朝から昨日の続きでラトル指揮のカルミナのビデオを観た。ふー、もう何も言うまい。いや、やはり言わせてもらう。
おいおいラトル君、リズム感とスピード感だけで音楽を作ってはいかんよ。君の演奏は確かに知的、いや知的っぽいのだが、バラバラに分解された上に過度に味つけられたスコアがただ積み上げられただけで、その継ぎ目を埋める事もなく全体の構築感ってものがない。コーホー先生の言葉を借りれば「有機的」でないんだ、だから長い曲全体を聴いた後に訪れる充実感ってものがない。あるのは局所の瞬間的な快感だけだ。まあ短絡的に言えば「スポーティー」なんだな。だから確かに「爽快」な演奏ではある。そこは認める。水泳の北島選手の「キモチイー、超キモチイー」の世界である。しかし聴いていると涙が自然に流れたり「凄いものを聴いた!」みたいなカタルシス感がゼロだ。ラトラーの人々はこれこそが新しい最先端の音楽であり、私のようなフルヴェン教信者は過去の遺物を愛でる好古家でしかなく、せいぜいカビの生えたモノラル録音を聴いてろってことなのだろうが、こちらも絶対に譲れない。(過去のNHK芸術劇場でラトル、ハーディング特集を放送したとき、録音までだしてフルヴェンのドンジョバンニを「間違っている」と貶していたのを思い出した。)
そこで、耳直しにフルヴェン指揮ウィーンフィルによるハイドンのV字交響曲(88番)を聴くことにした。シュツットガルトにおける1951年のライブ録音です(写真)。凄い凄過ぎる、このエネルギー、躍動感。演奏にぐいぐい吸い込まれるというべきか。最終楽章のコーダ前のパウゼの絶妙な間、そしてそこから奈落へ落ちて行くような急降下が始まる。これもただ示し合わせたことだけによるテンポの変化ではない。ものが落ちて行くときというのは初速がどうあれ序々に加速しながら落ちて行くのだ。人間の感情だってスイッチが入って突然盛り上がったりしない。神経物質の伝達とフィードバックには時間がかかるのだ。
結局フルヴェンとラトルのどちらが良いとか正しいとかは個人の好みだとは思うが、軽量で高速であればそれがクールで最先端と思っている現代社会の浅薄な考え方が音楽にも表れているように思えてならない。
おいおいラトル君、リズム感とスピード感だけで音楽を作ってはいかんよ。君の演奏は確かに知的、いや知的っぽいのだが、バラバラに分解された上に過度に味つけられたスコアがただ積み上げられただけで、その継ぎ目を埋める事もなく全体の構築感ってものがない。コーホー先生の言葉を借りれば「有機的」でないんだ、だから長い曲全体を聴いた後に訪れる充実感ってものがない。あるのは局所の瞬間的な快感だけだ。まあ短絡的に言えば「スポーティー」なんだな。だから確かに「爽快」な演奏ではある。そこは認める。水泳の北島選手の「キモチイー、超キモチイー」の世界である。しかし聴いていると涙が自然に流れたり「凄いものを聴いた!」みたいなカタルシス感がゼロだ。ラトラーの人々はこれこそが新しい最先端の音楽であり、私のようなフルヴェン教信者は過去の遺物を愛でる好古家でしかなく、せいぜいカビの生えたモノラル録音を聴いてろってことなのだろうが、こちらも絶対に譲れない。(過去のNHK芸術劇場でラトル、ハーディング特集を放送したとき、録音までだしてフルヴェンのドンジョバンニを「間違っている」と貶していたのを思い出した。)
そこで、耳直しにフルヴェン指揮ウィーンフィルによるハイドンのV字交響曲(88番)を聴くことにした。シュツットガルトにおける1951年のライブ録音です(写真)。凄い凄過ぎる、このエネルギー、躍動感。演奏にぐいぐい吸い込まれるというべきか。最終楽章のコーダ前のパウゼの絶妙な間、そしてそこから奈落へ落ちて行くような急降下が始まる。これもただ示し合わせたことだけによるテンポの変化ではない。ものが落ちて行くときというのは初速がどうあれ序々に加速しながら落ちて行くのだ。人間の感情だってスイッチが入って突然盛り上がったりしない。神経物質の伝達とフィードバックには時間がかかるのだ。
結局フルヴェンとラトルのどちらが良いとか正しいとかは個人の好みだとは思うが、軽量で高速であればそれがクールで最先端と思っている現代社会の浅薄な考え方が音楽にも表れているように思えてならない。