今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

縁切榎・お岩墓・とげぬき地蔵

2024年05月12日 | 東京周辺

昨日の背中の痛みがすっかり癒えた本日日曜。
予定していた山の代わりに近所の散策に出かける。
お寺で御影を買う可能性もあるので、A4クリアファイルが入る昨日のリュックを背負って。

思いついた行先は、板橋の「縁切榎」(えんきりえのき)

別に縁切りの願掛けをしたいからでなく、こういう呪詛のような負の願掛けの名所も訪れてみたい。

場所は旧中山道の板橋宿にあり、都営地下鉄三田線の駅から近い。

どうせなら板橋宿の町中華で昼食をとろうと、三田線の「板橋区役所」で降り、
国道17号(現中山道)から東の細い道を通って旧中山道の仲宿の商店街に出る。
仲宿は日本橋から最初の宿場である板橋宿の中央の町で、今でも商店街で人通りが多い。
”旧街道を歩く”という趣味もじわじわ湧き起りつつある自分にとって、
こういう今でも賑やかな宿場町は楽しい。

さて、私が目をつけていた町中華は2軒とも、”日曜のランチを地元商店街の町中華で”という人たちの行列ができていた。
確かに閑散とした店は避けたほうがいいと思うが、行列に加わる気もしないので、
ある程度客が入ってしかも空席のあるチェーン店風の店に入り、
予定通り「五目かた焼きそば」を注文(可もなく不可もない結果だった)。

仲宿を北に進むとやがて石神井川に掛かる「板橋」を渡る。
そう、ここが板橋宿そして板橋区の地名の元。
昔は板製の橋だったわけだが、昭和になって車も通すため、コンクリの橋に変わった。
ただ雰囲気を残すため、色で板を演出している。

そこすぎて上宿のゆるい坂を上ると右手に縁切榎が見えてきた。
主役は榎なのだが、神社の境内のようになっていて、榎の前に立派な祠があり、その右側に、縁切りの願掛け用の絵馬が自販機で売られていて、その奥に絵馬に願掛けを記入する台がある(写真:下記の2人の背中が映っている)。
20代の女性が2人、それぞれ絵馬に記入中。
絵馬は願掛け記入部分をシールで貼って隠し、祠の左側の絵馬を掛けるスペースに、絵馬の側面を正面にして(普通の絵馬掛けと90°直角に)並べて掛ける。
その結果、膨大な数の縁切願掛けの絵馬が整然と並ぶ。
その風景を撮影したかったのだが、先の20代女性2人が絵馬を掛けるまで待っていると、
次に40代の女性が一人で来て絵馬を買って願掛けを記入し始める。
かように、次々と縁切りの願掛けの参拝者がやってくる。
ネットの口コミでも、現在もなお縁切りのパワーが落ちていないようだ。
そう、切るべき縁はスパッと切った方がいいが、
自力で切れない場合は、こうして大きな力に頼るしかない。
西新宿で殺された女性もここに願掛けしていれば…。

こういう怨念が溜まった場所には長居したくない。
それを祓う意味で、国道17号(現・中山道)を渡って、浄土宗・智清寺(江戸時代の童女の墓が3基ある)、
そして本日訪れるにぴったりの真言宗・日曜寺(本堂の愛染明王を拝める)を参拝。

最寄りの「板橋本町」駅から三田線に乗って往路を戻り、豊島区の「西巣鴨」で降りる。
ここから国道17号を渡って寺町に入り、日蓮宗・妙行寺に行く。
ここはあの四谷怪談の”お岩さん”の墓がある所。

境内に入ってすぐの所に明治年間に建てられた「四谷怪談お岩様の墓」という大きな石柱がある。
さらに進むと、日蓮宗寺院に特有の水をかける浄行菩薩の石像があり、なかなかの美仏(写真)。

庫裡の入り口に境内の案内図があり、「お岩様の墓」の場所が示されている。
それに従って本堂左手奥の墓地に進み、正面に鳥居があるところに「お岩様の墓」の位置と説明がある。
その説明によると、「お岩」という実在の女性は、夫(入婿)伊右衛門と折り合いが悪く、病身となって亡くなって以来、その家では色々な禍いが続いたため、菩提寺であったこの妙行寺の日達上人の法華経の功徳で悪縁が取り除かれたという。
この実話を下地に戯作者・鶴屋南北が「東海道四谷怪談」という怪談を創作したようだ。
この寺も当時は四谷にあったが明治になって当地に移転したという
※:お岩さんが住んでいた四谷は甲州街道沿いで、今の墓は中山道沿い。”東海道”とは縁がない。

そして今ではお岩様の墓に塔婆を捧げると願い事が叶うという
(すなわちお岩さんは成仏しており、祟る死霊ではない)。

上に記されてはいないが、四谷怪談でお岩を演じる際は、役者は必ずここに参拝する。
実際、墓の三方にずらりと居並んだ塔婆の中に、歌舞伎役者の名が散見する。
お岩さんの立派な層塔の墓を参拝(写真:周囲の塔婆の数がすごい)。
私は墓前で「南無妙法蓮華経」と10遍唱えた。

ここから、「お岩通り」を通って、国道17号を渡り返せば巣鴨のとげぬき地蔵に近い。

とげぬき地蔵高岩寺という曹洞宗の寺である。

只管打坐(ひたすら坐禅)が教えの曹洞宗は、本来なら霊験あらたかを謳わないはずだが、
ここの地蔵菩薩の霊験が江戸時代から評判で、しかもそれが現代にまで続いていて、
今では、本堂外にある「洗い観音」に自分の悪い身体部位をタワシ洗う人達の行列が絶えない(観光バスまで来る)。
本堂に参拝したら、ちょうど祈祷が始まるところで、曹洞宗の儀式は滅多に同席できないこともあって、
太鼓のリズムに合わせて般若心経をテンポよく一緒に唱えた。
真言宗のように護摩こそ焚かないものの、信徒の祈願成就を唱えるのは在家対象(衆生の与楽抜苦)の大乗仏教としては致し方ないか。
曹洞宗なら、本当は坐禅瞑想をすることで我欲への執着心から距離をとれる境地(システム3)に導いてほしいのだが。

そういば昨晩、身近にある地蔵菩薩をきちんと参拝する気になっていたのを思い出し、
本日の予定になく、たまたま訪れた高岩寺で地蔵菩薩の祈祷も同席でき、さらに本尊の御影の掛け軸が1000円だったので迷わず購入。
地蔵通り入り口にある眞性寺(江戸六地蔵の1つ)の大きな笠地蔵も参拝し、徒歩で帰宅した。


リニューアルした品川歴史館へ

2024年05月05日 | 東京周辺

私の新たな趣味となった”郷土博物館巡り”は、充実した県立博物館と近場の東京23区の区立博物館を優先している。

東京23区では、品川区の「品川歴史館」がしばらく改装中で”お預け”状態だったが、先月下旬にリニューアルオープンしたので、満を持して訪れることにした。

各地の郷土博物館は残念なことにたいてい駅から遠い所にあり、品川歴史館も例外ではなく、大井町駅からバスの便となる。
※:大森、品川、蒲田からの便もあり。

京浜東北線の大井町駅で降りる(この駅に下りたのは過去に1度しかない)。

こういう滅多に来ない地こそ、地元の町中華で五目焼そばを食べたいが、あいにく開店前の時刻(11時前)なので、チェーン店の「富士そば」で昼食を済ませる。

駅前(中央西口)から蒲田行きのバスに乗り、鹿島神社前で降り、少し戻ると、趣向を凝らした立派な建物がリニューアルした品川歴史館。


入館料は(たった)100円で、展示室入り口で、 渡されたQRコードをかざす(これが最新式の入場法?)。

展示スペースは1フロアのみだが、映像情報を駆使している(写真:上部壁面に区の歴史を網羅した動画が流れる。写真のシーンはモースが電車内から貝塚を発見する直前)。

まず品川区最古の人類の足跡は縄文時代の9000年前ということで、他の区よりは遅め。
ところが、ここ品川区には、日本で最初に発見された縄文時代の貝塚「大森貝塚」がある。
なので考古学そのものはここ品川区から始まった!

古代になると大井に東海道の宿駅ができた(次の駅は豊島)。
そして中世になると、大井氏とその系列の品川氏が鎌倉幕府を支える位置につき、室町時代になると、品川港が大繁盛し、寺町も形成され、文化人もやってくる。
品川があっから太田道灌も江戸城を建てられた。
すなわち、大都市東京いや大都市江戸の出発点は品川だったのだ。

江戸時代になると、東海道の一番目の宿場としての品川宿が栄える。
当時の旅人は日本橋をあえて夜に出発し、品川宿で朝食を摂ったという。
宿場裏の御殿山は、桜の名所として江戸市民の行楽の場となる。

明治になっての日本最初の鉄道は、新橋—横浜間ではなく、その4ヵ月前に仮営業した品川—横浜間だったとのこと。
その時もう八ツ山橋の陸橋ができ、後のゴジラ映画の重要ポイントとなる(この記述は展示にない)

関東大震災では都心の被災者たちの移住先になり、その後の発展の基礎になる。

2階には大森貝塚発見者のモースの展示スペースがあり、また一階の外には庭園があって、竪穴式住居の土台や移築された茶室もある(見学可)。
歴史館の敷地自体が、茶室の庭園と一体となっている。


ここを見学したら、南にある大森貝塚遺跡に行かねばならない。
その手前にある来迎院の念仏供養塔と鹿島神社も一緒に訪れる。

遺跡公園内の線路沿いに昭和初期に建てられた格調高い石碑(写真)がある大森貝塚は、大田区の大森ではなく、ギリギリ品川区にある。
ついでに、品川駅は港区にあり、しかも品川駅の品川駅がある(さらに目黒駅は品川区)。
すなわち新幹線も停まる品川駅は品川区の名所ではないが、大森駅に近い大森貝塚は品川区の名所なのだ。

大森貝塚遺跡からさらに南下して大田区に入り、本堂内に上がれる大森不動尊(成田山圓能寺)を詣で、隣の大森山王日枝神社を経て、大森駅に到着。
このように大森と結んで訪れるとよい。


鎌倉穴場の寺

2024年04月29日 | 東京周辺

GWさなかの休日に鎌倉に行く事にした(母のアクシデントで一日順延)。
まず第一の訪問先は前回訪れたら閉館中の極楽寺宝物殿のリベンジ。
それと鎌倉観光案内サイトを見たら、光明寺で期間限定の寺宝展をやっていてさらに山門に上れる。

光明寺は、鎌倉材木座にある浄土宗の関東総本山で、かように格の高い(増上寺よりも上?)※寺でありながら、
いわゆる鎌倉の観光ルートから外れている。
※:翌日訪れた「法然と極楽浄土」展で分かったのだが、光明寺の”関東総本山”は江戸期までで、江戸期以降は増上寺が関東檀林の最上位となった。

実は、高校時代、鎌倉が好き過ぎて日帰りでは物足りず、どうしても泊り旅で鎌倉を味わいたいと思い、
その時に泊ったのが光明寺の宿坊(鎌倉で泊れる寺はここだけだった。今は廃業しているようだ)。
このときは、高校の友人を誘い、二人で鎌倉山内の寺をほとんど巡り潰した。
貴重な鎌倉の夜をここで過し、朝は勤行に参加という思い出深い寺だ。

その光明寺の寺宝と山門内部は宿泊当時も経験していない。
なので、極楽寺よりもこちらを優先する。


鎌倉駅に降り立ち、まずは私の日帰り旅の定番”町中華で五目焼そば”を実行すべく、
駅近くの老舗中華「あしなや」で五目(かた)焼きそば(900円)を食べる。

駅前から逗子行きのバスに乗り、「光明寺」で下車。
ここは材木座海岸が目の前で、寺町というよりサーファーの町。
津波ハザードマップの看板があったので見ると、この付近一帯(海抜4m)は頭上5mの津波に覆われる。
そういう海沿いに光明寺の高さ20mの立派な山門が建っていて、その2階に人がいる。

山門をくぐって、庫裡に行ってまずは書院の寺宝展を見る(寺宝・山門合わせて1000円)。
室内で見ているのは私一人。
法然上人をはじめとする浄土宗にまつわる僧の肖像、阿弥陀如来を中心とする数種類の浄土曼荼羅などを人がいないからマイペースで観賞。

本堂は改築中で、その代わりの開山堂に入ると、本尊の阿弥陀三尊の他、如意輪観音や八臂弁才天も拝める。
さらに開山堂の裏、本堂に続く渡り廊下から庭園の向こうに建つ大聖閣2階の窓から顔を出している阿弥陀如来を遥拝(写真)。
この場所は確かに落ち着く風景で、椅子も用意されていてじっと座って庭を見ている人もいる。
それでも数人なので、鎌倉にしてはいたって空いている。

山門の階段を頭をぶつけないように慎重に登ると、二階には釈迦三尊・四天王・十六羅漢の像が並ぶ。
最近修復されたらしく、特に羅漢さんたちの彩色がド派手。
2階から外を見ると、材木座の海はボードセイリングが林立。

光明寺の脇にある千手院は、その名の通り、本尊の千手観音が本堂入り口から拝める。

バス道を戻ると、通りを行く人たちもウエットスーツのままで、民家にもサーフボードが立てかけられていて、この付近は古都鎌倉ではなく、湘南〜三浦海岸の一画という所。


九品寺を見学して、そこからバスで鎌倉駅に戻り、満員の江ノ電に乗って極楽寺駅で降りる。
江ノ電に乗る観光客(外国人も多数)は大仏のある「長谷」で多少の入れ替えはあるものの、
多分新名所「鎌倉高校前」を目指すのだろう。

数人降りただけの極楽寺駅から、極楽寺の門をくぐると、前回よりは参拝客が少しはいるが、
あろうことか宝物殿は閉まっていた。
今回は庫裡の受付に人がいたので、本日は閉まっているのかと問い合わせると、
昨日と明日は開くが今日は閉館とのことで、複雑な開館スケジュールが記された紙を渡された。
なんとリベンジ失敗
観光サイトにある”GW中は開館”みたい大雑把な案内に騙されたことになる
(ただしそのサイトのおかげで光明寺の寺宝展を知ることができたが)。

虚しく引き返し極楽寺を後にする。
駅近くの伝上杉憲方の墓を見たのがせめてもの慰み。
再び観光客でぎっしりの江ノ電に乗り込み、鎌倉駅に戻った。
時間が余ったので、駅近くの大巧寺日蓮辻説法跡妙隆寺も巡った(これらは上の光明寺宿泊時に巡った)。

たまたま知った光明寺に行かなければ、今回の鎌倉行きはリベンジ失敗だけになっていた(”怪我の光明”?)。


群馬県立歴史博物館を見学

2024年03月25日 | 東京周辺

”郷土博物館巡り”をして感じるのは、市町村レベルのそれは充実度の落差が大きいのに対し、
県立レベルのそれは、県の意気込みと対象が県全体であるため展示が充実していて、
どこも見学に値する(行って損はない)こと。

休日に暇でどこにも行く宛がないなら、近隣の県立博物館をお勧めしたい。
じっくり見学すれば数百円の入館料で半日潰せて、色々な知識を得られる。

昨日は、群馬県立歴史博物館(高崎市)を訪れた。
県立博物館でも、埼玉や茨城は歴史博物館と自然博物館とを分けていて、ここ群馬も分けている
(しかも3県とも、歴史博物館は都市部にあるものの、自然博物館は交通の便がよくない地にある。
なので双方を一度には廻れない)。
県庁所在地ではないものの群馬一の都市・高崎市にあるのは歴史博物館の方で、
関東でも古墳が多い地だけに埴輪の展示が充実。


東京から高崎まで18きっぷで往復すれば約4000円のところを2400円ですむ。
高崎駅東口からぐるりんバスに乗って、「群馬の森」で降りる。
ここには県立の歴史博物館と美術館がある。
美術館は時間が余ったら入ることにし、まずは歴史博物館に入る(300円)。

展示室入口の自動ドアが開くと、さっそく近くの観音山古墳から出土した国宝の埴輪群などがお出迎え。
千葉を除く南関東では見られない、無傷で(復元したのではない)大型の埴輪が居並ぶ。
その中に昔の大映映画の「大魔神」のモデルとなった武人埴輪(写真右)も立っている。
馬の埴輪は、すべてご丁寧に尻の穴が開いている。
あと馬につける金属の飾りは、それで音を出すためで、いわば”チャグチャグ馬コ”の起源だ。
これらがかくも無傷で出土したのは、全国的に珍しく盗掘を免れていたから。

今まで訪れた南関東の郷土博物館では、どうしても古墳時代からの”古代”の展示がスカスカだった。
だがここ群馬は、まさにその古墳時代の展示が自慢(古墳の規模と出土品の充実度は畿内に匹敵する)。

なら、古代以前の充実度はどうかというと、
旧石器時代の日本最初の出土地はここ群馬の岩宿であることから当然充実して、
3万4千年前からの石器(複製)の展示がある。
石器の作り方の映像があり、それによると各地で人気の黒曜石は、
鋭利に形成しやすい柔らかさでいて、獲物を仕留める硬さはある便利な石だった。

そして縄文土器ももちろん並んでいて、縄文晩期には、精巧な透かし彫りの装身具が作られていた(写真)。

弥生時代末の3世紀の土器は、東海地方(今の愛知)からのオリジナルスタイルが入ってきたということで、愛知は縄文期はスカスカだが、弥生末期以降から焼き物の先進地に躍り出たようだ(それが現代まで続く)。

ヤマト政権成立後の古代群馬は、有力豪族の上毛野(かみつけの)氏の支配で、大陸との交流も盛んだった。
あと有名な”上野(こうづけ)三碑”(実物大の複製が並ぶ)も関東では珍しい古代(7-8世紀)の史跡。

(みやこ)一極集中が今より酷かった平安時代はさすがに展示が乏しくなるが、
中世になると在地武士の新田氏の活動が盛んになり、鎌倉幕府を滅亡させた新田義貞で頂点に達する
(でも隣国下野の足利氏に敗北)。

戦国になると、上州は関東内部(古河公方)・外部(越後・甲斐)からの騒乱に巻き込まれ、その中で上州独特の兜が作られる。
当時の”城”が、織豊期以降の石垣天守閣中心のそれでなく、曲輪(くるわ)という空間中心であったことが復元模型で示される(写真)。
この模型は山城好きに参考になる(山城巡りでは、地面の凹凸だけの縄張り跡に立って当時の城を想像するから)。

江戸時代になると中山道(新町〜碓氷峠)が賑わい、大田の養蚕・織物産業が発達し、
後者の伝統は明治の富岡製糸場(世界遺産)に受け継がれる。
その間、草津をはじめとする上州の温泉場も観光客で賑わう。
ただ、古代の榛名山、そして江戸時代(天明)の浅間山の噴火による災害も、三方(東・北・西)を火山に囲まれた群馬の特徴。

戦時中は、中島飛行機が頑張り(栃木に疎開した母も現地の中島飛行機に勤労動員)、それが戦後のスバル360につながる。

さらに自慢の埴輪については、デジタル技術を使って3Dで任意の角度から見れるコーナーもある。

以上を見学するのに2時間強を費やした。


次は隣の美術館のつもりだったが、展示を見てぜひ観音山古墳を訪れたくなり、
群馬の森から出て観音山古墳を中心とした綿貫古墳群の地に向かう。

まずは不動山古墳の頂の不動堂に参拝し、途中の普賢寺古墳と小さな古墳は私有地で入れないので近くを通り、公園状に整備された観音山古墳に達する(写真)。

前方後円墳の頂稜部に上がれて、埴輪が並んでいた中腹部の回廊も歩けて、
石室内部にも入れる(畿内の古墳と違って宮内庁管轄でないのが幸い)。

不動山古墳の前に戻るとそこにバス停があり、程なくぐるりんバスが来たので、
高崎駅より手前の倉賀野駅前で降り、そこから帰京した。

倉賀野駅はほぼ無人で構内に何もないので(トイレはある)、
食事や土産を求めるなら始発駅でもある高崎に戻った方がよい。

ちなみに、リアルな群馬を知るには、まず映画『お前はまだグンマを知らない』から。
※:映画『翔んで埼玉』(第1作)の群馬描写はやや誇張が入っているので注意


目黒区の歴史資料館・美術館

2024年03月17日 | 東京周辺

日帰りの行き先として、気楽に行けてタメになる”郷土博物館巡り”。
関東での行き先は都内23区を優先していて、前回の世田谷区に続いて今回はそこより渋谷に近い(都心寄りの)目黒区。


最寄駅の東横線・中目黒に降り立つ。
中目黒は”おしゃれな街”として変貌中で、駅前にビルやマンションが建ち始めている。

まずは駅前のビルにある日本蕎麦屋で昼食。
ちゃんとした蕎麦屋での、いわゆる”蕎麦通”的な食べ方
(まずは板わさなどをつまみに日本酒を味わい、締めにせいろ)は私はできないので、
少しひねっただけの”田舎もり”(蕎麦が太い)を注文。
ちゃんとした蕎麦屋では天ざるはカロリー的に受け付け難いので、結局は一番シンプルな”もり”になってしまうのが残念
(蕎麦はもりで完成されてしまって、バリエーション化できない)。
※:蕎麦は「もり」か「かけ」。「せいろ」・「ざる」は容器の名称で「かけ」を「どんぶり」というようなもの。

食は栄養バランスを一番大事にしたいのに、もり一択の蕎麦はそれができないから(うどんは可能)。
せめて、最後に蕎麦湯を飲んで蕎麦本来の栄養を吸収する。

ここから中目黒銀座通りを抜ける。
おしゃれな街に変貌中の中目黒だが、路地に入ると戦後に建てた古い木造住宅が残っていて、
新旧入り混じった状態(言い換えれば再開発の余地がある)。


途中、地元鎮守の中目黒八幡神社を詣で、
小学校校舎を利用した受付のないめぐろ歴史資料館(無料)に入る。

目黒の旧石器時代は2万年前からなので、人が住んだのは都内では新しい方。
出土される縄文土器がここでも愛知に比べて豊かなのは、東日本だからだろう。
逆に古墳時代など古代は国府以外は情報量に乏しくなるのも東日本の特徴。

武蔵の中世遺構は、板碑が中心となるのはここも同じ。
あと鎌倉時代に目黒氏がこの地を支配していたという(吾妻鏡)。
在地武家は地名を名字にするから、すでに地名が目黒だったのだろう。
ただ目黒氏は、その後出雲そして奥羽に移るため、目黒の地との縁は早々に切れる。

ということで、目黒という地名は、江戸時代に制定された”五色不動”の1つである目黒不動が由来ではないようだ
(平安時代からある瀧泉寺が”目黒不動”とされたのが江戸時代)。

江戸時代は、江戸(府内)の郊外として観光と農作物の供給で江戸と繋がっていた。
目黒には立派な富士塚が二つあり、そのうち新富士(最上徳内の家にあった)の跡地から、
人が入れる規模の胎内窟が最近発見され、その実物大の復元が館内にあって、見学者は胎内潜りができる。

また、目黒はタケノコが固有の栽培法によって名産だったという(目黒名物はサンマではなかった)。


この近くに「長泉院附属現代彫刻美術館」なるものがGoogleマップにあったので、そこに行ってみる。
丘の上の長泉院というお寺の敷地(斜面)いっぱいに現代彫刻が屋外展示してある。
さらに美術館もあり(写真)、午前と午後(昼休みを除く)に見学できる(いずれも無料)。
宗教法人長泉院は、増上寺系の由緒ある浄土宗の寺で、
そこの住職が個人の意思で若い彫刻家の作品発表の場を提供しているのだという(館内の説明)。
この広い敷地を墓地にすればそれなりに収入源となり、一方作品の維持費がかかるだろうに。
それを広く無料公開することが宗教活動としても意味があるとしたのだ。
その意気や立派。
並んでいる作品も、木像の人物像から、ブロンズ像、抽象的な造形物まで多彩で、
特に現代彫刻は”立体的な形そのもの”との出会い(再会)が促される。


ここから庚申塔のある馬喰坂を下って、山手通りを渡り、目黒区民センターの一画に目黒区美術館がある。
区立の美術館があるのは、裕福な東京23区でも少ない(他に世田谷区・板橋区・練馬区)。
入館料700円を高齢者割(550円)で入館すると「広がるコラージュ」展をやっていて、
日本人作家のコラージュ作品が展示してある。
コラージュといっても、既存の画像素材を貼り合わせただけでなく(今だとPhotoshop使えば色々できそう)
物を立体的に貼り合わせたり、とにかく既存の物を組み合わせて新しい表現世界を構築する試みだ。

特に化石というもの自体が、言ってみれば「生物と鉱物のコラージュ」であり、
生物の形態も化石だと生きた状態とは違った形態になるという視点が新鮮だった。

あと草間彌生の作品もあり、その説明で、幼い時から幻覚・幻聴を体験していたことを知った。
「霊が見える」現象を研究している者として、統合失調症や薬物によらない幻覚体験に興味があるので、もう少し本人について知りたくなった。

同時開催の「飯田善國」展では、彼の金属を使った風を受けて動くマケットという一連の作品がとても興味があった(風車が大好きなので)。

このようにふらりと訪れる美術館だと、かえって新鮮な出会いがあるものだ。


世田谷中心部を歩く

2024年03月10日 | 東京周辺

東京都世田谷区は23区で一番広いので、有名ポイントはいくつか分散しているが(下北沢、自由が丘、二子玉川、三軒茶屋など)
今回は、区立郷土資料館を中心とした世田谷区の中心部まさに地名としての世田谷を歩いた。

主目的は、しばらく休館してリニューアルした郷土資料館で、その地を理解するためにもまずはそこを目指す。

最寄駅は東急世田谷線の上町。
新宿から京王線に乗って上高井戸で世田谷線に乗り換えた。
世田谷線は、上高井戸から三軒茶屋までを結ぶ世田谷の街中だけを走る線。

都電荒川線のように、専用の線路空間を走るが気分は路面電車。
しかもこの路線オリジナルの車両で、小さい二両編成ながら、
座席はロングシートではなく、1人がけ。
ただ椅子の間隔が狭く、私を含む男性は膝を通路側に斜めに出さざるをえない。


上町で降りて(運賃は一律160円で、乗る時にスイカで支払う)、
まずは代官屋敷内の郷土資料館に入る
(新しい施設ながら無料。さすが世田谷は太っ腹)。

約4万年前の旧石器時代からの石器から始まり、石器時代から弥生時代まで、
およそ野川の国分寺崖線沿いの湧水が豊富な台地に人が住んでいたことがわかる。

顔の把手がついている縄文中期(5000年前)の土器(区文化財)が展示されていた(写真)。
世田谷南部の多摩川沿いには古墳が多く、それらの復元模型や副葬品の埴輪類の展示と続く。

中世になると、世田谷の中心部を支配していた吉良(きら)の情報が中心となる。
吉良氏は、三河(愛知県)吉良(吉良町:現在は西尾市に編入)が苗字の地の足利一門で、
その庶流が武蔵の瀬田郷を支配していた(忠臣蔵の吉良上野介は、吉良本家筋)。

戦国期になると小田原北条氏が進出してきて、氏康弟の北条幻庵が吉良氏に嫁いだ娘に宛てた作法心得の文書は、
武家礼法の視点でも貴重な資料(小田原北条氏は、伊勢・小笠原・今川の三礼式家と全て関わりがある)
とりあえずデジカメで全文を撮ったが、誰か翻刻してくれていないだろうか
(当館発行の資料や世田谷区史の資料を探してみたが、見当たらなかった)。

郷土資料館の隣にあるのは重要文化財の代官屋敷で、
彦根藩世田谷領の代官を勤めた大場家の屋敷であった(大場家は敷地に現存)。


代官屋敷の前の通りは、世田谷ボロ市の通りで、そこを突き抜けて北上すると、
寺が2つ並んで、左は真言宗、右は大吉寺という浄土宗の寺。
その大吉寺に、江戸時代の故実家・伊勢貞丈の墓があるという。
※:室町時代の礼式家伊勢氏の末裔
伊勢貞丈といえば、『貞丈雑記』という作法の百科全書の作者で、
武家礼法などの日本の作法を勉強するならまず最初に読むべき本(平凡社の東洋文庫に全4巻で出ている)。
なので、武家礼法を嗜んでいる私が彼の墓を素通りするわけにいかない。

本堂前にある貞丈墓の説明板の QRコードをスマホで開くと、
貞丈の墓の写真が出た。
その墓の姿を頼りに、本堂裏の墓地内を探し、
本堂裏正面の少し奥に傘があるキノコ型の墓を見つけた(写真)。
花も線香もないが、合掌して、感謝の意を示した。


ここからマップのナビを使って、吉良家墓所に行く。
この世田谷の地に来たのだから、その主・吉良家に挨拶したい。

Googleマップでは「吉良家墓所」としか載っていないが、
そこは勝光院(曹洞宗)という立派な寺で(写真)、
吉良家の菩提寺である(書院が区の文化財になっている)。

ここから世田谷線の線路を越えて、豪徳寺の参道入口を右に曲がって、
公園状になっている世田谷城跡に達する。

城跡といっても、吉良家の館(豪徳寺)の端っこの堀や廓のある部分。
それらの縄張り地形は残っているが、公園として通路が整備されているので(堀両側の整った石垣は公園整備用に構築したもの)、山城巡りのようにはいかない。


来た道を戻って豪徳寺の境内に入る。
ここは江戸時代の井伊家の墓所が有名だが、上記したように元は吉良家の館跡。

ただ参拝者は井伊直弼の墓参に来るのではなく、
もっぱら”招き猫”を見にくる(外国人も多い。掛けてある絵馬は中国語だらけ)。
参拝者のほとんどは、招き猫の本尊である観音堂に参拝し、その周囲にずらりと置いてある招き猫の人形の前で写真を撮り(写真)、庫裡で招き猫の人形を求める行列に加わる。

ここの本尊は、我が菩提寺・目黒の五百羅漢寺のずらりと並んだ羅漢像の作者だった。

私は行列には加わらず、寺を出て西に向かって、この地の鎮守・世田谷八幡(なるほど清和源氏の氏神)に参拝する。

かように世田谷は、吉良氏の地であり、それが井伊家に引き継がれた場所だった。


成人の日の日向薬師

2024年01月08日 | 東京周辺

成人の日の今日、20歳の誕生日を丁度2週間前に迎えた甥が、区と母校の成人祝いに出席するため、
スーツ・コート姿で家を出るところを、私が家の前で記念撮影した
(私の時もそうだったが、男子の成人の日は家族でもこの程度の対応。
本人にとっても成人式はかつての友達と集まることの方が重要だった)。


私はそのままカメラを携えて、小田急線に乗って神奈川県の日向(ひなた)薬師宝城坊)に向かう。

日向薬師は、丹沢・大山の麓にある奈良時代創建の古刹で、山の中にポツンとありながら、
重要文化財の仏像がひしめいている素朴で豪華な寺。

その文化財の1つである本尊薬師如来(伝行基作)が、本日8日(初薬師の日)に開帳されるのだ。

以前ここには、大山の下山ルートとして立ち寄ったが、今回は上の写真撮影もあったので、
大山登山は省略して、伊勢原駅からバスで往復した(「丹沢・大山フリーパス」を利用)。

バス終点の日向薬師バス停で、Googleマップを頼りに日向薬師までの歩行ルートを探ったら、遠回りの車道を案内された。
それでも15分で着き(バス停の案内には30-40分かかるとあった)、まずは茅葺きの本堂(写真:重要文化財)の薬師如来と十二神将に参拝(こちらは重文ではない)。

ついで写真左奥の宝物殿に拝観料300円払って入ると、館内左側に丈六の阿弥陀如来坐像、正面に鉈彫りの本尊薬師三尊とその左右に展開する十二神将と四天王のいずれも立像、
そして右側に丈六の薬師三尊が居並ぶ(立像の日光・月光両菩薩は奈良薬師寺と同じく、軽く腰をひねっている)。

これら合わせて鎌倉時代作の計23体もの国指定重要文化財の仏像が三面(視野270°)にひしめく壮観は、
同じ神奈川県の古都鎌倉でも経験できない。
※:本尊の薬師三尊は平安時代作。館内の重要文化財は2頭の獅子頭を合わせると25体で本尊を収めている厨子を含めると26。

開帳日である本日ならではの、この贅沢な空間をじっくり味わう。

ご朱印集めの趣味はないが、丈六の薬師三尊の御影(おすがた)があったので迷わず購入(500円)。

帰りは、Googleマップでは案内されなかった石畳の参道を下った
(Yahooマップだと参道は地図に表記されるが、こちらもルート案内はできなかった)。

これで私の2024年正月の寺社巡りはおしまい。


七福神巡りはしご:2024

2024年01月06日 | 東京周辺

正月三が日は意地でも家で過ごすが、それ以降の松の内(4-7日)は、正月気分を味わいながらも、
ナマった体を動かすのにはウォーキングを兼ねた”七福神巡り”が最適。

東京も地元の谷中をはじめとして、各区ごとにあるほどの密集状態なので、むしろ選ぶのに苦労する。
地元に近い谷中(北区・荒川区・台東区)は幾度も巡り(最近はコロナ禍の2021)、
その後は雑司ヶ谷(豊島区・文京区:2022)山手(港区・目黒区:2023)と巡った。

そこで今年は、数ある都内の七福神の中で、紅一点の弁天を基準に、日本橋(中央区)千寿(千住:足立区)が候補に絞られた。
日本橋は、水天宮の弁天が正月5日までと巳の日にのみ開帳。
もう5日を過ぎているが、6日は幸い巳の日。
千寿は、弁天のみが由緒ある石仏(他は七福神巡り用に設置)。
また日本橋は、人形町駅周囲にこじんまりと集まっていて、都内で最も短時間・短距離で回れる。
それって便利だが、言い換えると、ウォーキングとしては物足りない。
千寿も北千住駅から一周で回れる。
そこでまずは日本橋を巡り、日比谷線で人形町から北千住に移動して千寿を巡る、すなわち七福神巡りの”はしご”をすることにした。


自宅からは地下鉄の乗り継ぎの都合で、半蔵門線の水天宮(弁天)が行きやすいので、そこで降りて、地上に出るともうそこは水天宮の脇。
旗を持った他県からの「歩こう会」の団体さんとかちあってしまい、水天宮は一挙に混雑。
なので本殿参拝は諦め、本日開帳日の弁天参拝の列に並ぶ。
金色の弁天様をガラス越しに拝む(写真)。

ここ水天宮は、都内で唯一と言っていいくらい妊婦の帯祝いなどの安産祈願が有名で、
初詣・七福神巡り以外に赤ちゃん連れの参拝客も繰り出してくる。
いわば日本橋界隈で一番混む神社なので、目的の弁天も拝めたことだし、早々に後にする。


大通りを渡って、松尾神社(大黒=大国主)に行くが、小さい神社に参拝客が長蛇の列となってるので、列の外から距離をとって参拝し(願掛けはしないので、これでok)、
社務所で、日本橋七福神の宝船付きの人形セットを買う(5000円)。

七福神巡りの記念品は、それ専用の色紙に参拝先の朱印を7つ集める形式が多いのだが、一部、七福神人形を販売している所もある。
そしてここ日本橋だけは、七福神人形に”宝船”がついたセットを七ヶ所のどこかで買える(水天宮は売り切れ)。
5000円は安くはないが、縁起物だし、今後もずっと飾っておけるので、色紙よりは飾り甲斐があると思い購入する(最下写真)。
実はこれを買うのも日本橋を選んだ理由。

末廣神社(毘沙門天)も長い行列なので、遠方からの参拝で済ませ、笠間稲荷(寿老人)・椙森神社(恵比寿)は、行列が短かったのできちんと参拝。
小網神社(福禄寿)も大混雑なので、遠方から参拝し、最後の茶ノ木神社(布袋)は人が少なく並んで参拝した(ただし布袋の像は見当たらず)。

以上、3ヶ所ほど行列に並ばなかったので、ここまでで約1時間。
はっきり言って、日本橋七福神は、参拝者がキャパを超えている(遠方の歩こう会の団体まで来る始末)。


正午過ぎたので、昼食にそば店を探すが見当たらなかったので(うどん店はあり)、人形町から日比谷線に乗って北千住で降り、駅前の富士そばで腹ごしらえ。

旧日光街道である商店街を北上し、観光案内所で七福神巡りの地図をもらい、千住元氷川神社(大黒天)を参拝。
こちらは日本橋と違って、ほとんど行列がないので、きちんと参拝できる。
また、各神社で担当の七福神の人形(700円)を売っており、全部揃えると4900円になる(7人を乗せる専用の台(≠宝船)も売っている)。


そこから住宅街の路地を北上して、荒川の堤防下を進むと、大川町の氷川神社(布袋)。
ここには、溶岩で造られた立派な富士塚もあって、上部まで上がれる(頂上には立てない:写真は山頂部からの眺め)。
私は富士塚を見ると、立ち入り禁止でない限り、必ず登拝する。
ここの富士塚には本物の富士山と同じく(山腹を一周する)お中道もあり、一人で富士塚の中をぐるぐる回っていると、それを見て他の参拝者も登りにやってくる。

荒川に並行した路地を進んで達した元宿神社(寿老人)では、地元の人がお茶をサービスしてくれる。


ここからしばらく南下して、千住の鎮守である千住神社(恵比寿)に着く。
ここにも富士塚があるが、残念ながらここのは7月1日の山開きの日以外は立ち入りできない(そういう残念な富士塚が多い)。
ここの恵比寿像は、参拝者が手で像を3回して(男は左、女は右=陰陽の原理)、願をかけたい部位をハンカチなどで撫でるという。
なので、一人当たり時間を要するが、混んでないのが幸いで、マイペースでできる。

現日光街道(国道4号)に出て、八幡神社(毘沙門天)を参拝し、道を渡って、大きな狛犬のある稲荷神社(福禄寿)を参拝。


そして最後の仲町の氷川神社は、今までの七福神巡り用石像でない、もともとある弁天の石像を拝める。ここの弁天は江戸時代の作で、二臂でありながら持ち物が琵琶

でなく、八臂弁天が持つ剣と輪(リン)のようで、さらに像の下に三猿(見猿、聞か猿、言わ猿)が彫られている珍しい形態(右写真)。
三猿があることから庚申塔でもあったらしい。

千寿では各所で担当神の人形を売っているが、すでに日本橋七福神の宝船付き人形を手にしている私は、弁天だけ社務所で人形を買う(下写真)。

千寿七福神巡りは約2時間かかった。
ここから旧日光街道の商店街(千住宿)を通って、北千住駅に出て、ここ始発の都バスで自宅に戻った。


以上、七福神巡りをはしごして、宝船付きの七福神人形と、別サイズの弁天人形を得た(右写真)。

ちなみに、今回の七福神はいずれも14の神社で祀られていて、恵比寿以外は神道の神でないから、今の神社は(維新後と違って)異教の神にも寛容になっているといえる(これが神道本来の態度)。
※:大黒・毘沙門・弁天は仏教に取り入れられたヒンズー教の神。布袋は仏教の坊さん(弥勒菩薩とも)。福禄寿と寿老人は道教の神。これらに神道の恵比寿を加えた「七福神」はアジアの多神教を融合した”メタ多神教”を実現している。七福神こそ、不寛容な一神教に対抗する宗教融合の象徴であり具現である。


西鎌倉の寺社参り:大仏、長谷…

2023年12月03日 | 東京周辺

東鎌倉、北鎌倉と訪れたので、今回は西鎌倉の番(「北鎌倉」以外は私が勝手に呼称)。
鎌倉の中心軸を鶴岡八幡宮・若宮大路・鎌倉駅のラインとすると、その西側は江ノ電沿線であり、鎌倉大仏と長谷観音、そして極楽寺がある。

私が鎌倉を最初に訪れたのは小学校低学年時の家族日帰り旅行で、記憶にあるのは、鶴岡八幡宮、大仏、長谷観音の3つ。
大仏と長谷観音は、寺格で言えば北鎌倉の建長・円覚両寺に劣るものの、観光スポットとしてはむしろこちらの方が有名。
とりわけ鎌倉大仏は、鎌倉唯一の国宝仏であり、”大仏”としての知名度と美的価値の高さでは、奈良東大寺の大仏に次ぐ位置にある。
その意味で、「鎌倉といえばまずは大仏」と言って差し支えない。


鎌倉駅で混雑している江ノ電に乗り換え、3つ目の「長谷」で下車。

踏切を渡って、観光客の列が続く狭い道路を北上する。
このあたりの外食店は「しらす丼」(しらすは相模湾で採れる)がメインなので、私もいつもの”駅そば”や五目焼きそばではなく、ここではしらす丼を昼食としたい。
店に入って、「生しらす丼」にするか「釜揚げしらす丼」にするか迷ったが、日本人にありがちな生食嗜好よりも、私はリスク回避を優先することから後者を選ぶ。
※:もちろん生食による食中毒のリスク。
ご飯の上にどっさり盛られた釜揚げしらすに満足。


さて、大勢の観光客に混じって高徳院の入り口で拝観料を払い(300円)、晴天の下、露座の大仏と対面。
もちろん小学校以降幾度も訪れているが、いつ見ても絵になる、というより誰が撮っても絵葉書的な絵になりすぎ(写真)。
せっかくなので久しぶりに胎内にも入る(50円)。
胎内の内側から見ると、750年前の製造とは思えぬ精巧な工法に改めて驚嘆する(関東大震災で損傷し修復済)。

大仏(阿弥陀如来)の御姿を購入。
また大仏のミニチュアも複数パターン販売されているが、私が小学校の時に土産物屋で買って今でも持っているそれ(最小サイズ)に比べて、造りのレベルが明らかに劣化している。
いくら仏像フィギュアが好きな私でも、レベルが低すぎて買う気になれない(これらよりハイレベルな鎌倉大仏ミニチュアをすでに3体持っているし)。
たかが土産といえど、なぜこうも造りが劣化してしまったのか(中国製の精巧な仏像フィギュアを好んで集めている身からすれば、”中国製”は言い訳にならない)


来た道を戻って、右折して長谷観音こと鎌倉長谷寺に向かう。
門前はちょっとした門前町を形成しており、土産物屋に並んで文化財級の木造老舗旅館もある。

400円の拝観料(Suicaなど可)を払い、石段を登った高台の阿弥陀堂には、中尊の阿弥陀如来の脇に、私が好きな真新しい金色の如意輪観音像もある。
堂内には西洋人女性が一人静かに腰掛けていた。

その横に並ぶ本堂の大きな長谷観音(十一面観音)を見上げ、本堂横の観音ミュージアム(収蔵庫)に入る(300円)。
前立観音とその三十三応現身像がなどがあり(撮影可)、特に観音は江戸期の作にしては造形が精巧(写真)。

高台の境内からは、由比ヶ浜海岸が見渡せる。
石段下の弁天窟に入って、弁天様に供える願掛け用の米でできた硬い餅状の弁天像を購入し(300円)、私は願掛けはしないので持ち帰って、自宅の弁天様(妖艶な中国製)の前に供えた。


長谷観音からさらに西に進み、御霊神社に達する。
本殿周囲には庚申塔や御嶽(おんたけ)信仰の石碑、海から持ってきた霊石を祀る石上神社もあるのだが、境内は撮影禁止となっていて、御霊神社なので霊障を恐れて撮影はしなかった。

ここからさらに西に向かい、虚空蔵菩薩が祀られている無人のお堂に立ち寄り、さらに極楽寺切り通し上にある成就院にも立ち寄る。
坂の上にある門前から振り返ると、由比ヶ浜海岸が見下ろせる(写真)。
鎌倉のほとんどの寺社を訪れた私でも御霊神社からここまでは初めて。


切り通しを下って、江ノ電の極楽寺駅を過ぎると極楽寺に達する。
潜り戸から境内に入れるが、残念ながら宝物館は閉館していた。
極楽寺は、鎌倉では一二を争う仏像の宝庫で、ここが一番楽しみだったのだが、それが見事に叶わなかった。
掲示によると、宝物の公開は春(4末〜5月4週)と秋(10末〜11月4週)の2季に限定され、しかもその期間中の火・木・土・日のみで、しかも雨天は休み。
今年の秋の公開は先月でおしまい。
事前に確認すべきだった。
本堂に参拝したほかは大師堂の如意輪観音を拝み、トイレを借りただけ。

寺の近くにある導地蔵は、堂内に安置されていて室町時代の作なのに保存状態がいい(こういう路傍の仏像もそれなりの質に達しているのはさすが鎌倉)。

極楽寺の仏像を見れたなら、次はいよいよ最後の”南鎌倉”に、と思っていたのだが、極楽寺に再訪(リベンジ)することを誓って、門前にある江ノ電の駅から鎌倉に戻った。


戸田市郷土博物館を見学

2023年11月13日 | 東京周辺

昨日、雨上がりで1桁の気温に下がった中、埼玉県戸田市の郷土博物館を見学した。

戸田市は、荒川を挟んで東京と接する所だが、東隣の川口市が、鋳物・キューポラ、あるいは御成街道の宿場(鳩ヶ谷)で特色あるのに対し(→鳩ヶ谷の博物館)、
1985年に埼京線が開通するまでは東京からの鉄路がなく、一部の人が国道17号(中山道)で通過するだけで(中山道の宿場は戸田にはなく隣の蕨)、知られているのは唯一、東京オリンピックで使われたボート場(競艇も)がある事くらいで、
かように、東京に隣接している割に存在感に乏しい(それって、埼玉そのものに言える?)

そんな戸田市にも郷土博物館があるので、全く知らない戸田市を学ぶべく、そこを目指した。

埼京線の戸田駅で降りると、新興住宅地の駅前は広いロータリー状になっていて、その周囲にサイゼリアと日高屋がある。
まずは見学前の腹ごしらえということで、どちらにしようか迷ったが、ここは埼玉が地元の日高屋にする(かた焼きそば)。

駅前から徒歩10分弱で戸田市立図書館の立派な建物内の郷土博物館に達する(写真)。
入館料は無料で、新興住宅地で競艇もあるので市の財政は豊かなんだろう。

フロアを左から一周するようになっていて、まずは縄文前期の土器と縄文人(6000年前)の頭蓋骨から。
これらについては、スマホアプリ「ポケット学芸員」で説明が聞けるが、館内はフリーのネット環境がないので、
アプリが入っている私のタブレットでは利用できなかった。

もっとも帰宅後に確認したところ、アプリでの説明は、館内の説明文と同じだった。

ほとんど知らない戸田市だが、縄文時代から人は住んでいたようだ。
それに続いて弥生式土器と古墳時代の埴輪が並ぶ(市内に墳墓のある遺跡もちゃんとある)。
地元出土のオリジナル埴輪を見るのはいつも楽しい(写真)。

中世は案の定、板碑(中世南関東に特有)が並ぶが、印象に残ったのは、古代から中世にかけて、愛知の猿投(さなげ:瀬戸焼の前身)や常滑の焼き物がこの地にも流布していたことで、現代まで続く愛知の陶器の生産・流通力に(半・愛知県人として)今更ながら感心した。

近世になると、中山道の”戸田の渡し”が重要ポイントとなり、この渡しを中心に、荒川での水運業が、また漁業も盛んだったようだ(荒川氾濫による水害にも悩まされた)。

近代以降は、東京のベッドタウンとしての発展とボート場と戸田橋の架け替えによる発展が示されている。

同じ階の別室には、所蔵絵画展が催されていて(〜11/19)、”浦和画家”という関東大震災後、浦和に集まった画家たちの作品などが展示されていた。

図書館入口のミュージアムショップコーナーには、過去の特別展のパンフや地元民俗芸能の研究書、学芸員の研究紀要なども販売されていた
(申し訳ないが戸田市の民俗芸能には関心がない。民話集だったら地域を問わず購入した)。
私が各地の郷土博物館を応援するのは、そこで働く学芸員の活動を応援したいからでもある。
歴史学や考古学を大学・大学院で学んだ人たちにとっての数少ない専門職である学芸員の活躍を、
微力ながら一入館者となって応援したいのだ(人類は、文化面においても情報・知識の高度化方向に進んでほしい)。

さらにここには戸田市の散歩コースの地図と埼玉県の博物館の一覧マップがあった。
前者はこの後のお寺巡り(妙顕寺、観音寺)に使い、後者は今後の郷土博物館巡りのありがたい参考にする。


建長・円覚寺の宝物風入れ

2023年11月05日 | 東京周辺

鎌倉の2大名刹である建長寺・円覚寺の宝物(ほうもつ)の「風入れ」(一般公開)が毎年この時期に開催される。
両寺を拝観するならこの時がベスト。
もっとも、過去の宝物ばかりで(新しいものはなく)、しかも美術的にすごい物があるわけではないので(国宝・重文は幾つかある)、毎年訪れるほどではないが、
東京都内でこの時期開催中の「文化財ウィーク」に比べれば、歴史的・美的に価値が高いものばかり。

私にとっては、2015年以来の8年ぶりの訪問となる(→前回記事)。
今回は、半袖のポロシャツ姿で。


横須賀線の「北鎌倉」で降りるとそこはもう円覚寺の門前。
拝観料は、宝物公開ながら通常通りの500円(建長寺も)。
山門をくぐった左横の十王堂には、閻魔様をはじめとする十王が並んでいる。
その北(奥)の選仏場も開いていて、仏様を拝める。
仏殿の宝冠釈迦如来を拝むが、はっきり言って、両寺とも寺格の割には本尊の美術的価値が低いのが残念。
ここから方丈に向かって境内を歩くと、外国人を含めた拝観者が大勢いるのに、境内がすごく静か。
物音一つしない。
人の声も足音もその他の騒音も一切ないのだ。
禅寺の雰囲気をこのように"無音"として感じることができた。

風入れの宝物展示場になっている方丈に上がり、羅漢などの仏画や頂相(ちんぞう)を見学。
方丈の裏には池のある庭園が広がるが、周囲の木々が紅葉していないのが残念。
境内最奥の黄梅院に足を延ばし、小さなお堂の聖観音を拝観(写真)。
こういう何気ない仏像も、それなりに洗練された造りなのはさすが鎌倉(所謂”地方”的ではない)。
隣の立ち入り禁止の続燈庵の門には野生のリスがいた。

前回見学した佛日庵は素通りするも、国宝建築の舎利殿は素通りするわけにはいかない(+300円)
今回は、隣の建物で舎利殿の詳しい建築解説のビデオを視聴でき、その後に中には入れない舎利殿と内部の仏像を眺める(8年前と同じ)。
円覚寺だけで2時間費やしたので、急いで建長寺に向かう。


建長寺も、仏殿法堂内の諸仏を拝観し、真新しい大庫裡に上がって宝物を見学。
ここも方丈の裏に庭園があるが、やはり紅葉の時期(11月下旬)がベストシーズンと思った(緑の中の赤は補色対比ですこぶる映える)。

建長寺は、最奥の半僧坊以外の塔頭(たっちゅう)は見学できないので、1時間あまりでここを後にし、巨福呂坂を下って、鶴岡八幡宮に横道から入る。


参拝者が大勢いる拝殿の前で、私だけが大きな柏手の音を響かす。→神社参拝のコツ
八幡宮の宝物館(200円)を見学し、授与所で静御前の土人形(写真:1000円)を買う。
神社ではお札の代わりに、こういう神社ゆかりの人形があったら買うことにしている。

そして境内にある鎌倉市立鎌倉国宝館に入る(700円)
ここは小さいながら、鎌倉周辺の仏像が多数展示されているので、鎌倉で仏像を見たければ外せない(鎌倉彫刻の代表作・円応寺の初江王は寺になくここに展示)。
なのでここも今日の目的地の1つだった。

ここの常設展示(鎌倉の仏像)は、スマホからQRリンクで展示の音声解説が聞ける(要イヤホン持参)。
特別展は、県内国府津の宝金剛寺の本尊を含む寺宝の展示だった。

以上、鎌倉中心部の宝物見学をはしごした。
西鎌倉(大仏・長谷観音)


二子玉の玉川大師

2023年10月01日 | 東京周辺

10月1日(都民の日)を迎えたが、まだ暑くて山に行く気になれない(汗びっしょりになる)ので、近場の行き先を探していたら、二子玉(にこたま)にある玉川大師・玉眞院は地下洞窟の仏像群で有名なことを失念していたことに気づいた。
より正しくは、行った気になっていたが、訪問先の映像記録・記憶が全くなく、実際には行っていないという結論になった(かくも人間の記憶っていい加減)。
すなわち、都内の仏像探索の寺の中で行き忘れていた。


田園都市線の二子玉川(ふたごたまがわ)で降りるのは、この地から多摩川に注ぐ野川を歩いた時以来(→野川を歩く1)。
ここは世田谷区の西南端で東京23区の端っこという”場末の地”だったが、再開発が進んでむしろこのあたりの中心地に変貌した所。

まずは腹ごしらえと、事前に「二子玉川 ランチ」で検索したら、1000円越すおしゃれな店ばかり。
その中で1000円切る五目焼きそばがある町中華を目指して駅前のビルを通り抜ける。
※:私の選択肢からラーメンが消えて久しい

古い商店街に出たところにあるその店には少なくない人数の行列が。
やっぱり地元民はこういう所に並ぶんだ。
だがそのため私は昼食にありつけず、かといって商店街の店で昼時にガラガラの店に入るのも気が引ける。
店を探して歩いているうちに、玉川大師に着いてしまった(写真)。


靴を脱いで堂内に上がり、中の人に言われるままに、本堂内陣に沿って歩いて薄暗い中、本尊(大日如来)や不動明王などを拝む。
そして地下霊場の説明書きを読んで、500円払って、サンダルに履きかえて、暗い階段を降りる。
この地下霊場は、大日如来の胎内であり曼荼羅でもあるという。
中は文字通り”真っ暗”で、善光寺の戒壇巡りを思い出す。
右手で壁に触って、それに沿って暗闇を進む(幸い天井は高いようで頭をぶつける心配はない)。
やがて、薄明かりの空間に達し、そこからは、四国八十八ヶ所と西国三十三ヶ所の霊場を示す弘法大師像・観音像を中心とした石仏群がひしめく。
それぞれの石像の前にはリンやガンモモがあるので、適当に間を開けてそれを鳴らす。
ある場所では、釈迦の大きな涅槃像があり、天井もしっかり模様が彫ってある。
自宅にもある愛染明王や吉祥天像の前では覚えている印を結んで真言を唱えた。

最後に階段を上がって本堂に出る。

洞窟内は撮影禁止なので、堂外に出てカメラ(ライカ!)のシャッターを押したら、知らぬ間に考えられない設定になっていた(どこかのボタンの押し間違い程度でなる設定ではない)。
考えられない設定なので、その設定を解除する手順がわからない。
※:シャッターを押すとピント調整しながらの動画撮影になってしまう。もちろん通常の動画撮影のボタンは別にある。ここに揚げた写真はアプリでその動画から静止画にしたもの。

デジカメを含む電子機器は霊がいたずらをするという(霊は電磁波として存在しているためらしい)。
私は、かように寺とかをよく巡るので、そういう機会に遭いやすいのかもしれない。→文末の追記参照


そのカメラのまま、地元鎮守の瀬田玉川神社を参拝し、隣の慈眼寺はに行くと山門の四天王像が現代芸術家の作品だった。
そこからスマホのナビを「静嘉堂文庫」に合わせて、その指示通りに住宅街を進む。

そしたら「旧小坂家住宅」という公園風の所に出たので、寄り道して中に入ると、立派な民家があり、ご自由にお入りくださいと書いてある。
玄関の扉を開けると、中から私よりやや年上そうな女性が出てきて、屋内を説明するという。
それに甘えて、靴を脱いでまずは和室の居間で説明を受ける。

この家は、小坂順造という長野市出身の実業家の別荘で(本宅は都心)、高台から多摩川と富士を望む景勝の地で、建物自体も和洋折衷で意匠を尽くしている(区指定有形文化財)。
順造の3人の息子(善太郎、善次郎、徳三郎)はいずれも政治家となり(大臣経験)、長女は美濃部亮吉元東京都知事の妻となった(後に離婚)。
※:コメントの指摘を受けて訂正。そもそもこの三男がここを地盤に議員になり、運輸大臣にまで登り詰めた。

敷地には土地の高低を生かした回遊式の庭園もあり、今は区が管理して案内付きながら無料だが、庭を整備すれば入場料を取ってもいい所だ(世田谷にはこういう邸宅が多そう)。

ただそこの人がいうには、今は静嘉堂文庫は閉まっており、公園自体も日曜は入れないという。
それを聞いて静嘉堂に行くことは諦め、ナビを二子玉川駅に変更した。


駅周辺であらためてランチの店を探したが、私が求める駅そば・町中華レベルの店(1000円未満の単品で済ませられる)がなく、諦めて帰ろうと田園都市線の改札に入ると、なんと改札内に「渋そば」を発見。
「渋そば」は渋谷駅で必ず利用した駅そば。
なるほど渋谷から出る東急線沿線は「渋そば」があるのか。
※:小田急線沿線は「箱根そば」。京王線沿線は「深大寺そば」に統一してほしい。
迷わず店に入り、ちくわ・かき揚げのW天そばを注文。
ここの存在を知っていたら、往きの改札を出る前に寄っていたのに。

これで安心して今後も二子玉に来れる。

おっと、その前にカメラの設定を直さなくては(→とりあえず「初期設定に戻す」メニューを選んだ)。
追記:改めてカメラを見直したら、本体上面に押したことのない小さなボタンがあり、それを押すと上記の設定になっていた。要するに無自覚での操作であって、霊の仕業ではなかった。


柴又に行く:帝釈・寅・矢切

2023年09月10日 | 東京周辺

台風崩れの低気圧が去って、夏に戻った感のある日曜。
低山に行くにはまだ暑いので、都内の博物館見学でもしようかと、行くあてを探した。

23区内から候補にあがったのは葛飾区にある「葛飾柴又寅さん記念館」。

普段なら、今更”寅さん”でもないし…となるのだが、たまたま就寝前のビデオ鑑賞で「男はつらいよ」第1話を見たばかり。
今なら、寅さんが頭の中にいる。

それに加えて、寺巡りの対象となる柴又帝釈天(日蓮宗)は、柴又七福神の1つで毘沙門天を祀っているという。
1つ前の記事にあるように、我が部屋に毘沙門天をお迎えしたばかりなので、これはいい機会。
こういう機会の”巡り合わせ”(共時性)は易学的に意味がありそうなので、大切にしたい。


ということで、京成線に乗って高砂で乗り換え、1つ先の柴又駅で降りる。
駅構内が撮影に使われたので、もう駅のホームから「寅さん」の存在感があり、
改札を出た駅前には、旅立とうとする寅さん(渥美清)と彼を見送る妹さくら(倍賞千恵子)の銅像が距離を置いて立っている(写真)。
まさに二人の別離のロケシーンに遭遇しているかのよう(寅さんは永遠に旅立ってしまった)

観光マップを入手し、帝釈天の参道に入る手前で、左にずれて、町中華で五目焼きそばを食べる(800円)。
参道には、映画にちなんだ名物的な定食を出す店などがあるのだが、定食は私には量が多すぎる。
むしろ訪問地の町中華で五目焼きそばを食べるのが、私なりの楽しみなのだ(微妙に具材が異なる)。

映画にも出てくる参道(団子屋の「とらや」も健在)は、それなりに観光客で賑わっている。
なにしろ、この界隈は国の「重要文化的景観」に都内で最初に選ばれた地で、観光に値する。


参道を越えてまずは帝釈天(題経寺)にお参り。
帝釈堂内に上がれて、厨子に収まった帝釈天を拝む(ここにも神社式の二拍手をする人がいた)
堂外壁の木彫と和風庭園が有料で見学できるというので400円払って見学した。
堂の外周に彫られた木彫は、昭和初期の地元の彫刻家たちによるもので、法華経のシーンをかなり精巧に描いている(写真はその1つで「長者宅の火災」)。
堂の外壁をすっぽり覆う保存措置がされており、いずれ100年もすれば自治体レベルの文化財になろう。
庭園には降りれないが、渡り廊下で一周できる。

御朱印はあるが御影は販売されてなかった。


寺を出て、江戸川に向かって歩いて、山本亭という古民家(カフェ)を通り抜け、公園内の寅さん記念館に入る(500円)。
まずは寅さんの生い立ちの立体紙芝居があり、先に進むといよいよ映画の世界となって、「とらや」の店部分と内側の居間、そこから続く裏庭そして隣のタコ社長経営の印刷所のセットが続く。
これらは実際に撮影に使われたセットで、この記念館に保存されているのだ。
第1話と第2話を見たばかりなので、とらやの居間にある階段(写真:寅さんが上がるときに梁に頭を数回ぶつけた)が気になり、階段の上を覗くと、階段の上がった所まであり、その先の2階部分はなかった。

印刷所のセットでは、当時の活版印刷の設備があり、我が家にも昔、同じ金属製の活字を使うタイプライターがあったのを思い出した。

柴又の街並みさらに柴又駅の再現の所で、現在の京成金町線(高砂と金町を結ぶ)が、間にあるのが柴又駅1つだけのやけに短い支線で、さらに高砂で乗り換える時、同じ会社の支線なのに、他社の線に乗り換えるような改札を2回通る理由がわかった。
この線は、元は帝釈天の庚申の日の参詣用に作られた「帝釈人車鉄道」という人力の鉄路で、ロープウェイの箱程度の車両(6-10人)を人が後ろから押すのだ(明治32年)。
そのジオラマと復元された車両も展示してある。
それが後年、京成電鉄の支線として吸収されたわけである。

実に柴又は帝釈天によって成り立っていた所で、境内には湧水もあって、「帝釈天で産湯を使い」ということは住民にも恩恵があったのだろう。
あと監督の山田洋次ミュージアムが別空間にある。


記念館を出て、同じ公園続きの江戸川の堤防に進む。
「男はつらいよ」のシーンは江戸川の堤防上を歩く寅さんで始まる。
寅さんが旅先から帰ってくる時、まずはここを歩いて、じっくり地元の風景・匂いを味わいたい、という気持ちはよくわかる。

その堤防の先、江戸川に「矢切の渡し」が今でも営業している。
寅さんが旅立つ時、この矢切の渡しの舟に乗って柴又を後にするシーンが第1話にあるが、現実には向こう岸は千葉県市川市の畑で旅のルートになる場所ではない(柴又駅に向かう方が現実的)。
でも絵になるシーンだったので、ぜひ渡し舟に乗ってみたい(一人200円)。
今ではモーター付きの渡し舟なので、直線で対岸に向かえばあっという間なのだが、そこはあえてS字状に進んでくれて、川の風景を味わえる(写真)。
江戸川は両岸に護岸壁がなく、自然状態になっているのがまたいい。

舟が進む川面には、遠目に見て数十センチはある魚があちこちで飛び跳ねる。
船頭に尋ねると、ボラだという。
魚ながら、水中から外(空中)に超出したいと志向する種の中から、我々の先祖たる陸生動物が誕生したのだ。

舟が対岸(千葉県)に着いたのでとりあえず降りるが、畑の中ですることもないので、また次の便で戻る(すなわち往復400円。営業時間内に客がいるタイミングで出る)。
川を渡るだけの短い舟旅だが、こうして人が歩けない水面を移動するのも、貴重な経験をした感じで楽しい(川や湖の舟巡りも趣味にしたいと思っている)。


往路を戻り、途中参道の店で団子を土産に買い、柴又駅に戻った。
今夜も「男はつらいよ」を観ることにしよう。


大口真神式年祭に参列

2023年04月29日 | 東京周辺

武州御岳山(920m)の頂上にある御嶽神社(東京都青梅市)は、狼を「大口真神(おおくちまがみ)という御神体として祀り、その信仰圏は関東一円に広がっている(写真:右の樹木のある山が御嶽神社のある御岳山。左の鋭峰が奥の院。2006年日の出山より撮影)。
※:御嶽神社そのものの公式な祭神は記紀神話系だが、本殿奥の最奥に大口真神社がある。

昨年6月にここを訪れた折り、今年の4月15日から5月21日まで「大口真神式年祭」が開催されると知り、楽しみにしていた。→記事

その神社で販売していた書籍『オオカミの護符』(小倉美恵子)、『オオカミは大神』(青柳健二)を買って読み、御嶽神社と秩父の三峯神社を2大中心として関東山地周辺に広がる狼(ニホンオオカミ)信仰への興味に火がついたから。

もっとも、元は高校生の時、西多摩にある全寮制の高校近くの畑に立っていた黒い狼が描かれた大口真神のお札を見た時が興味の始まりだった。

御岳山は都内では高尾山と並ぶ山岳信仰の聖地で、高尾山がそうであるように、御岳山も修験道の影響を受けてはいるが(昨年の記事はこちらの視点)、この狼信仰は修験道とは別個のオリジナルな信仰である点で注目に値する。
山岳信仰において非修験要素が強いのは珍しく、そういうわけで、この時期(GW)に限って大口真神像を拝観できる式年祭に、是非参列したくなったわけだ。

 今年の長いGWも天気がいいのは4月30日くらいしかないようなので、名古屋から帰った翌30日に早速、早起きして御岳山に行くことにした。

昨年同様8時頃に家を出て、新宿・青梅で乗り換えてJR御嶽駅に着く。
そこからバスとケーブルカーを乗り継いで、山上の歩道で御師(おし)の家々の軒先を通り、最後に長い石段を上ると(階段でない女坂があるのを失念)、御嶽神社に11時開始の部に間に合うタイミングで到着。

参列料2000円を払って、式年祭のお札(参加証代わり)と宝物殿の拝観券をもらう。
社殿隣の信徒待合室に行くと、参加者は私を含めての4人(参列希望者が行列を作っていたらどうしようという心配は杞憂だった)。
案内に従い、建物内の地下をくぐって、拝殿内に座る。

神官が二人出てきて、太鼓が強く打たれ、また我々参列者が頭を下げ(揖という姿勢)、神官の修祓を受ける。
そして拝殿奥の本殿に向かって神官が「おー」と狼の遠吠えのような発声の警蹕(けいひつ)とともに、階段を作法通り(一段ずつ両足になって)上って本殿の扉が開かれる(その間、参列者は揖の姿勢のまま)。
※:小倉美恵子氏の表現

神官と共に参列者も二拝二拍手一拝の拝礼をし、その後拝殿内を進んで、その先端で階段の上にある扉が開かれた本殿を仰ぎ見る。
そこには3体の「おいぬ様」(オオカミ像)がそれぞれ作りも色も異なって並んでいる。
普段は固く閉じられている扉内の、この大口真神像を拝観することが参列した目的。
その場で賽銭を投じて、改めて大口真神像に直接拝礼をする。

拝殿の席に戻り、ついで「おー」という警蹕とともに扉が閉められ、太鼓がなって、最後は神官のお言葉で終わる(締めて25分)。
こういう儀式に参列することにこそ意味がある。
とりわけ神道では、神とのコンタクトが宗教経験としての全てで、それだけで心が浄化される(教義などの理屈は不要)。

終了後は、本殿奥の大口真神社(写真は、狛犬の代わりの狼の石像)、さらに御岳山信仰の本体といえる奥の院(男具那峰1073m)を遥拝し、宝物殿を見て、参道沿いの店で名物の蕎麦を食べた。

下りはケーブルを使わず、舗装されたつづら折の坂道を降りた。
この下りで、前回は慣れない靴のため足を痛めたが、靴が足に馴染んだ今回はスタスタ降りれた。
御嶽駅前で名物の刺身こんにゃくと地元産の山葵を買って、今晩の肴にする(こんにゃくをわさび醤油につけて食べる)。


北区飛鳥山博物館再訪

2023年03月30日 | 東京周辺

すでに散り始めている今年の桜を見逃すまいと、江戸時代からの桜の名所である北区王子にある飛鳥山(あすかやま)公園に行った。
王子には飛鳥山公園の北を流れる音無川も桜の名所で、いわば山と谷の両方の桜を鑑賞できる。

王子に行った時は、音無川沿いの中華飯点で五目焼きそばを食べるのだが、
あいにく定休日のため、チェーン店でない駅そば「王子そば」でゲソ天そばを食べる。

飛鳥山に登る無料パークレール「アスカルゴ」は乗りたい人たちの長蛇の行列なので、徒歩で登る。
山上の桜は葉桜になりかけているが、コロナ禍から解放された人々が、桜の木の下にゴザを敷いて飲み食いを楽しんでいる(写真)。
こういう規制なく花見の宴を楽しめる情景はいいものだ。
さらにここには子供用の広場もあるので、若い家族連れも多い。

この公園内に博物館が3棟あり、その1つが郷土博物館である北区飛鳥山博物館(他は紙の博物館と渋沢史料館)。

以前にも訪れたが、最近始めた”郷土博物館巡り”の目線で改めて見学する(高齢者割で150円)。
ここは建物が新しく、また設計も洗練されていて、例えば階下に降りる階段も微妙に湾曲して、歩くにつれて視界が垂直だけでなく水平にも展開する。

北区では旧石器時代の展示は3万年前からで、昨日の松戸より5000年古い。
南関東の海岸線の遷移がきちんと説明されていて、北区に限定されない背景的知識をもとに展示を見ることができる
※:郷土博物館は、地元についての地質学・考古学・歴史学・生態学などの学術的情報をわかりやすく教示する教育施設だ。自治体の意気込みや学芸員の力量の発揮の場でもある。

北区は武蔵野台地と古東京湾だった東部低地の境界(京浜東北線)を跨いでいるため、原始時代から人が住んでいて、厚さ4mにもなる日本最大級の中里貝塚があり、その剥ぎ取り標本が展示されている(右写真の右上)。
説明によると、貝塚は単なる食べ残した貝殻などのゴミ捨て場ではなく、命あったものたちの埋葬の場でもあったらしい。

その貝塚で発掘された縄文人の全身骨格が展示されており(写真の中央上。縄文人は上の前歯が前に出ずに、下の前歯とぶつかっているのが特徴)、説明によると同じ場所から胎児の骨も埋葬されていたという(昨日の松戸は幼児だったが、こっちは胎児)。
また地元で発掘された全身の土偶が展示されているのも、豊かな縄文文化が広がった関東ならではか。

続く弥生時代は、東日本のたいていの博物館では、縄文時代と古墳時代の”つなぎ”のサラッとした展示で終わるが、ここは縄文時代に匹敵するくらいに充実していて、弥生時代では集落ごとの争いがあったとして、その争いの再現映像が弥生時代の住居の中から覗ける仕組みになっている。

古墳時代の地元発掘の埴輪も展示され、律令時代には北区は武蔵国豊島郡の郡衙が置かれたため、米倉である”正倉”の実物大の復元など、郡衙についての展示がある(国衙や郡衙でない所はこの時代の展示が乏しい)。
そこに掲示されていた律令時代の武蔵国内の郡の分布図を見ると、当時の郡境が現在の東京都境になっていることがわかる。
すなわち明治の廃藩置県は、試行錯誤の結果、結局は古代の郡境を復活させたわけだ。

平安末になると秩父平氏系の豊島氏がこの地を支配し、室町末に太田道灌によって滅ぼされるまで、ずっとこの地の主人であったので、中世の展示は豊島氏が中心となる。
かように歴史的に見て、北区こそ本来は「豊島区」を名乗るべきなのだ(北区内に豊島という地名も残っている。そもそも東京23区で単なる方位の区名は北区だけ)。

江戸時代になると、将軍吉宗がこの地を気に入り、桜の名所とさせた(なので、ここは江戸時代から桜の花見のメッカ)。
その様子を示す映像を復元された御座所で腰掛けて見ることができる。
さらに区の北辺を流れる荒川の生態や洪水を前提とした生活形態の展示もある。

別の階では、この地に暮らしていたドナルド・キーンの企画展をやっていた。

かように、ここは周囲の区立博物館より設備も展示も充実している。
また、今でこそ北区一の繁華街は赤羽だが、訪れる先が多いのはむしろここ王子だ。