最近、「グレート」を色々と聴き比べている。ガーディナー=ウィーンフィルのライブを聴いてみた。素晴らしい演奏だった。ガーディナーのきめ細やかな解釈の上に成り立った透き通った響きにライブ特有の熱気もあり名演奏だと思う。しかし、やはりフルヴェンの演奏には全くもっておよばない。何が違うのか?「精神性」といってしまえばそれまでだが、もっと現実的な面でいえば「低音の迫力」だと思う。グレートの4楽章に現れる4連発の音型は、恐らく弦楽器はオールダウンのボーイングで弾いていると思うが、フルヴェンの演奏ではここが地鳴りというか大砲というか「これでもか」とばかりにバスが響く。実際にフルヴェンがコントラバスの配置にこだわっていたという話を聞いたこともある。他のフルヴェンの録音をどれを聞いてもバスはよく聴こえる。てか聴こえ過ぎ?普通の倍は強化されているようだ。カラヤン時代に有名なベルリンフィルの重低音は、フルヴェン時代にすでに形成されていたといってもいい。
ガーディナーを初めアバド、ラトルのような最近の指揮者は、低音をスマートにすることで全ての音が透き通って響くように勤めている。恐らくこれは肥大に肥大を重ねたカラヤンオーケストレーションに対する一種の反動なのだろうが、フランスものはともかく、ドイツものはやはりバスの迫力があればあるほど説得力がある。というより、ベートーヴェンやブラームスはあからさまにバスのパートを強化しているのだから。これからフルヴェンを鑑賞する時は、是非低音を気にして聴いて頂きたい。
ガーディナーを初めアバド、ラトルのような最近の指揮者は、低音をスマートにすることで全ての音が透き通って響くように勤めている。恐らくこれは肥大に肥大を重ねたカラヤンオーケストレーションに対する一種の反動なのだろうが、フランスものはともかく、ドイツものはやはりバスの迫力があればあるほど説得力がある。というより、ベートーヴェンやブラームスはあからさまにバスのパートを強化しているのだから。これからフルヴェンを鑑賞する時は、是非低音を気にして聴いて頂きたい。
その通りですね。
フルトヴェングラーの魅力の一つは、
MONOあるいはライブという条件でありながら、
高低のコントラストが大きく、色彩感が豊かであるという点ですね。
戦時中でも、最近のDELTA CLASSICSの盤ですと、
よりカラフルになり、その魅力が明瞭になっています。
私は最近、フルトヴェングラー関係の書物を調べているのですが(原書で読めれば一番いいのでしょうが・・・)、ある評伝の一節に、「作曲家としてのフルトヴェングラーは、指揮者としてのフルトヴェングラーに比べ、巨大な世界を構築しようとしながら、その緊張の重みに耐え切れなかったのではないかと思えてならない」とありました。人間としてのフルトヴェングラーも非常に興味をひかれています。