Wilhelm-Wilhelm Mk2

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言わせてもらおう、フルトヴェングラー協会の迷走!

2005-05-03 | Weblog
今日は時間があるので、前々から怒り心頭だった事を書かせてもらう。このブログを読む人なぞは大して存在しないだろうが、これは組織腐敗という人類の歴史における永遠のテーマに対するささやかな抵抗である。
世界には幾つものフルトヴェングラー協会がある。フランス、イギリス、アメリカ、そして日本。これらがインターナショナル的に連合団体なのかどうかは知らないが、どの団体もフルトヴェングラー未亡人を名誉会長として一般には市販されないフルトヴェングラーの録音をプレスして会員に配っている。その中には世界初出のもの時にはあり、世界のフルヴェンマニアには垂涎のものも多かった。
さて、私は中学の段階ですでにフルヴェンに目覚めていた訳だが、高校時に同じくフルヴェン好きの音楽の教師に紹介されて日本フルヴェン協会に入会させてもらいそれ以来の会員である。前会長さんのお宅に緊張しながらお電話をさしあげ、入会を申し込んだことは忘れられない思い出の一つである。私が入会した頃は、半年に一度ほど、裏表一枚にびっしりに次回頒布の録音に関する内容やら近況やらを書きつめた会報と注文したCDが送られてきた。その梱包も新聞紙やら広告を利用した「手製」のもので、頒布される録音以上にその協会の質素で素朴で非営利な態度が嬉しく、これぞ「フルヴェンの会」だと自分が会員であることに誇りをもっていたのものだ。
そして時がながれ、前会長さんが亡くなられ新しい会長が選出された。この流れは一般会員には知る由もなく、代替わりのことはまったく気にもしなかった。しかし、まず会報ががらっと変わった。センスのない冊子と妙な権威付けが多くなり、何が一番吃驚したかと言うとフルトヴェングラー以外の録音販売も斡旋し始めたのだ。それと同じ頃、私は新しく立ち上げられた別のフルトヴェングラー愛好会からの入会勧誘も受けた。内部でもめ事があって分離別派ができたことは一目瞭然だった。恐らく原因の一端はこれであろう、フルヴェン以外の指揮者の斡旋を指示する会長の発言に関するHP をご覧ください。会長自ら堂々と宇宿氏という指揮者を協会を通して応援すると言っている。宇宿氏が一体どういう指揮者なのかは知らないが(いや噂はよく聴くが)、別にこれがカラヤンでもバーンスタインであっても話は同じだ、会長さんが何に感動されようとそれは自由です。別に宇宿氏を超一流のレベルの指揮者と尊敬してもいいし、フルヴェンから近衛氏(初代会長)を通して同じ考えをもつ指揮者だと妄想してもいい、それは全く個人の自由だ。しかし、それを自分が会の責任者(あくまで責任者だあってボスではない)であることを利用して、フルヴェン協会を通してバックアップしようなぞと公言するのは言語道断。会報で紹介しようと別に欲しくない奴は買わなきゃいいと言われるかもしれないが、それでは会の趣旨と違う。フルヴェン協会の目的は、クラッシック愛好家が自分の好みを持ち寄って紹介しあう場ではなく、フルトヴェングラーの埋もれた録音を掘り出して、愛好家同士で愛でようという会のはずだ。少なくとも私はそう思っていた。だから非常に失望したし、大事なものを汚された気さえした。現在の協会内部の状況がどうなのか知らないが(会報は送られてくるが)、現在の日本協会にはかなりの不信感がある。だから現在海外の協会に入っている。
しかし大きくみると、組織、特に宗教団体なぞはこういう感じでもともとの趣旨から逸脱してくのだなと痛感した。

ショックだ・・・デンボの声が変わってる

2005-05-03 | Weblog
「おじゃる丸」を久しぶりにテレビで見たら、お気に入りだったデンボ(伝書ホタル)の声が全く変わっていた。あの頭の先から抜けるような高音がすきだったのに。そして私の物真似のレパートリーでもあったのに。ショックだ。そういえば、サザエさんのワカメちゃんの声も全く変わってしまっていた。あれもショックだった。

フルトヴェングラーとラトル

2005-05-03 | Weblog
朝から昨日の続きでラトル指揮のカルミナのビデオを観た。ふー、もう何も言うまい。いや、やはり言わせてもらう。
おいおいラトル君、リズム感とスピード感だけで音楽を作ってはいかんよ。君の演奏は確かに知的、いや知的っぽいのだが、バラバラに分解された上に過度に味つけられたスコアがただ積み上げられただけで、その継ぎ目を埋める事もなく全体の構築感ってものがない。コーホー先生の言葉を借りれば「有機的」でないんだ、だから長い曲全体を聴いた後に訪れる充実感ってものがない。あるのは局所の瞬間的な快感だけだ。まあ短絡的に言えば「スポーティー」なんだな。だから確かに「爽快」な演奏ではある。そこは認める。水泳の北島選手の「キモチイー、超キモチイー」の世界である。しかし聴いていると涙が自然に流れたり「凄いものを聴いた!」みたいなカタルシス感がゼロだ。ラトラーの人々はこれこそが新しい最先端の音楽であり、私のようなフルヴェン教信者は過去の遺物を愛でる好古家でしかなく、せいぜいカビの生えたモノラル録音を聴いてろってことなのだろうが、こちらも絶対に譲れない。(過去のNHK芸術劇場でラトル、ハーディング特集を放送したとき、録音までだしてフルヴェンのドンジョバンニを「間違っている」と貶していたのを思い出した。)
そこで、耳直しにフルヴェン指揮ウィーンフィルによるハイドンのV字交響曲(88番)を聴くことにした。シュツットガルトにおける1951年のライブ録音です(写真)。凄い凄過ぎる、このエネルギー、躍動感。演奏にぐいぐい吸い込まれるというべきか。最終楽章のコーダ前のパウゼの絶妙な間、そしてそこから奈落へ落ちて行くような急降下が始まる。これもただ示し合わせたことだけによるテンポの変化ではない。ものが落ちて行くときというのは初速がどうあれ序々に加速しながら落ちて行くのだ。人間の感情だってスイッチが入って突然盛り上がったりしない。神経物質の伝達とフィードバックには時間がかかるのだ。

結局フルヴェンとラトルのどちらが良いとか正しいとかは個人の好みだとは思うが、軽量で高速であればそれがクールで最先端と思っている現代社会の浅薄な考え方が音楽にも表れているように思えてならない。