また、各神社で担当の七福神の人形(700円)を売っており、全部揃えると4900円になる(7人を乗せる専用の台(≠宝船)も売っている)。


そこから住宅街の路地を北上して、荒川の堤防下を進むと、大川町の氷川神社(布袋)。
ここには、溶岩で造られた立派な富士塚もあって、上部まで上がれる(頂上には立てない:写真は山頂部からの眺め)。
私は富士塚を見ると、立ち入り禁止でない限り、必ず登拝する。
ここの富士塚には本物の富士山と同じく(山腹を一周する)お中道もあり、一人で富士塚の中をぐるぐる回っていると、それを見て他の参拝者も登りにやってくる。

荒川に並行した路地を進んで達した元宿神社(寿老人)では、地元の人がお茶をサービスしてくれる。


ここからしばらく南下して、千住の鎮守である千住神社(恵比寿)に着く。
ここにも富士塚があるが、残念ながらここのは7月1日の山開きの日以外は立ち入りできない(そういう残念な富士塚が多い)。
ここの恵比寿像は、参拝者が手で像を3回して(男は左、女は右=陰陽の原理)、願をかけたい部位をハンカチなどで撫でるという。
なので、一人当たり時間を要するが、混んでないのが幸いで、マイペースでできる。

現日光街道(国道4号)に出て、八幡神社(毘沙門天)を参拝し、道を渡って、大きな狛犬のある稲荷神社(福禄寿)を参拝。


そして最後の仲町の氷川神社は、今までの七福神巡り用石像でない、もともとある弁天の石像を拝める。ここの弁天は江戸時代の作で、二臂でありながら持ち物が琵琶

でなく、八臂弁天が持つ剣と輪(リン)のようで、さらに像の下に三猿(見猿、聞か猿、言わ猿)が彫られている珍しい形態(右写真)。
三猿があることから庚申塔でもあったらしい。

千寿では各所で担当神の人形を売っているが、すでに日本橋七福神の宝船付き人形を手にしている私は、弁天だけ社務所で人形を買う(下写真)。

千寿七福神巡りは約2時間かかった。
ここから旧日光街道の商店街(千住宿)を通って、北千住駅に出て、ここ始発の都バスで自宅に戻った。


以上、七福神巡りをはしごして、宝船付きの七福神人形と、別サイズの弁天人形を得た(右写真)。

ちなみに、今回の七福神はいずれも14の神社で祀られていて、恵比寿以外は神道の神でないから、今の神社は(維新後と違って)異教の神にも寛容になっているといえる(これが神道本来の態度)。
※:大黒・毘沙門・弁天は仏教に取り入れられたヒンズー教の神。布袋は仏教の坊さん(弥勒菩薩とも)。福禄寿と寿老人は道教の神。これらに神道の恵比寿を加えた「七福神」はアジアの多神教を融合した”メタ多神教”を実現している。七福神こそ、不寛容な一神教に対抗する宗教融合の象徴であり具現である。


西鎌倉の寺社参り:大仏、長谷…

2023年12月03日 | 東京周辺

東鎌倉、北鎌倉と訪れたので、今回は西鎌倉の番(「北鎌倉」以外は私が勝手に呼称)。
鎌倉の中心軸を鶴岡八幡宮・若宮大路・鎌倉駅のラインとすると、その西側は江ノ電沿線であり、鎌倉大仏と長谷観音、そして極楽寺がある。

私が鎌倉を最初に訪れたのは小学校低学年時の家族日帰り旅行で、記憶にあるのは、鶴岡八幡宮、大仏、長谷観音の3つ。
大仏と長谷観音は、寺格で言えば北鎌倉の建長・円覚両寺に劣るものの、観光スポットとしてはむしろこちらの方が有名。
とりわけ鎌倉大仏は、鎌倉唯一の国宝仏であり、”大仏”としての知名度と美的価値の高さでは、奈良東大寺の大仏に次ぐ位置にある。
その意味で、「鎌倉といえばまずは大仏」と言って差し支えない。


鎌倉駅で混雑している江ノ電に乗り換え、3つ目の「長谷」で下車。

踏切を渡って、観光客の列が続く狭い道路を北上する。
このあたりの外食店は「しらす丼」(しらすは相模湾で採れる)がメインなので、私もいつもの”駅そば”や五目焼きそばではなく、ここではしらす丼を昼食としたい。
店に入って、「生しらす丼」にするか「釜揚げしらす丼」にするか迷ったが、日本人にありがちな生食嗜好よりも、私はリスク回避を優先することから後者を選ぶ。
※:もちろん生食による食中毒のリスク。
ご飯の上にどっさり盛られた釜揚げしらすに満足。


さて、大勢の観光客に混じって高徳院の入り口で拝観料を払い(300円)、晴天の下、露座の大仏と対面。
もちろん小学校以降幾度も訪れているが、いつ見ても絵になる、というより誰が撮っても絵葉書的な絵になりすぎ(写真)。
せっかくなので久しぶりに胎内にも入る(50円)。
胎内の内側から見ると、750年前の製造とは思えぬ精巧な工法に改めて驚嘆する(関東大震災で損傷し修復済)。

大仏(阿弥陀如来)の御姿を購入。
また大仏のミニチュアも複数パターン販売されているが、私が小学校の時に土産物屋で買って今でも持っているそれ(最小サイズ)に比べて、造りのレベルが明らかに劣化している。
いくら仏像フィギュアが好きな私でも、レベルが低すぎて買う気になれない(これらよりハイレベルな鎌倉大仏ミニチュアをすでに3体持っているし)。
たかが土産といえど、なぜこうも造りが劣化してしまったのか(中国製の精巧な仏像フィギュアを好んで集めている身からすれば、”中国製”は言い訳にならない)


来た道を戻って、右折して長谷観音こと鎌倉長谷寺に向かう。
門前はちょっとした門前町を形成しており、土産物屋に並んで文化財級の木造老舗旅館もある。

400円の拝観料(Suicaなど可)を払い、石段を登った高台の阿弥陀堂には、中尊の阿弥陀如来の脇に、私が好きな真新しい金色の如意輪観音像もある。
堂内には西洋人女性が一人静かに腰掛けていた。

その横に並ぶ本堂の大きな長谷観音(十一面観音)を見上げ、本堂横の観音ミュージアム(収蔵庫)に入る(300円)。
前立観音とその三十三応現身像がなどがあり(撮影可)、特に観音は江戸期の作にしては造形が精巧(写真)。

高台の境内からは、由比ヶ浜海岸が見渡せる。
石段下の弁天窟に入って、弁天様に供える願掛け用の米でできた硬い餅状の弁天像を購入し(300円)、私は願掛けはしないので持ち帰って、自宅の弁天様(妖艶な中国製)の前に供えた。


長谷観音からさらに西に進み、御霊神社に達する。
本殿周囲には庚申塔や御嶽(おんたけ)信仰の石碑、海から持ってきた霊石を祀る石上神社もあるのだが、境内は撮影禁止となっていて、御霊神社なので霊障を恐れて撮影はしなかった。

ここからさらに西に向かい、虚空蔵菩薩が祀られている無人のお堂に立ち寄り、さらに極楽寺切り通し上にある成就院にも立ち寄る。
坂の上にある門前から振り返ると、由比ヶ浜海岸が見下ろせる(写真)。
鎌倉のほとんどの寺社を訪れた私でも御霊神社からここまでは初めて。


切り通しを下って、江ノ電の極楽寺駅を過ぎると極楽寺に達する。
潜り戸から境内に入れるが、残念ながら宝物館は閉館していた。
極楽寺は、鎌倉では一二を争う仏像の宝庫で、ここが一番楽しみだったのだが、それが見事に叶わなかった。
掲示によると、宝物の公開は春(4末〜5月4週)と秋(10末〜11月4週)の2季に限定され、しかもその期間中の火・木・土・日のみで、しかも雨天は休み。
今年の秋の公開は先月でおしまい。
事前に確認すべきだった。
本堂に参拝したほかは大師堂の如意輪観音を拝み、トイレを借りただけ。

寺の近くにある導地蔵は、堂内に安置されていて室町時代の作なのに保存状態がいい(こういう路傍の仏像もそれなりの質に達しているのはさすが鎌倉)。

極楽寺の仏像を見れたなら、次はいよいよ最後の”南鎌倉”に、と思っていたのだが、極楽寺に再訪(リベンジ)することを誓って、門前にある江ノ電の駅から鎌倉に戻った。


戸田市郷土博物館を見学

2023年11月13日 | 東京周辺

昨日、雨上がりで1桁の気温に下がった中、埼玉県戸田市の郷土博物館を見学した。

戸田市は、荒川を挟んで東京と接する所だが、東隣の川口市が、鋳物・キューポラ、あるいは御成街道の宿場(鳩ヶ谷)で特色あるのに対し(→鳩ヶ谷の博物館)、
1985年に埼京線が開通するまでは東京からの鉄路がなく、一部の人が国道17号(中山道)で通過するだけで(中山道の宿場は戸田にはなく隣の蕨)、知られているのは唯一、東京オリンピックで使われたボート場(競艇も)がある事くらいで、
かように、東京に隣接している割に存在感に乏しい(それって、埼玉そのものに言える?)

そんな戸田市にも郷土博物館があるので、全く知らない戸田市を学ぶべく、そこを目指した。

埼京線の戸田駅で降りると、新興住宅地の駅前は広いロータリー状になっていて、その周囲にサイゼリアと日高屋がある。
まずは見学前の腹ごしらえということで、どちらにしようか迷ったが、ここは埼玉が地元の日高屋にする(かた焼きそば)。

駅前から徒歩10分弱で戸田市立図書館の立派な建物内の郷土博物館に達する(写真)。
入館料は無料で、新興住宅地で競艇もあるので市の財政は豊かなんだろう。

フロアを左から一周するようになっていて、まずは縄文前期の土器と縄文人(6000年前)の頭蓋骨から。
これらについては、スマホアプリ「ポケット学芸員」で説明が聞けるが、館内はフリーのネット環境がないので、
アプリが入っている私のタブレットでは利用できなかった。

もっとも帰宅後に確認したところ、アプリでの説明は、館内の説明文と同じだった。

ほとんど知らない戸田市だが、縄文時代から人は住んでいたようだ。
それに続いて弥生式土器と古墳時代の埴輪が並ぶ(市内に墳墓のある遺跡もちゃんとある)。
地元出土のオリジナル埴輪を見るのはいつも楽しい(写真)。

中世は案の定、板碑(中世南関東に特有)が並ぶが、印象に残ったのは、古代から中世にかけて、愛知の猿投(さなげ:瀬戸焼の前身)や常滑の焼き物がこの地にも流布していたことで、現代まで続く愛知の陶器の生産・流通力に(半・愛知県人として)今更ながら感心した。

近世になると、中山道の”戸田の渡し”が重要ポイントとなり、この渡しを中心に、荒川での水運業が、また漁業も盛んだったようだ(荒川氾濫による水害にも悩まされた)。

近代以降は、東京のベッドタウンとしての発展とボート場と戸田橋の架け替えによる発展が示されている。

同じ階の別室には、所蔵絵画展が催されていて(〜11/19)、”浦和画家”という関東大震災後、浦和に集まった画家たちの作品などが展示されていた。

図書館入口のミュージアムショップコーナーには、過去の特別展のパンフや地元民俗芸能の研究書、学芸員の研究紀要なども販売されていた
(申し訳ないが戸田市の民俗芸能には関心がない。民話集だったら地域を問わず購入した)。
私が各地の郷土博物館を応援するのは、そこで働く学芸員の活動を応援したいからでもある。
歴史学や考古学を大学・大学院で学んだ人たちにとっての数少ない専門職である学芸員の活躍を、
微力ながら一入館者となって応援したいのだ(人類は、文化面においても情報・知識の高度化方向に進んでほしい)。

さらにここには戸田市の散歩コースの地図と埼玉県の博物館の一覧マップがあった。
前者はこの後のお寺巡り(妙顕寺、観音寺)に使い、後者は今後の郷土博物館巡りのありがたい参考にする。


建長・円覚寺の宝物風入れ

2023年11月05日 | 東京周辺

鎌倉の2大名刹である建長寺・円覚寺の宝物(ほうもつ)の「風入れ」(一般公開)が毎年この時期に開催される。
両寺を拝観するならこの時がベスト。
もっとも、過去の宝物ばかりで(新しいものはなく)、しかも美術的にすごい物があるわけではないので(国宝・重文は幾つかある)、毎年訪れるほどではないが、
東京都内でこの時期開催中の「文化財ウィーク」に比べれば、歴史的・美的に価値が高いものばかり。

私にとっては、2015年以来の8年ぶりの訪問となる(→前回記事)。
今回は、半袖のポロシャツ姿で。


横須賀線の「北鎌倉」で降りるとそこはもう円覚寺の門前。
拝観料は、宝物公開ながら通常通りの500円(建長寺も)。
山門をくぐった左横の十王堂には、閻魔様をはじめとする十王が並んでいる。
その北(奥)の選仏場も開いていて、仏様を拝める。
仏殿の宝冠釈迦如来を拝むが、はっきり言って、両寺とも寺格の割には本尊の美術的価値が低いのが残念。
ここから方丈に向かって境内を歩くと、外国人を含めた拝観者が大勢いるのに、境内がすごく静か。
物音一つしない。
人の声も足音もその他の騒音も一切ないのだ。
禅寺の雰囲気をこのように"無音"として感じることができた。

風入れの宝物展示場になっている方丈に上がり、羅漢などの仏画や頂相(ちんぞう)を見学。
方丈の裏には池のある庭園が広がるが、周囲の木々が紅葉していないのが残念。
境内最奥の黄梅院に足を延ばし、小さなお堂の聖観音を拝観(写真)。
こういう何気ない仏像も、それなりに洗練された造りなのはさすが鎌倉(所謂”地方”的ではない)。
隣の立ち入り禁止の続燈庵の門には野生のリスがいた。

前回見学した佛日庵は素通りするも、国宝建築の舎利殿は素通りするわけにはいかない(+300円)
今回は、隣の建物で舎利殿の詳しい建築解説のビデオを視聴でき、その後に中には入れない舎利殿と内部の仏像を眺める(8年前と同じ)。
円覚寺だけで2時間費やしたので、急いで建長寺に向かう。


建長寺も、仏殿法堂内の諸仏を拝観し、真新しい大庫裡に上がって宝物を見学。
ここも方丈の裏に庭園があるが、やはり紅葉の時期(11月下旬)がベストシーズンと思った(緑の中の赤は補色対比ですこぶる映える)。

建長寺は、最奥の半僧坊以外の塔頭(たっちゅう)は見学できないので、1時間あまりでここを後にし、巨福呂坂を下って、鶴岡八幡宮に横道から入る。


参拝者が大勢いる拝殿の前で、私だけが大きな柏手の音を響かす。→神社参拝のコツ
八幡宮の宝物館(200円)を見学し、授与所で静御前の土人形(写真:1000円)を買う。
神社ではお札の代わりに、こういう神社ゆかりの人形があったら買うことにしている。

そして境内にある鎌倉市立鎌倉国宝館に入る(700円)
ここは小さいながら、鎌倉周辺の仏像が多数展示されているので、鎌倉で仏像を見たければ外せない(鎌倉彫刻の代表作・円応寺の初江王は寺になくここに展示)。
なのでここも今日の目的地の1つだった。

ここの常設展示(鎌倉の仏像)は、スマホからQRリンクで展示の音声解説が聞ける(要イヤホン持参)。
特別展は、県内国府津の宝金剛寺の本尊を含む寺宝の展示だった。

以上、鎌倉中心部の宝物見学をはしごした。
西鎌倉(大仏・長谷観音)


二子玉の玉川大師

2023年10月01日 | 東京周辺

10月1日(都民の日)を迎えたが、まだ暑くて山に行く気になれない(汗びっしょりになる)ので、近場の行き先を探していたら、二子玉(にこたま)にある玉川大師・玉眞院は地下洞窟の仏像群で有名なことを失念していたことに気づいた。
より正しくは、行った気になっていたが、訪問先の映像記録・記憶が全くなく、実際には行っていないという結論になった(かくも人間の記憶っていい加減)。
すなわち、都内の仏像探索の寺の中で行き忘れていた。


田園都市線の二子玉川(ふたごたまがわ)で降りるのは、この地から多摩川に注ぐ野川を歩いた時以来(→野川を歩く1)。
ここは世田谷区の西南端で東京23区の端っこという”場末の地”だったが、再開発が進んでむしろこのあたりの中心地に変貌した所。

まずは腹ごしらえと、事前に「二子玉川 ランチ」で検索したら、1000円越すおしゃれな店ばかり。
その中で1000円切る五目焼きそばがある町中華を目指して駅前のビルを通り抜ける。
※:私の選択肢からラーメンが消えて久しい

古い商店街に出たところにあるその店には少なくない人数の行列が。
やっぱり地元民はこういう所に並ぶんだ。
だがそのため私は昼食にありつけず、かといって商店街の店で昼時にガラガラの店に入るのも気が引ける。
店を探して歩いているうちに、玉川大師に着いてしまった(写真)。


靴を脱いで堂内に上がり、中の人に言われるままに、本堂内陣に沿って歩いて薄暗い中、本尊(大日如来)や不動明王などを拝む。
そして地下霊場の説明書きを読んで、500円払って、サンダルに履きかえて、暗い階段を降りる。
この地下霊場は、大日如来の胎内であり曼荼羅でもあるという。
中は文字通り”真っ暗”で、善光寺の戒壇巡りを思い出す。
右手で壁に触って、それに沿って暗闇を進む(幸い天井は高いようで頭をぶつける心配はない)。
やがて、薄明かりの空間に達し、そこからは、四国八十八ヶ所と西国三十三ヶ所の霊場を示す弘法大師像・観音像を中心とした石仏群がひしめく。
それぞれの石像の前にはリンやガンモモがあるので、適当に間を開けてそれを鳴らす。
ある場所では、釈迦の大きな涅槃像があり、天井もしっかり模様が彫ってある。
自宅にもある愛染明王や吉祥天像の前では覚えている印を結んで真言を唱えた。

最後に階段を上がって本堂に出る。

洞窟内は撮影禁止なので、堂外に出てカメラ(ライカ!)のシャッターを押したら、知らぬ間に考えられない設定になっていた(どこかのボタンの押し間違い程度でなる設定ではない)。
考えられない設定なので、その設定を解除する手順がわからない。
※:シャッターを押すとピント調整しながらの動画撮影になってしまう。もちろん通常の動画撮影のボタンは別にある。ここに揚げた写真はアプリでその動画から静止画にしたもの。

デジカメを含む電子機器は霊がいたずらをするという(霊は電磁波として存在しているためらしい)。
私は、かように寺とかをよく巡るので、そういう機会に遭いやすいのかもしれない。→文末の追記参照


そのカメラのまま、地元鎮守の瀬田玉川神社を参拝し、隣の慈眼寺はに行くと山門の四天王像が現代芸術家の作品だった。
そこからスマホのナビを「静嘉堂文庫」に合わせて、その指示通りに住宅街を進む。

そしたら「旧小坂家住宅」という公園風の所に出たので、寄り道して中に入ると、立派な民家があり、ご自由にお入りくださいと書いてある。
玄関の扉を開けると、中から私よりやや年上そうな女性が出てきて、屋内を説明するという。
それに甘えて、靴を脱いでまずは和室の居間で説明を受ける。

この家は、小坂順造という長野市出身の実業家の別荘で(本宅は都心)、高台から多摩川と富士を望む景勝の地で、建物自体も和洋折衷で意匠を尽くしている(区指定有形文化財)。
順造の3人の息子(善太郎、善次郎、徳三郎)はいずれも政治家となり(大臣経験)、長女は美濃部亮吉元東京都知事の妻となった(後に離婚)。
※:コメントの指摘を受けて訂正。そもそもこの三男がここを地盤に議員になり、運輸大臣にまで登り詰めた。

敷地には土地の高低を生かした回遊式の庭園もあり、今は区が管理して案内付きながら無料だが、庭を整備すれば入場料を取ってもいい所だ(世田谷にはこういう邸宅が多そう)。

ただそこの人がいうには、今は静嘉堂文庫は閉まっており、公園自体も日曜は入れないという。
それを聞いて静嘉堂に行くことは諦め、ナビを二子玉川駅に変更した。


駅周辺であらためてランチの店を探したが、私が求める駅そば・町中華レベルの店(1000円未満の単品で済ませられる)がなく、諦めて帰ろうと田園都市線の改札に入ると、なんと改札内に「渋そば」を発見。
「渋そば」は渋谷駅で必ず利用した駅そば。
なるほど渋谷から出る東急線沿線は「渋そば」があるのか。
※:小田急線沿線は「箱根そば」。京王線沿線は「深大寺そば」に統一してほしい。
迷わず店に入り、ちくわ・かき揚げのW天そばを注文。
ここの存在を知っていたら、往きの改札を出る前に寄っていたのに。

これで安心して今後も二子玉に来れる。

おっと、その前にカメラの設定を直さなくては(→とりあえず「初期設定に戻す」メニューを選んだ)。
追記:改めてカメラを見直したら、本体上面に押したことのない小さなボタンがあり、それを押すと上記の設定になっていた。要するに無自覚での操作であって、霊の仕業ではなかった。


柴又に行く:帝釈・寅・矢切

2023年09月10日 | 東京周辺

台風崩れの低気圧が去って、夏に戻った感のある日曜。
低山に行くにはまだ暑いので、都内の博物館見学でもしようかと、行くあてを探した。

23区内から候補にあがったのは葛飾区にある「葛飾柴又寅さん記念館」。

普段なら、今更”寅さん”でもないし…となるのだが、たまたま就寝前のビデオ鑑賞で「男はつらいよ」第1話を見たばかり。
今なら、寅さんが頭の中にいる。

それに加えて、寺巡りの対象となる柴又帝釈天(日蓮宗)は、柴又七福神の1つで毘沙門天を祀っているという。
1つ前の記事にあるように、我が部屋に毘沙門天をお迎えしたばかりなので、これはいい機会。
こういう機会の”巡り合わせ”(共時性)は易学的に意味がありそうなので、大切にしたい。


ということで、京成線に乗って高砂で乗り換え、1つ先の柴又駅で降りる。
駅構内が撮影に使われたので、もう駅のホームから「寅さん」の存在感があり、
改札を出た駅前には、旅立とうとする寅さん(渥美清)と彼を見送る妹さくら(倍賞千恵子)の銅像が距離を置いて立っている(写真)。
まさに二人の別離のロケシーンに遭遇しているかのよう(寅さんは永遠に旅立ってしまった)

観光マップを入手し、帝釈天の参道に入る手前で、左にずれて、町中華で五目焼きそばを食べる(800円)。
参道には、映画にちなんだ名物的な定食を出す店などがあるのだが、定食は私には量が多すぎる。
むしろ訪問地の町中華で五目焼きそばを食べるのが、私なりの楽しみなのだ(微妙に具材が異なる)。

映画にも出てくる参道(団子屋の「とらや」も健在)は、それなりに観光客で賑わっている。
なにしろ、この界隈は国の「重要文化的景観」に都内で最初に選ばれた地で、観光に値する。


参道を越えてまずは帝釈天(題経寺)にお参り。
帝釈堂内に上がれて、厨子に収まった帝釈天を拝む(ここにも神社式の二拍手をする人がいた)
堂外壁の木彫と和風庭園が有料で見学できるというので400円払って見学した。
堂の外周に彫られた木彫は、昭和初期の地元の彫刻家たちによるもので、法華経のシーンをかなり精巧に描いている(写真はその1つで「長者宅の火災」)。
堂の外壁をすっぽり覆う保存措置がされており、いずれ100年もすれば自治体レベルの文化財になろう。
庭園には降りれないが、渡り廊下で一周できる。

御朱印はあるが御影は販売されてなかった。


寺を出て、江戸川に向かって歩いて、山本亭という古民家(カフェ)を通り抜け、公園内の寅さん記念館に入る(500円)。
まずは寅さんの生い立ちの立体紙芝居があり、先に進むといよいよ映画の世界となって、「とらや」の店部分と内側の居間、そこから続く裏庭そして隣のタコ社長経営の印刷所のセットが続く。
これらは実際に撮影に使われたセットで、この記念館に保存されているのだ。
第1話と第2話を見たばかりなので、とらやの居間にある階段(写真:寅さんが上がるときに梁に頭を数回ぶつけた)が気になり、階段の上を覗くと、階段の上がった所まであり、その先の2階部分はなかった。

印刷所のセットでは、当時の活版印刷の設備があり、我が家にも昔、同じ金属製の活字を使うタイプライターがあったのを思い出した。

柴又の街並みさらに柴又駅の再現の所で、現在の京成金町線(高砂と金町を結ぶ)が、間にあるのが柴又駅1つだけのやけに短い支線で、さらに高砂で乗り換える時、同じ会社の支線なのに、他社の線に乗り換えるような改札を2回通る理由がわかった。
この線は、元は帝釈天の庚申の日の参詣用に作られた「帝釈人車鉄道」という人力の鉄路で、ロープウェイの箱程度の車両(6-10人)を人が後ろから押すのだ(明治32年)。
そのジオラマと復元された車両も展示してある。
それが後年、京成電鉄の支線として吸収されたわけである。

実に柴又は帝釈天によって成り立っていた所で、境内には湧水もあって、「帝釈天で産湯を使い」ということは住民にも恩恵があったのだろう。
あと監督の山田洋次ミュージアムが別空間にある。


記念館を出て、同じ公園続きの江戸川の堤防に進む。
「男はつらいよ」のシーンは江戸川の堤防上を歩く寅さんで始まる。
寅さんが旅先から帰ってくる時、まずはここを歩いて、じっくり地元の風景・匂いを味わいたい、という気持ちはよくわかる。

その堤防の先、江戸川に「矢切の渡し」が今でも営業している。
寅さんが旅立つ時、この矢切の渡しの舟に乗って柴又を後にするシーンが第1話にあるが、現実には向こう岸は千葉県市川市の畑で旅のルートになる場所ではない(柴又駅に向かう方が現実的)。
でも絵になるシーンだったので、ぜひ渡し舟に乗ってみたい(一人200円)。
今ではモーター付きの渡し舟なので、直線で対岸に向かえばあっという間なのだが、そこはあえてS字状に進んでくれて、川の風景を味わえる(写真)。
江戸川は両岸に護岸壁がなく、自然状態になっているのがまたいい。

舟が進む川面には、遠目に見て数十センチはある魚があちこちで飛び跳ねる。
船頭に尋ねると、ボラだという。
魚ながら、水中から外(空中)に超出したいと志向する種の中から、我々の先祖たる陸生動物が誕生したのだ。

舟が対岸(千葉県)に着いたのでとりあえず降りるが、畑の中ですることもないので、また次の便で戻る(すなわち往復400円。営業時間内に客がいるタイミングで出る)。
川を渡るだけの短い舟旅だが、こうして人が歩けない水面を移動するのも、貴重な経験をした感じで楽しい(川や湖の舟巡りも趣味にしたいと思っている)。


往路を戻り、途中参道の店で団子を土産に買い、柴又駅に戻った。
今夜も「男はつらいよ」を観ることにしよう。


大口真神式年祭に参列

2023年04月29日 | 東京周辺

武州御岳山(920m)の頂上にある御嶽神社(東京都青梅市)は、狼を「大口真神(おおくちまがみ)という御神体として祀り、その信仰圏は関東一円に広がっている(写真:右の樹木のある山が御嶽神社のある御岳山。左の鋭峰が奥の院。2006年日の出山より撮影)。
※:御嶽神社そのものの公式な祭神は記紀神話系だが、本殿奥の最奥に大口真神社がある。

昨年6月にここを訪れた折り、今年の4月15日から5月21日まで「大口真神式年祭」が開催されると知り、楽しみにしていた。→記事

その神社で販売していた書籍『オオカミの護符』(小倉美恵子)、『オオカミは大神』(青柳健二)を買って読み、御嶽神社と秩父の三峯神社を2大中心として関東山地周辺に広がる狼(ニホンオオカミ)信仰への興味に火がついたから。

もっとも、元は高校生の時、西多摩にある全寮制の高校近くの畑に立っていた黒い狼が描かれた大口真神のお札を見た時が興味の始まりだった。

御岳山は都内では高尾山と並ぶ山岳信仰の聖地で、高尾山がそうであるように、御岳山も修験道の影響を受けてはいるが(昨年の記事はこちらの視点)、この狼信仰は修験道とは別個のオリジナルな信仰である点で注目に値する。
山岳信仰において非修験要素が強いのは珍しく、そういうわけで、この時期(GW)に限って大口真神像を拝観できる式年祭に、是非参列したくなったわけだ。

 今年の長いGWも天気がいいのは4月30日くらいしかないようなので、名古屋から帰った翌30日に早速、早起きして御岳山に行くことにした。

昨年同様8時頃に家を出て、新宿・青梅で乗り換えてJR御嶽駅に着く。
そこからバスとケーブルカーを乗り継いで、山上の歩道で御師(おし)の家々の軒先を通り、最後に長い石段を上ると(階段でない女坂があるのを失念)、御嶽神社に11時開始の部に間に合うタイミングで到着。

参列料2000円を払って、式年祭のお札(参加証代わり)と宝物殿の拝観券をもらう。
社殿隣の信徒待合室に行くと、参加者は私を含めての4人(参列希望者が行列を作っていたらどうしようという心配は杞憂だった)。
案内に従い、建物内の地下をくぐって、拝殿内に座る。

神官が二人出てきて、太鼓が強く打たれ、また我々参列者が頭を下げ(揖という姿勢)、神官の修祓を受ける。
そして拝殿奥の本殿に向かって神官が「おー」と狼の遠吠えのような発声の警蹕(けいひつ)とともに、階段を作法通り(一段ずつ両足になって)上って本殿の扉が開かれる(その間、参列者は揖の姿勢のまま)。
※:小倉美恵子氏の表現

神官と共に参列者も二拝二拍手一拝の拝礼をし、その後拝殿内を進んで、その先端で階段の上にある扉が開かれた本殿を仰ぎ見る。
そこには3体の「おいぬ様」(オオカミ像)がそれぞれ作りも色も異なって並んでいる。
普段は固く閉じられている扉内の、この大口真神像を拝観することが参列した目的。
その場で賽銭を投じて、改めて大口真神像に直接拝礼をする。

拝殿の席に戻り、ついで「おー」という警蹕とともに扉が閉められ、太鼓がなって、最後は神官のお言葉で終わる(締めて25分)。
こういう儀式に参列することにこそ意味がある。
とりわけ神道では、神とのコンタクトが宗教経験としての全てで、それだけで心が浄化される(教義などの理屈は不要)。

終了後は、本殿奥の大口真神社(写真は、狛犬の代わりの狼の石像)、さらに御岳山信仰の本体といえる奥の院(男具那峰1073m)を遥拝し、宝物殿を見て、参道沿いの店で名物の蕎麦を食べた。

下りはケーブルを使わず、舗装されたつづら折の坂道を降りた。
この下りで、前回は慣れない靴のため足を痛めたが、靴が足に馴染んだ今回はスタスタ降りれた。
御嶽駅前で名物の刺身こんにゃくと地元産の山葵を買って、今晩の肴にする(こんにゃくをわさび醤油につけて食べる)。


北区飛鳥山博物館再訪

2023年03月30日 | 東京周辺

すでに散り始めている今年の桜を見逃すまいと、江戸時代からの桜の名所である北区王子にある飛鳥山(あすかやま)公園に行った。
王子には飛鳥山公園の北を流れる音無川も桜の名所で、いわば山と谷の両方の桜を鑑賞できる。

王子に行った時は、音無川沿いの中華飯点で五目焼きそばを食べるのだが、
あいにく定休日のため、チェーン店でない駅そば「王子そば」でゲソ天そばを食べる。

飛鳥山に登る無料パークレール「アスカルゴ」は乗りたい人たちの長蛇の行列なので、徒歩で登る。
山上の桜は葉桜になりかけているが、コロナ禍から解放された人々が、桜の木の下にゴザを敷いて飲み食いを楽しんでいる(写真)。
こういう規制なく花見の宴を楽しめる情景はいいものだ。
さらにここには子供用の広場もあるので、若い家族連れも多い。

この公園内に博物館が3棟あり、その1つが郷土博物館である北区飛鳥山博物館(他は紙の博物館と渋沢史料館)。

以前にも訪れたが、最近始めた”郷土博物館巡り”の目線で改めて見学する(高齢者割で150円)。
ここは建物が新しく、また設計も洗練されていて、例えば階下に降りる階段も微妙に湾曲して、歩くにつれて視界が垂直だけでなく水平にも展開する。

北区では旧石器時代の展示は3万年前からで、昨日の松戸より5000年古い。
南関東の海岸線の遷移がきちんと説明されていて、北区に限定されない背景的知識をもとに展示を見ることができる
※:郷土博物館は、地元についての地質学・考古学・歴史学・生態学などの学術的情報をわかりやすく教示する教育施設だ。自治体の意気込みや学芸員の力量の発揮の場でもある。

北区は武蔵野台地と古東京湾だった東部低地の境界(京浜東北線)を跨いでいるため、原始時代から人が住んでいて、厚さ4mにもなる日本最大級の中里貝塚があり、その剥ぎ取り標本が展示されている(右写真の右上)。
説明によると、貝塚は単なる食べ残した貝殻などのゴミ捨て場ではなく、命あったものたちの埋葬の場でもあったらしい。

その貝塚で発掘された縄文人の全身骨格が展示されており(写真の中央上。縄文人は上の前歯が前に出ずに、下の前歯とぶつかっているのが特徴)、説明によると同じ場所から胎児の骨も埋葬されていたという(昨日の松戸は幼児だったが、こっちは胎児)。
また地元で発掘された全身の土偶が展示されているのも、豊かな縄文文化が広がった関東ならではか。

続く弥生時代は、東日本のたいていの博物館では、縄文時代と古墳時代の”つなぎ”のサラッとした展示で終わるが、ここは縄文時代に匹敵するくらいに充実していて、弥生時代では集落ごとの争いがあったとして、その争いの再現映像が弥生時代の住居の中から覗ける仕組みになっている。

古墳時代の地元発掘の埴輪も展示され、律令時代には北区は武蔵国豊島郡の郡衙が置かれたため、米倉である”正倉”の実物大の復元など、郡衙についての展示がある(国衙や郡衙でない所はこの時代の展示が乏しい)。
そこに掲示されていた律令時代の武蔵国内の郡の分布図を見ると、当時の郡境が現在の東京都境になっていることがわかる。
すなわち明治の廃藩置県は、試行錯誤の結果、結局は古代の郡境を復活させたわけだ。

平安末になると秩父平氏系の豊島氏がこの地を支配し、室町末に太田道灌によって滅ぼされるまで、ずっとこの地の主人であったので、中世の展示は豊島氏が中心となる。
かように歴史的に見て、北区こそ本来は「豊島区」を名乗るべきなのだ(北区内に豊島という地名も残っている。そもそも東京23区で単なる方位の区名は北区だけ)。

江戸時代になると、将軍吉宗がこの地を気に入り、桜の名所とさせた(なので、ここは江戸時代から桜の花見のメッカ)。
その様子を示す映像を復元された御座所で腰掛けて見ることができる。
さらに区の北辺を流れる荒川の生態や洪水を前提とした生活形態の展示もある。

別の階では、この地に暮らしていたドナルド・キーンの企画展をやっていた。

かように、ここは周囲の区立博物館より設備も展示も充実している。
また、今でこそ北区一の繁華街は赤羽だが、訪れる先が多いのはむしろここ王子だ。


松戸市立博物館を見学

2023年03月29日 | 東京周辺

春休みも押し詰まった3月29日、昨日の雨天で延期した、千葉の松戸に行く。

東京から川を渡った先にある松戸は、意外に名所旧跡が多いことを痛感したので(→松戸の名所巡り)、ここの市立博物館も期待したい。

まず馬橋にある萬満寺の重要文化財の仁王の股潜りができる期間というので行ってみたら、
その様子は微塵もなかった。
虚しく松戸に引き返して、新京成に乗り換えて、霊園※で有名な「八柱」で降りる。
※:母方の祖父母の墓がここにあった頃(その後移転),数回墓参に行ったことがある。

ここからバスに乗って2つ目の「森のホール21」で降りると、緑豊かな公園内の博物館が目の前。
新しい建物に入り、入館料310円払って、スロープ伝いに2階の総合展示フロアに行く。
平日ながら春休み中なのだが、客は私一人。
その一人の見学客のために、館内の複数箇所に係員が着席する。

展示は、2万年以上昔の旧石器時代から始まる。
松戸は古東京湾に面した台地末端なので、原始の大昔から人が住んでいたわけだ。

そして縄文時代も各期ごとに土器類が展示され、集落のジオラマでは竪穴式住居の設置過程などさまざまな暮らしぶりがビデオ解説される。
石器の材料が関東一円(さらに島嶼、信越)から渡ってきて、幅広い交流が伺われる。

縄文に続く弥生・古墳時代の遺跡も多く、河原塚1号墳の埋葬者(50代男性とその孫らしき3歳男児)のリアルな復元模型は、埋葬時を蘇らせるようで心に刺さる。

ここまでの考古学展示はそれなりに豊かなのだが、次の律令制以降〜平安時代となると、
途端に情報が少なくなるのは、関東の郷土博物館共通の傾向。
それすなわち、古代の”都”中心主義は今の東京中心主義の比ではなく、
平安京にとっては、関東などの地方は公私にわたる植民地でしかなかったためだ。
都に住む為政者・貴族は植民地からの上がりを頼りに権謀術数と宮廷恋愛にうつつを抜かしていた。
それに風穴を開けたのが関東の鎌倉幕府。
武家政権になって、関東だけでなく、日本各地の開発が進む。
松戸も幕府を支えた御家人・千葉氏によって開発が進み、また同じ千葉(安房)出身の日蓮も新しい教えを広げていく。
以前訪れた小金城の復元模型もある。

江戸時代は、水戸街道の宿場(松戸、小金)となり、また周囲に小金牧という馬の牧場が広がり、
将軍臨席の大規模な鹿(しし)狩(勢子の動員10万人)が行なわれた。

明治以降の展示は簡単にまとめられているが、昭和30年代にできた常盤平団地の一世帯の実物展示が、
当時の”新しさ”を思い出される(よくある”ノスタルジックな昭和30年代”とは異なる雰囲気)。

別棟の「主題展示」スペースに行くと、虚無僧寺一月寺の展示があり、
虚無僧の像や尺八の展示がある(右図はそこに展示されていた江戸時代の一月寺門前の絵。中央の二人が虚無僧(『風俗画報』より))。
私は大学時代、ずっと尺八をやっていて学園祭などに演奏していた(余興で虚無僧の格好をしたこともある)。
その頃の知識では虚無僧が所属していた普化宗の本山は京都の明暗寺だと思っていが、
実はここ松戸の一月寺と東京青梅の鈴法寺が二大本山だと知った。
展示には一月寺の虚無僧についての文書や普化禅師の木像もある。
これらを見ている間、頭の中で久々に尺八の音が響く。

普化宗は明治政府によって廃止させられ、上の両寺とも廃寺となったが、
一月寺は日蓮正宗になって現存しているようだ。

隣の展示室は、二十世紀梨について。
なんでもあの二十世紀梨は松戸で誕生したとのこと。
しかも今でも千葉は梨の第一の産地だという。

以上で1時間半。
至極ローカルな市立博物館だが、それなりに充実した展示で、
ビデオ解説などを使って情報量を増やす工夫が良かった(文字や静止画よりわかりやすい)。
帰りは八柱駅まで、桜並木を歩いた。


水戸に行く

2023年03月05日 | 東京周辺

3月に入り、ようやく春らしくなった日曜。
といっても曇天の予報なので山は遠慮しておこう。
天気が悪くても1日を有意義に費やせるのは県立博物館。
そう、県立レベルだと展示が豊富で館内だけで2-3時間過ごせる。
これに近くの市立博物館を合わせれば、もうお腹いっぱいとなる。

ということで、18きっぷを使って高崎にある群馬県立博物館に行こうと思ったら、なんとしばらく閉館中とのこと(事前にネットで確認しておいてよかった)。
急いで行き先を変えて水戸にある茨城県立歴史館に変更した。
いわゆる郷土博物館には、自然系と歴史・民俗系があり、大抵は1つの建物に収まっているが、関東では埼玉県と茨城県は自然系と歴史・民俗系がそれぞれ別個の博物館となっている。

関東で生まれ育った私だが、茨城県庁所在地の水戸には、降りたことがない。
歴史好きなのに、水戸徳川家には関心がなく(むしろ拒否感)、戦国の佐竹氏も奥に引っ込んでいるだけでパッとしないこともあって、水戸に行く用事がなかった。


常磐線で土浦で水戸行きに乗り換えると、今日は偕楽園の梅祭りなので水戸の1つ手前の偕楽園で停車するという。
そこの方が歴史館に近いので、ほとんどの乗客と共に偕楽園で降りた。
ただし偕楽園には入り口が行列なので入園はしないものの、園内の梅は車窓からと園外からも堪能できた(写真)。
偕楽園に隣接する常盤神社境内の出店で軽く腹ごしらえをし(梅酒もコップ酒で売られていたが、酒気帯びで博物館見学というのも気が引けるので遠慮した)、境内の義烈館(光圀こと義公と烈公の展示)を見学(300円)。
幕臣の子孫である私は、同じ徳川の将軍家の足を引っ張り、危機に陥れた烈公こと徳川斉昭が好きでないので、そちらの展示は足早に済ませた(そもそも倒幕の論理を与えたのは光圀)


ここから御成門通りを進んで広い敷地の歴史館に到着。
園内には旧水海道小学校の明治建築の立派な木造校舎がある。
610円を払って入った博物館では「鹿島と香取」の特別展をやっている。
関東でも別格なこの二つのペアとなる神社の特集とはラッキー。
鹿島神宮に伝わる刃渡2mを超える太刀とその鞘(共に国宝)には驚いた(建御名方神用で人間では振り回せない)。

中世以前”香取海”と呼ばれていた内海である現在の霞ヶ浦を中心とした県南東部のこの地域こそ、縄文時代の貝塚から始まって、交通・交易のネットワーク地で、関東武士による将門の乱も忠常の乱(平定)もこの地域が関わっている。

それに対して水戸以北は中世は佐竹氏の指定席で、江戸時代になって秋田に改易されて代わりに入ったのが水戸徳川家。
歴史館には水戸徳川家専用の展示室があって、最後の将軍・慶喜の展示(彼の写真作品など)を見学。
以上で2時間以上費やし、時刻は15時前。


水戸は東京から18きっぷ(普通)で片道2時間半かかる。
夕飯までには帰宅したいので、次の水戸市立博物館に急ごう。
と思っても歴史館前のバス停では次のバスは15分後。
じっと待っているのもつまらないので、好文亭表通りを歩いて市立博物館を目指す。
この博物館は、国道50号のバス通り(黄門さん通り)からさらに奥に入った有名な水戸芸術館アートタワー(写真)のさらに奥にある。
まぁ、初めての水戸の街中を歩くのも悪くない。


水戸市立博物館は中央図書館と同じ建物で、入館は無料だが、特別展「那珂川ヒストリー」は200円。
県南は霞ヶ浦+利根川の水運が盛んだったが、水戸を中心とする県央とその北西部は、那須岳を水源とする那珂川が水運を担っていた。
しかも河口の那珂湊からは東北地方との水運もある。
さらに那珂川からちょっと陸路を経ると涸沼になり、そこからは旧霞ヶ浦の広大な水運と繋がって、さらに陸路を挟んで江戸に繋がっている。
茨城は、関東の他県にはない、川と内海と外洋という水運に恵まれていたことがわかった。

以上をざっと見て、ここから水戸駅までも歩いて、駅のコンビニでフランクフルトを買って腹ごなしをして、16時すぎの始発上野行き(普通)に乗った(これで家には19時に着ける)。
県立と市立の博物館2つで時間いっぱいだった。
市内の名所(弘道館、水戸芸術館、徳川ミュージアムなど)はまたの機会に。
ついでに、常磐線の車窓から遠望する筑波山(876m)は名山の風格。


久々の鎌倉:東慶寺から扇ヶ谷

2023年02月18日 | 東京周辺

武士の都・鎌倉(神奈川県鎌倉市)は高校時代に好きになって、市内のほとんどの寺社・名所は巡ったが、当時は公開に消極的な寺が多く、拝観できない仏像があった。

”縁切寺”で有名な東慶寺の水月観音も敷居の高い仏像で、拝観するには特定日に事前申し込みが必要だったが、現在は毎月18日に一般公開されるようになり、在京していた本日、満を持して東慶寺に向かった。
久々の鎌倉なので、周辺の寺にも訪れたい。


横須賀線の「北鎌倉」で降り、まずは昔からある駅前の蕎麦屋(立ち食いチェーン店でなく、かといって気取ってもいないリーズナブルな)「やま本」で腹ごしらえ。
北鎌倉駅は円覚寺(鎌倉五山二位)の境内にあるようなロケーションだが、降りた客がそぞろ向かう円覚寺にはあえて目もくれず(入ると時間を要するから)、第一目的の東慶寺に向かう。
※:昔は尼寺で、夫と別れたい女性が逃げ込んでここで修行の身なれば女性からの離婚が認められたので"縁切り寺"として有名。
このあたりは山ノ内といい、狭義の鎌倉(幕府が置かれた平地)を囲む山の外側だ。


東慶寺は、水月観音の公開日なのに、拝観料を取らない。
ただし境内は全面的に撮影禁止。
すなわち”観光寺院”になることを拒否し、あくまで宗教施設としての寺であろうとしている。

まずは仏殿で本尊を拝み、廊下を渡った和室で水月観音を拝む。
小ぶりながら、姿勢を崩してリラックスするその姿は日本の観音像では珍しく、美術的には”県指定”文化財レベルながら、多くの人に慕われている。

和室でゆったりできることもあり、座り込んで心いくまで拝観できた。
あと別の堂で似た雰囲気の聖観音も拝観できる。
寺の奥には有名人がたくさん眠る墓地があり、さすが鎌倉の墓は、有名人でなくても五輪塔だったり、石仏も質が高い。


次に、鎌倉五山第四位の浄智寺を訪れる(拝観料200円。案内パンフをくれる)。
ここは山門が個性的で、あと仏殿裏の竹林(写真)とやぐらの風情もいい。

浄智寺の奥の道を進んで山に入り、稜線を乗越して、踏み跡程度の滑りそうな道を慎重に下ると、鎌倉の内側の扇ヶ谷(おうぎがやつ)に降り立つ。
室町時代に関東管領職を務めた上杉氏の一門で、江戸城を造った太田道灌の主人・扇谷上杉氏の居館があった地域(その碑もある)。

鎌倉は、普通の民家ですら、立派な玄関と茶室のような趣きある和風建築が多く、寺がなくても格式ある雰囲気を維持している。
なので、寺と寺との間も飽きずに散策を楽しめる。


政子と頼朝の愛娘で若くして亡くなった大姫のために建てられたという岩船地蔵堂を参拝し、さらに進んだ住宅地の中にある浄光明寺(拝観料など同上)では、受付の人の詳しい解説付きで、土紋のついた重要文化財の阿弥陀如来を拝む。
※:土に漆を混ぜて模様の型にはめて仏像の衣や膝などに貼り付ける、鎌倉地方独特の装飾法
ここの阿弥陀如来は、中品(ちゅうぼん)という胸の前で印を結ぶ珍しい形態で、鎌倉で好きな仏像の1つ。
そのほか本堂の三世仏(弥勒、釈迦、阿弥陀)を拝み、また観音堂の千手観音、不動堂の不動明王もガラス越しに拝めた。


横須賀線の踏切を越えた側にある現在唯一の尼寺英勝寺は、以前は入れなかったが、今回は拝観(同上)できた。
※:英勝寺も東慶寺同様格式高い尼寺だった。

山門と仏殿が重要文化財で、仏殿の本尊(阿弥陀)はガラス窓を開けて拝む。
ここも裏に竹林が整備されていて、石塔が配置されていたり、また木で削ったベンチもあり一服するのによい(写真:座って水筒に詰めてきた茶を飲んだ)。

こんな感じで、鎌倉の寺もずいぶん開放的になってくれて嬉しい。
だが次の鎌倉五山第三位すなわち建長寺・円覚寺に次ぐ寺格の寿福寺は、相変わらず門から先に入れなかった。
ただ裏山の墓地にある北条政子と実朝の墓には行くことができた。


実は上記のいずれも高校時代に訪れた寺なのだが、この扇ヶ谷界隈に新たな観光スポットが誕生した。
鎌倉歴史文化交流館である(写真)。
ここはいわゆる郷土博物館だが、鎌倉市のそれなので建物も立派(写真:入館料400円)。
そう、今回は”郷土博物館巡り”も兼ねていたのだ。
「鎌倉殿の13人」にちなんで北条氏の特別展をやっていた。

ここから坂を下って鎌倉駅に達する。
やって来た電車は、湘南新宿ラインの古河行き。
なんと鎌倉から古河へ直通なんて、室町時代の関東公方の移転を彷彿させる。
それに乗って途中の江戸で降りた。

東鎌倉を巡る


渋谷の博物館巡り

2023年02月09日 | 東京周辺

ローカルな郷土博物館(ミュージアムとして美術館等も含む)巡りは、気楽に行けて大した費用もかからず、それでいて日頃にない情報に接して、充実した時間を過ごせるので、毎回楽しみしている。

東京では山手線内から巡っていこうとしたが中心部の千代田区には無いので、池袋・新宿そして港区を巡った。→記事
同じ山手線の渋谷を残しておいたのは、ここには博物館が集中していてここだけで1日を要し、しかもそのうちのいくつかが週末閉館で月曜以外の平日しか行けないため、通常の帰京スケジュールでは回れなかったから。
2月はウイークデーに東京にいられるので、降雪予想の前日の今日、渋谷の博物館巡りを挙行した。

まずは駅そば(蕎麦)で腹ごしらえをしたいのだが、渋谷駅といえば「渋そば」だったのに、駅の改装に伴って無くなってしまった。
仕方なしに地元駅の駅そばを食べて、改装工事が終わっていない渋谷で降り、渋谷区が運行するハチ公バスに乗る。


「郷土博物館・文学館」で降りて、目の前の渋谷区立の白根記念郷土博物館に入る。

高齢者割で入館し、2階に上がると、まずはナウマン象の化石(レプリカ)。
渋谷区は人類より先にナウマン象が住んでいたのだ。
旧石器〜弥生・古墳までの出土品はある程度あるものの(区内に古墳が3つ)、いわゆる古代は都内区部の例に漏れず展示する情報に乏しい(話題になる地域ではなかったので文献史料がない)。
渋谷の地名が出くるのは、戦国の小田原北条氏の支配から。
江戸時代になると、江戸の郊外としての存在感が出てきて、また大山街道(今の国道246)の起点としての役割も出てくる。
明治になって山手線が開通し、さらに玉電・井の頭線、そして地下鉄銀座線が開通することで、新しいターミナルとして発展し始める(関東大震災によって、一番の繁華街・浅草が衰退し、下町から会社が移転してきた)。
※:最初の地下鉄銀座線は、浅草-日本橋-銀座-表参道-渋谷と、山手線では行けない東京の繁華街を結ぶ。

地下の文学館に行くと、渋谷に縁のある文学者がずらりと紹介してある。
その中で、渋谷で生まれずっと渋谷で活動した生粋の渋谷っ子は、平岩弓枝(放送作家として有名だが直木賞受賞者)と奥野健男(文学評論家)の二人。
あと唱歌「春の小川」は高野辰之が渋谷区内の川(河骨川)を散策して作詞したという。

1時間ほどでここを出て左に進む。


あたりは國學院大学のキャンパス区域となり、その一角にある國學院大学博物館に入る(無料)。
企画展示は源氏物語の物語絵で、常設展は神道と考古学(縄文土器のコレクションがすごい)。
ミュージアムショップもある。
この大学は、大学としては中堅所の印象だが、神道に関してはトップ(教育の中心)で、その意味では貴重な存在意義がある。
そんな個性ある大学が運営する博物館だから、同業者として羨ましい限り。
キャンパスの向かい側の敷地には「神殿」とされる神社があり(写真)、参拝する。


氷川神社に沿って進むと、特徴のある古い建物があり、入り口に閉眼した塙保己一の像がある(右下写真)。
温故学会が運営する塙保己一史料館だ。
建物の中に入り募金箱に100円入れると、右の倉庫から人が出てきて、こちらに来いという。
そちらに行くと、そこは塙保己一が生前に編纂した『群書類従』の版木がずらりと(17244枚)保管してあり、それらを目の当たりにできる。
江戸時代中期に盲人ながらそれまでの国書を集大成した『群書類従』の編纂は我が国最高峰の業績で、私も武家礼法の研究でお世話になった(もちろん活字版で)。
これらのオリジナルの版木は国の重要文化財で、建物も文化財となっている。
この貴重な史料館を運営する温故学会は、同じ埼玉出身の渋沢栄一が創立したもので、ここにはヘレン・ケラーも来館した。
パンフによると、ケラーは母から「塙先生をお手本にしなさい」と言われて育ったという。
※:塙(はなわ)姓って埼玉に多い気がする。


ここから都立広尾高校の外郭に沿って進むと、山種美術館に達する。
今は特別展「日本の風景を描く」をやっていて、江戸時代の歌川広重の東海道五十三次の風景版画から、大雅・文晁、大観・玉堂、魁夷そして現代の田渕俊夫までの風景画62点を堪能(入館料1300円)。
ミュージアムショップで、川合玉堂の「早乙女」と石田武の奥入瀬渓谷の絵ハガキを買った。

ここから都バスに乗って恵比寿駅に向かった。
以上の4軒の訪問先は近距離に並んでいていっぺんにまわれた(しめて4時間)。
このうち郷土博物館と美術館は月曜が休みで史料館が土日休みなので、火〜金の間にまわるしかないのだ。


山手七福神巡り:2023

2023年01月05日 | 東京周辺

江戸の七福神巡りは谷中が最初だと思っていたら、目黒周辺の山手七福神も”江戸最初”を謳っている。
それならというより、こちらの弁天様は正月松の内だけ公開というので、紅一点の弁天目当ての七福神巡りとしてここを選んだ。
交通の便も自宅から地下鉄一本で行けるのでありがたい。

まずは近い順に、清正公(せいしょうこう)として有名な覚林寺毘沙門天
本堂向かい側の小さなお堂に毘沙門天が祀ってある。
山手七福神は、こちらから巡る場合「無病息災・長寿祈願」のご利益があるという(逆ルートだと「商売繁盛」)。

目黒通りを進み、白金の八芳園を越えて、次は瑞聖寺布袋
この寺は都内の黄檗宗最初の寺で、布袋(弥勒菩薩)は黄檗宗と縁がある。
本尊の釈迦像は明朝風で本堂自体も立派な造り(写真)。

さらに目黒方面に進み、こじんまりした妙円寺の堂に福禄寿寿老人が本尊の両側に鎮座。
双方ともに”寿”がついていてご利益もダブっている。

目黒駅を越えて、行人坂の下り途中にある大円寺には大黒天
この寺は羅漢や釈迦像を目的にすでに訪れたことがある。
また八百屋お七の相手の男側に縁(ゆかり)がある。

坂を下って、山手通りを越えるといよいよ弁天のある蟠龍寺
本堂を参拝し、その奥の岩屋弁天をまずは拝む(写真:外からズーム)。
石造りの八譬弁天(弁財天)だ…二本腕で琵琶を持ってたら弁才天遠目に見た限りだが、江ノ島弁天窟の石像と造りが似ている。
お堂にも木像の八譬弁天が祀ってある。

最後の恵比寿瀧泉寺すなわち目黒不動の境内にある。
目黒不動自体、色々まわれて、さらに大黒天も福禄寿もいる。

これで七福神を巡ったことになるが、目黒不動に来て、隣接するわが菩提寺の五百羅漢寺に足を運ばぬわけにはいかない。

五百羅漢寺は都内一といえる仏像の宝庫で、拝観料500円するが、松の内は無料(もっとも檀家である私はもとより顔パス)。
ここには大晦日に墓参りに来たばかりで、屋内の霊廟にはその時の花飾りが残っている。
改めて亡父と従兄弟の霊を祈った。

ちなみに山手七福神は、同じ型で絵が異なる人形がそれぞれ売られている(各500円)し、もちろん御朱印もある。
私はそれらのコレクターではなく、本尊の御影コレクターなので、目黒不動の御影(500円)を求めたのみ。
東急目黒線の「不動前」から帰った。


宗吾霊堂と麻賀多神社

2022年12月10日 | 東京周辺

5回目のワクチン接種をした翌朝、床の中で全身の節々の痛さを感じて、あれっと思ったが、起きると大丈夫だったので、予定通り、千葉は印旛沼の東岸(成田市宗吾)にある宗吾霊堂と麻賀多神社を訪れた。

宗吾霊堂とは、江戸時代初期の義民として有名な佐倉宗吾(本名・木内惣五郎。合わせて「佐倉惣五郎」として有名)の霊を祀る堂で、京成線の最寄り駅が「宗吾参道」となっている。

こういうローカルな史跡を巡ると、その地域の人たちが大切にしてきたものと出会えるのが新鮮だ。


駅からすぐ霊堂の門をくぐり、坂を登って宗吾霊堂と称している東勝寺(真言宗別格本山)の門前で蕎麦を食べ、山門をくぐると土産物屋が数軒並ぶ向かいに、宗吾と連座した4人の幼子たちの霊廟がある(写真:ちなみに境内の説明は「宗吾様」で統一)。
この寺は、元々は平安時代創建なのだが、この寺の住職が宗吾たちの埋葬をした縁でここが彼らの霊堂となった。
※:なのでこの寺より後にできた成田山は”新勝寺”という。

宗吾が本尊である本堂に参拝し、住職の夢に出てきたという大黒天の御姿を買い(100円)、境内奥にある宗吾御一代記館に入る(700円)。
館内では、リアルな人形による宗吾の事績を13場面に分けて展示してある(音声解説付き)。

それによると、印旛郡佐倉藩の名主であった宗吾は、藩の苛政(暴政と重税)に苦しむ領民の一揆を抑える代わりに自分が藩に上訴を試みるが、受け入れてもらえなかったため、江戸に出て幕閣への駕籠訴に及ぶも、これも却下された。
最後の手段として将軍への直訴を決意するが、これは当時は許されない暴挙で、当人は磔刑、家族は打首と決められていた。
それを覚悟してでも直訴を敢行したい宗吾は、妻と離縁、幼い子どもたちを勘当し、上野寛永寺に参拝していた四代将軍家綱に直訴した。
将軍の後見役保科正之(初代会津藩主で名君)がこれを受取り、直訴は成功したが、この罪で宗吾は磔、そして幼い子ども4人も打首となった(妻がこの中にいないのは離縁が認められたためか)。
※:当時でも15歳以下は死罪を免れるはずだが、本人の行為ではなく、連座制であったため罪が適用されたようだ。
宗吾とともに後ろ手に縛られてまさに”連座”している幼子4人の刑場場面の展示は、涙なしで見ることができない。
ここの展示の床には、見学者からの投げ銭が散らばっている(私も投げた)。

この命を賭した義挙により、佐倉藩は政治を改め、宗吾の霊を顕彰し、江戸藩邸内にも霊堂を建てた(ただし領民が宗吾を祀ることは禁止)。
さらにすでに他家に嫁いでいた宗吾の息女(そのため連座を免れた)が地元に戻ると、田高五石を供養田として与えたという。

ここを出て近くの宗吾の遺品・関係文書を展示する霊宝殿(写真)に入ると、わが胸につけていた”ばけたん霊石”が、にわかに青く光った。
この色は良い霊が現れたという合図だ(ばけたんは自動的に霊を探知している)。
こんな展示館の中で異なこと、と周囲を見渡したら、後ろに、線香・鈴(りん)があり、宗吾と子どもたちの位牌が祀られていた。
なるほど、宗吾とその子たちの浄化された霊が探知されたのか(かくもばけたんは信頼できる)。
ある意味、ここもパワースポットである。
線香を焚いて鈴を打ち、江戸時代の古い位牌に合掌した。

さらに展示によると佐倉藩主は宗吾が夢枕に出て苦しめられたようだ。
宗吾を顕彰したのも、良心の呵責だけでなく、除霊の意味もあったろう。


お寺を出て、麻賀多神社に向かう。
麻賀多神社は佐倉・成田地域に分布しているが、これから行く本社がパワースポットらしいのでついでに訪れたい。
霊堂から数キロ離れていて、バスの便はあるが数時間に1本なので歩くしかない。

Googleマップで徒歩ルートを検索すると、遠回りのルートしか出ないので、それを無視して最短路の国道を歩いてわかったことは、確かにこの車道は歩道スペースが無いので、徒歩向きではない。

麻賀多神社に着いて、東日本一という見事な大杉を詣でる。
テスラメータを取り出して地磁気を計測すると、大杉の周囲にある鉄の赤いガードの丸い上端部がかなり磁化している(特に写真の左側の鉄柱上端が強い。一方、右側の鉄柱は平常値)。
この神社内の天日津久(あまのひつく)神社がパワースポットというが、そちらの磁気は正常だったので、大杉の方がパワーがあるかな。
※岡本天明という人がここで神がかりして『日月神示』(ひつくしんじ)を自動書したという(平藤喜久子監修・古川順弘著『秘められた神々』MdNより)。


神社のちょっと先に宗吾の旧宅があり、行ってみると、今でも人が住んでいる敷地内に古い家がある(江戸時代の造りではない)。
宗吾息女のご子孫のお宅かもしれない。
いずれにせよ、個人の宅地内なので遠慮ぎみに写真を撮った。

ここからはGoogleマップが示す徒歩ルートで駅を目指すが、途中で麻賀多神社奥社の道標があったので、寄り道した。
奥社には、印旛の国造・伊都許利命墓の墳墓があり、さっきほどではないがここにも大杉がある。

ここまでで、ばけたんが反応したのは霊宝殿内の一ヶ所。
近くの団地にバス停があるが時刻がわからないので、ここから駅まで50分の道のり(江川沿いの気分のいい道)を歩いた。


横浜の神奈川県立歴史博物館

2022年11月13日 | 東京周辺

帰京した週末の日曜、山に行きたかったが、午後から雨の予想なので、雨が降っても大丈夫な”ローカル博物館巡り”に切り替えた。

今回は横浜の旧市街(中区)にある神奈川県立歴史博物館
県ではなく横浜市の歴史博物館はずっと山側で新興住宅地の都築にあって建物も新しく充実した展示だったが、神奈川県立の方は旧市街地の歴史的建造物を使っているので、きっと狭く、横浜市に比べて見劣りするに違いない。
ただ付近には横浜港関連の資料館もあるので、それらをハシゴすれば少しは充実するだろう。

そう見込んで、東横線経由でみなとみらい線の「馬車道」で降り、地上に上がると、付近は横浜旧市街の風情で、石造りの装飾のあるビルが立ち並ぶ。
その中でもひときわ異彩を放つ横浜正金銀行本店跡のビルはすでに国の重要文化財になっていて、そこが今では神奈川県立歴史博物館(写真)になっているのだ。
※:横浜での外国との取引のために設立された政府系の銀行で、後の東京銀行。ということは私も口座を持っている今のUFJ銀行につながる。

まずは昼食を摂りたいが、せっかくの”横浜”なので、いつもの駅そばや町中華でなく、ちゃんとした中華飯店で食べたい。
店が開く11時半になろうとしているため、博物館を素通りして、少し先の広東料理を謳う中華飯店「生香園新館」に入り、迷わず私定番の「五目焼きそば」を注文する。

この店は、もともと五目焼きそばが有名らしく、周囲のほとんどの客もそれを注文している。
また神奈川では珍しく?内税で、店頭の値段のままで食べれた。

腹を満たして、歴史的建造物の側面に廻って、県立博物館に入る。
鎌倉の廃寺である永福寺についての特別展(12/4まで)もやっていて、そっちも含めると入館料は1200円なのだが、なんと私は”老人割”が効いて特別展合わせてたった250円(950円引き!)。
昨日の話題に続いて、年取った事のメリットを享受した(まだ慣れない)。

まずは特別展に入る。
鎌倉の永福寺跡は、瑞泉寺の入り口近くにあり、廃寺ながら敷地は鎌倉最大級で、頼朝肝煎りの由緒ある寺だったことは知っている。
廃寺なので、展示も瓦などの発掘品中心だが、運慶作と推定される大日如来坐像や鶴岡八幡宮所蔵の着衣弁財天(いずれも重要文化財)を拝めた。
頼朝が開いた関東の鎌倉が、政治のみならず文化的にも京都に対抗する地にすべく力を入れた象徴がこの永福寺だったということがわかり、思ったより充実した内容だった。

気分を変えて、常設展に向かう(エスカレータに乗って3階から見て回る)。
ここも他所と同じく旧石器時代から始まるが、関東ローム層の展示は実物ではなく写真パネル(この点豊島区に劣る。”自然”が入らない歴史博物館だから仕方ないか)。
ただ縄文時代の大きな顔面土偶は地元出土だし、縄文・弥生・古墳時代の住居・集落を模型で示している点は比較しやすい。
そして何より、展示と連動したスマホアプリ「ポケット学芸員」による音声の説明が充実しているのがいい(いわゆる特別展の「音声ガイド」と違って無料だが、ヘッドホン持参のこと)。

あと県立ということもあって県全体が展示の範囲だから、中世の鎌倉、戦国の小田原、江戸時代の東海道、そして幕末明治の横浜がそれぞれ詳しく展示されているので、他県にない充実感がある。
特に、国宝建築の鎌倉・円覚寺の舎利殿の内側が再現されていたのは嬉しく、じっくり味わいたくて二度入った。

最後は民俗展示で終わって、出口に達したときは15時半になっていた。
正午頃に入館したので、全部見るのに3時間半もかかったことになる(最長記録更新!)。
実際、途中で休憩を入れたくなって、自販機で「午後の紅茶」を買って、ベンチで休憩した。

この後、近くの開港資料館に行こうとしたが、16時で閉館なので諦め。
実は時間だけでなく、気力も残ってない。

結局、今日は神奈川県立歴史博物館だけで終わってしまった。
千葉でもそうだったが、やはり”県立”レベルは充実している。
甘く見過ぎた。

帰途は、横浜乗り換えで京急線経由で帰る。
横浜駅構内で、横浜土産の定番「崎陽軒のシウマイ」を買う。
実は東京駅や上野駅でも崎陽軒の売店があって売っているのだが、やはり「シウマイ」は地元”横濱”で買いたい。
なのであえて行列(横浜に来た人はみんなそう思っているようだ)に並んで買った。