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無意識日記
宇多田光 word:i_
 



今月頭に発売になった漫画「ワンピース」の最新巻で「おや?」と思わせる場面があった。私は「このクラスの扱いのキャラクターでこの雑なキャラデザ? さしものキャラデザ神尾田も遂にネタ切れか?」とそこで一旦訝ったのだが、いやはや、やっぱり尾田は天才でした。私が浅はかなだけでしたとさ。キャラデザ神、健在どころかますますパワーアップやん。詳しくはネタバレになるので控えます。

20年近く続く連載がその名の通りひと繋がりになっているのが同作最大の魅力だが、勿論キャラクターの力も半端ではない。恐ろしいのは脇役チョイ役に至るまでこれでもかと1人々熊キャラクターデザインを描き分け続けている点だ。モチーフがあからさまなものも大量にあるとはいえ、漫画家というのは大抵自分の得意な方向性でしか画力を発揮できないものなのにこの人はまさに全方位。苦手な分野なんてあるんだろうかと疑いたくなる。

その秘訣のひとつに「美男美女にこだわらない」というのがある。美男美女というのは、よく言われるように「平均顔」な為、美しくしようとすればするほど似通っていく。中央値に収束しているんだからね。だから美男美女の描き分けは難しく、髪型を変える位しかなくなる。天才尾田だってその例外ではなく、美女・美少女がアップで会話を続けるとどちらがどちらだか時々わからなくなる。

しかし、大抵の場合尾田は「異形のもの」を描きたがる。いわば際物だ。そうなると途端にバリエーションが豊富になる。何しろ中央値に収束せずに幾らでも全方向に拡散できるのだから。お陰でどんどんキャラデザがデフォルメ化していくのはご愛嬌だが。

そういう事が出来るのも、尾田が「異形のもの」を心底愛しているからだ。こどもが漫画を描き始める場合、かなりの割合で美男美女から描いていく。夢や理想が投影されるから当然なんだが、それが極まるとあだち充や高橋陽一のように「描いた本人ですらキャラクターの判別がつかない」事態に陥る。あだち充キャラ当てクイズ画像は本当に笑える。もとはテレビのクイズ番組だったのかな。

人が美男美女を愛せるのはある意味当然である。だから描きたくなるし、観たくなる。しかし尾田は逆方向を選んだようにみえる。「偏り」「癖」「拘り」といったともすればネガティブと捉えかねない要素を総て「個性的な魅力」として愛せてしまう。でなくばあそこまで気合いの入ったキャラデザを何百何千とは生み出せまい。そうやって、中央から大きく外れる「半端者」たちを拾い上げられるかどうかで、作品の魅力が変わっていくのである。

…拾い上げる? うん、そうだね、この話の続きはまた次回にでも。

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LADY GAGAの歌う"Milion Reasons"という曲を聴きながら『ともだち』を思い出してた。"Give me million reasons to...." という繰り返しの歌詞の乗せ方に『ともだちにはなれない にはなれない』に通じるセンスを感じた。勿論歌詞にはきっかりしたストーリー、メッセージがあり支離滅裂とは程遠いあたり如何にも知性派のGAGAらしいのだが、一旦"reasons"の拍の詰まった歌い方に耳を囚われると、歌詞のストーリーなんかそっちのけで「あ、またreasonsが出てきた、あ、またreasonsだ…」という風にいちいち"reasons"の発音が気になっていってしまう。至ってシリアスな曲調なのに、そこだけやけにサービス精神旺盛というか、Popなのだ。そう、こういうのが今の感性で言うところの"Pop"であって、トラディショナルな所謂"J-Pop"にはあまり無いものだ。『ともだち』には、どこかそういったモダンな感性を感じる。

『道』もそうだが、『ともだち』も(そして『荒野の狼』も)楽器陣が"楽曲を盛り立てる"という事をしない。空間をタップリとって、少ない音数でフックラインをくすぐるように投げかけてくる。大仰な感動の代わりに、いつついたかわからないような心の足跡を残していく感じだ。今のアメリカのチャートにはそういう曲がやたら多い。時代の空気というヤツだろうかな〜。『Fantome』が売れた理由という訳ではないだろうが、米国で同作を買った人がこの私の感じた「意外に時代の空気を捉えている」感覚を共有しているかどうか、訊いてみたいものだ。

日本は携帯電話だけでなく、商業音楽でもガラパゴス化した文化圏を形成している。それは何も悪い事じゃない。要はそこに住んでる人に気に入られればいいのだから。それを考えると、今まででいちばん日本語の割合の多いアルバムであるにも関わらず、今まででいちばん「外の国から来た」感が強いのが『Fantome』であるともいえる。その原因を、トラディショナルなトレンドセッターであるロンドンという土地に求めるのは安直に過ぎるが、真実は安直か慎重か複雑か横柄かに気分を払わない。誰か直接ヒカルに訊いてくれると、いいだろう。


そうしている間にも私の頭の中では『ニハナレナイ・ニハナレナイ・ニハナレナイ・ニハナレナイ』『ギミミリオンリズンズ・リズンズ・リズンズ…』と同じフレーズが何度も回っている。これが狙いだとしたら、2人とも大したもんだ(みんな知ってるよそんなこと)。にしても、GAGAってヒカルより年下なんだねぇ。すっかり忘れていたでござるよ。

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男子テニスツアーファイナル。いや〜錦織圭凄いね。プレーぶりを見てないから何とも言えないんだけどスコアだけでも十分か。二週間続く四大大会と違って、しっかりとオーガナイズされたツアーファイナルは、毎回スタミナ切れで四大大会を勝ち切れない錦織にとって最も狙うべきタイトルだ。このあとチリッチとジョコビッチを連破すれば決勝で再びあいまみえる…なんていうシナリオを描きたくなるが、猛者しか居ない今大会がそんな筋書き通りに行くかどうか。まだまだ予断は許さないだろう。

卓球の平野美宇、もう報道量は減っているのだろうか。中国超級に参戦中だが、勝ち星がなかなか上がらないので日本のメディアの人たちもトーンダウンかな。恐らくプレーぶりを見ていないのだろう。勝った試合は完勝に近く、負けた試合も最後までどちらに転ぶかわからないものもあり、中国一軍半相手(つまり、国内順位4〜10位の選手たち)だとほぼ互角といえる内容だ。いやはや、強い。今や福原や石川とも五分五分に近い。来年の全日本選手権を獲る勢いである。今年2位だったし。石川も「(美宇は)中国選手に較べればまだまだ(笑)」なんて言ってる場合じゃないよ。一方親友の伊藤美誠の方は中国選手不在のオーストリアオープンをサクッと優勝。こちらも段違いの強さになりつつある。2人とも東京五輪の女子単決勝で対決する気満々だろうねぇ。


こうやって長年見ているスポーツで世界トップの活躍をする選手が出てくるのをみると「時代が変わったなぁ」と思わずにはいられない。特に男子テニスは錦織圭が突然変異過ぎて戸惑うばかりである。80年代はトップ100に誰か居たっけ先週は誰か二桁だったんじゃないのという感じだった。90年代にウィンブルドンベスト8に入った松岡修造でさえ、ギリギリでトップ50に入った事がある位。今やってる「世界5位が1位と激突」なんていう試合がテニスファン以外の注目を集めるだなんて皆無に近かった。思えば遠くへきたもんだ。

遠くといえばKEYTALKの新曲(なんだっけ、"Love Me")を聴いてつい口をついて出た言葉が「若いねぇ。どんどんやりなさい。」だった。もうおっさん通り越して縁側のじいちゃん目線である。彼らだってもう若手でもないだろうに、その気恥ずかしいメロディーを恥ずかしいと思わなくなっている自分に思わず吹き出したよ。いやでも実際いい曲なんだけどね。聴いてみるといいよ。

こうやって時間がどんどん過ぎているというのにこちらの感性は止まったままどころか老いつつあるというのは、何というか、それに抗う気が起こらない事こそ本当の老いだなぁと痛感している。老化は気分から。そんな気分。

なので、この日記で敢えて怒ってみたりしてるのも、わざとらしいのかもしれないな。毎度ながら3DVRの技術者の皆さんにはごめんなさいなんだけど、でも、怒り方もどちらかといえば老害タイプな気がしなくもない。うーん、自分は結局老人なのか。でも20代の頃から「実年齢と芸風が重なるのは55歳くらい」だと思ってきているので、その頃まではのほほんと気の向くままに過ごすと致しましょうかね。その頃はヒカルもアラフィフかぁ…。

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「マイ・ウェイ」から『道』を聴くと歌を通じてこの母娘が会話をしているみたいで、そうね、感動的。改めて、へんな親子だわ(笑)。照實さん居場所あるんかいなと思ってしまう位。

この2人の歌の威力に触れるにつけ、テクノロジーは常に「ただのメディア」であって欲しいと思わずにいられない。極論すれば、ヒカルに近所のライブハウスに来て貰ってアカペラで歌って貰えればテクノロジーなんて何一つ要らないのである。いやライブハウスの照明をつけるための電力の安定供給の為にどれだけのテクノロジーが投入されていると思っているんだ、と言われそうだけど、勿論そういう事じゃなく。河原や原っぱで歌って貰ってもいいけどヒカル風邪引いちゃうじゃん。そこは冷暖房加湿器完備の室内で歌って欲しい。

それさえ叶えば、マイクもアンプもスピーカーも、パソコンもインターネットもダウンロードもハイレゾも何もかも要らないのだ。至高の価値がそこにある。宇多田ヒカルの生歌だよ。普段はそれが叶わないからわざわざとんでもない値段のスタジオ代を払って最高の環境で歌って録音してCDやら配信やらのフォーマットにして我々の元に届いたのを様々な再生機械で不完全ながら再現して毎日を過ごしているのだ。何度でも言おう、目の前でヒカルが歌ってくれるのならテクノロジーは要らない。それが無理な時に慰めの助けになってくれるからテクノロジーは素敵なのだ。

…何を言いたいのかここの読者ならもうお分かりだろうからもう何度も筆を重ねる事はしない。ただただ、生歌の生中継が楽しみ。これに尽きるんです。14年前、自分は『20代はイケイケ!』を高音質高画質で体験したくてナローバンドからブロードバンドに切り替えた。なんだかんだで実際に切り替わったのは当日だった。間に合って本当によかったよ。テクノロジー万歳ですよ。

ホノルルに行って『In The Flesh 2010』を観られたのも飛行機が無事に飛んでくれたお陰だ。ありがとう航空会社の人たち。ありがとうライト兄弟。

それを言い始めたらライブ会場の運営の人たちや電車の運転手さんとかにもお礼を言わねばなるまい。どうもありがとう、ありがとう。


…キリがないけれども、こうやって世の中のあらゆる人たちに感謝したくなるのも、どのケースであっても最後にヒカルの歌が聴けたからだ。それに尽きる。いいですか、それに尽きる。テクノロジーは、文明社会はその為に機能していると言っても過言ではない。いいですか、言い過ぎとちゃうんですよ。…やばいこいつ、目が本気だ。(笑)

勿論、何かそれ以上のものを呈示する自信があるのなら、見せて貰えればいいのですけれども。くれぐれも、過信のないように、お願いしますデスよ。

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パンプキンズ・ユナイテッドのニュースに目を丸くしている(@_@) 自分にとっては、Rolling StonesとLed Zeppelinのカップリング・ツアーより大きなニュースだ。後は吉良さんが生き返る位しか思いつかない。それについて語り始めたら心底ウザいので記すだけに留めておこう。

生きていれば何とかなるもんだ。インゴ・シュヴィヒテンバーグが参加できない事だけは残念だが、彼は20年前に自死しているからな。無理。どれだけ見た目が変わろうが指が動かなかろうが声が出なかろうが、生きてるってだけで誰かを喜ばせる事が出来たりする。

だから圭子さんが居なくなったのは、許せない。何より、誰より御本人がいちばんそう思ってるかもしれないが、もう確かめる術もない。

これからヒカルは、藤圭子の幻と共に生きていく。『Fantome』と言い切ったのだから、覚悟は出来ている。どこかの時点で許しが欲しいのはヒカルの方かもしれないが、そうなったらその都度『嵐の女神』に耳を傾けるべきか。嗚呼、貴方には敵わない。

その物語をPopsファンとも共有する道を選んだ、というのが業に満ちてるというか何というか。『母というテーマはすごくPop』とヒカルが言っていたが、「だからPopular Musicに携わっているんだ」と言われたらぐぅの音も出ない。"世間"に対する怒りと憎しみさえ覚える。

怒りも憎しみも、しかし、愛着無しには有り得ない。幼少の頃からの無力感がここまで肥大すると天晴れというしかないが、大人になった今はそれはただ「生き方」である。

生きていれば何とかなる。生き方もそれに伴って多様である。「いつか親子でステージに立つ日を」と夢見られる道ではもうないけれど、まるで、どこかで違う道に入り込んでしまったようだけれど、これはこれで、そう悪くなかったと言える日が来るかもしれない。黙っていても仕方がない。ただ出た目に合わせてまた賽子を振り続ける日々享受したいと思う。

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宇多田ヒカルが藤圭子の「マイ・ウェイ」をカバーする案に対する検討。

率直に言って、「ヒカルはまだその域に達していない」。たとえ歌ったとしても、藤圭子の偉大さが浮き彫りになるだけだろう。

藤圭子という人は、歌の幅は狭いが(といえるほど曲数聴いてないのでにわかなりの印象だと思っておいて欲しい)、歌を自分の領域にまで引き込めた時の威力はそれはそれは凄まじい。幅広いジャンルに対応する能力は美空ひばりや宇多田ヒカルの方が上だろうが、ツボに入った時の歌唱は…やだ、マリア・カラスとかロニー・ジェイムズ・ディオ(「ジョジョの奇妙な冒険」に出てくるディオ・ブランドーの名前の由来と言われている人物だ)のような「世紀の大歌手」くらいしか比肩できる人が居ないわん。国内37週連続1位の記録持ってるんだからそれだけでも十分世紀の大歌手だけど、国際基準、世界史基準でみてもそう、って事ね。ただ、アレサ・フランクリンみたいな包容力を伴ったカリスマ性はないかな…いやそんなの個性に過ぎないのですが。

「マイ・ウェイ」はそんな藤圭子の魅力が全開である。2013年当時の追悼特集の折(熊淡代替放送な)にも触れたが、バッハの「小フーガ」並みに“超名曲なんだけど使われ過ぎてて鳴らすとギャグにしか聞こえずシリアスに取り合ってもらえない”楽曲である「マイ・ウェイ」を歌ってここまで聴き手を感動させられるのは並外れた力量である。今のヒカルにこれが出来るかというと、確かに昔の歌が雑に聞こえ始める程に歌唱力は上がっているのだが、まだ弱い気がする。

いや勿論、かなわなくても、聴き劣りしても、チャレンジしてくれるだけで涙ぐむほど嬉しいのだこちらとしては。「歌ってみたい」とヒカルが言うのなら「是非!」と食い気味に応えよう。


それ(歌唱力の問題)とは別に、もうひとつ「ヒカルが藤圭子の「マイ・ウェイ」を歌わない方がいいかもしれない」ポイントがある。それは歌詞である。

「マイ・ウェイ」の原曲は勿論"My Way"で英語曲だ。それに日本語の歌詞をつけて歌っている。藤圭子の歌っているバージョンは、作詞家の宇多田ヒカルとしては「ここはこういう歌詞の乗せ方はしない」と言い出し兼ねない箇所が幾つかあるのではないか、そう感じている。

『Hymne a l'amour 〜愛のアンセム』を思い出せばわかりやすい。日本人の慣れ親しんだ「愛の賛歌」ではなく自ら訳詞した『愛のアンセム』としてシャンソンのスタンダード・ナンバーを歌った。"My Way"に関しても、ヒカル独自の「マイ・ウェイ」を訳詞・作詞するべきではないだろうか。ヒカルが納得する日本語詞が書ける日まで「マイ・ウェイ」のカバーは待った方がいいんじゃないかと、思う訳である。勿論これもまた、今のママで歌ってくれて、全然構わないんだけどもね。

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『30代はほどほど。』で何を歌うか案。

かつてのストリーミングのパフォーマンスでは、例えば『05以上06未満』では『Passion - after the battle -』を、そのひとつ前では『Be My Last』の弾き語りを、それぞれ生放送ではなかったものの披露した。『20代はイケイケ!』でも『COLORS』と『Simple And Clean』だったから、基本的にはその時プロモーションしている楽曲を披露している。

では、来月12月9日の時点でプロモーションする楽曲って何?となるとよくわからない。というのも、『人魚』が本格的に稼働を始めるのが来年3月からだからだ。ちと早過ぎんじゃないかと。

となると、浮遊してくるのは年末モード。「今年を振り返る」と称して歌うならやはり今年いちばんヒットした『花束を君に』になるだろうな。

とと、それがまずオーソドックスな回答。もうひとつ別の道がある。

『05以上06未満』では『Passion - after the battle -』以外にもう1曲歌った。『20代はイケイケ!』でも『COLORS』と『Simple And Clean』に加えてもう1曲あった。そう、カバー曲だ。

本家が拒否したので歴史に埋もれる感じになってしまっているのが残念、というか勲章かもしれないな、GREENDAYの『Boulevard of Broken Dreams』は絶品だった。『20代はイケイケ!』では、真冬の1月だというのに井上陽水の『少年時代』を歌唱して我々を和ませた。常々、生歌においては、ヒカルの場合、オリジナルよりもカバー曲の方が評価が高い傾向がある。『WILD WIFE』のベストテイクに『Hymne a l'amour 〜愛のアンセム』を選ぶ人も多かろう。『Let It Snow』を聴いて「無修正でこれかよ!」と思った人も居た筈だ。『I Love You(Bohemian Summer 2000)』や『With Or Without You(MTV Unplugged)』に関しては言うまでもないだろう。

今回、生ストリーミング、生パフォーマンス。曲数にもよるが、ここは是非カバー曲もみてみたい。聴いてみたい。

では何をカバーするか、だが。これはもう候補が無限にある訳で好きに選んでくれたらよい。しかし、私としては是非歌ってみて欲しい歌が1曲ある。藤圭子の『マイ・ウェイ』である。

今回の『30代はほどほど。』にアクセスする殆どの人がシェアラジオ等を使って『ファントーム・アワー』を聴いているだろうから、あのテイクについては皆知っている事と思う。あれを今のヒカルが歌ったらどうなるか、という純粋な興味があるのだ。結果、カバーのカバーのカバー、みたいな事になるんだが、いい歌の前ではそれは些細な事だろう。


しかし、それを実際にやるとしたら果たしてうまくいくのだろうか…という話からまた次回、かな。

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3DVR云々はもう眼中に無いので、今の興味は「果たして生パフォーマンスで何を歌うか」の一点に尽きる。

今回復帰してテレビで沢山歌ってくれた。『桜流し』、『花束を君に』、『ともだち』、『道』、そして『真夏の通り雨』。何れも甲乙つけ難く素晴らしかったが、物凄く贅沢を言えば、総て収録済みの放送だったのだ。今のヒカルが収録で素晴らしい歌を残してくれるのはいわば当たり前で、そういう意味では驚きはない。

しかし、今回は『生パフォーマンス』だというのだから期待が高まる。確かに、残るテイクのクォリティーはやり直しが出来る収録の方だが、生放送は観ている方の緊張感が違う。固唾を飲んで見つめる時間。そりゃもう、一発勝負でいい歌が聴けた時のカタルシスといったら語るまでもないだろう。

ハプニングも楽しい。送り届ける方は気が気じゃないだろうが、Mステでの『Flavor Of Life』のようなアクシデントも、観ている方は色めき立つ。やはり、中継とはいえ「ライブ」というのはことのほか魅力的なのである。

ではさて、何を歌うか。30分しかないというのならずっと歌ってくれても4曲とかそんなんだろうかね。現実には、最後に1曲だけだろう。

まず、どんなセッティングなのか、だ。『20代はイケイケ!』はグランドピアノにストリングス・セクションと豪華だった。今回はどうなんだろう。もしちんまりとしたセットなら、ピアノで弾き語れる『真夏の通り雨』、ハーピストとドラマーさえ居れば何とかなる『人魚』などが候補になる。

ただ、タダの、無料の生放送となるとそれはそれは大勢の人がやってくる。そういうライトな空気で最大公約数的な選曲をするなら『花束を君に』になるだろう。勿論、この曲を歌うにはそれなりの編成が必要になるので、ハードルは高いが。

昔の曲、という訳にもいくまいなぁ。最大公約数というなら『First Love』を歌えば泣く子も黙るだろうし33歳の『First Love』が聴けるだなんてという見方もできるが、『Fantome』A'『復帰作にして大ヒット』という評価が確立されているだけに同作の歌を歌うのを期待されている。やはりここから歌うべきだろう。

しかし…っと、他にも案があるんだがそれについてはまた次回かな。

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昔、「ダウンロード販売もライブチケットも、“アクセスする権利”を買っているという点ではほぼ同じもの。今後区別はなくなっていくだろう」みたいな趣旨の事を書いた覚えがあるが、それに倣えば、原則論として、だがダウンロード販売は本来「著作権使用料支払いシステム」になっていないといけない筈だ。

iTunesを例にとると、日本では、昔は著作権保護機能つき…いや、再生機器を限定したファイルを150円で売っていた。ダウンロードしたパソコンとそれと紐付きされたipod&iphoneでしか再生出来なかったのだ。今は250円で著作権保護フリー、無制限回数のダウンロード権&複製権(私的利用目的)を得る事ができる。

これを拡張すれば、著作権使用料をiTunes Storeのような配信販売サイトから直接徴収する事が出来る。消費者からみれば、手軽に著作権使用料を払って著作物を利用する事が出来る。

例えば、漫画の中で歌詞を引用する場合に、コマ割の外に著作権許諾の一文が掲載されているのを見た事があるかもしれないが、あれを直接配信サイトで販売するのだ。再生機器限定やDRMフリーと並んで「商用利用権500円」みたいなノリで(本当はもっと高い)権利を売るのである。

これが普及すれば、例えば個人運営のインターネットラジオ局などは透明性が増す。一回きりのストリーミング放送使用料やポッドキャスト使用料などを配信サイトで払えば著作物をそのまま利用できる。つまり、一曲に対して利用形態に応じて様々な値段設定がされていると思えばよい。

システム的には、簡単という訳ではないが不可能ではない筈だ。これによって著作物の利用は爆発的に増加すると思われる。同人誌での二次利用も、大手をふって出来るようになるかもしれない…いや現実的には「キャラクターを利用して新しい創作物を作って売る権利」は高額過ぎて割に合わないだろうけれど。

今は、著作権使用料の徴収に脅えて、自由な創作活動が妨げられかねない状況だ。これを発展させれば、人の楽曲のフレーズを流用して新しいトラックを作るカバーやサンプリングやマッシュアップが、商業的影響を伴って活性化されるだろう。

オンラインでの音楽の販売は確かに旧来の商習慣を駆逐しているが、本来であるならば、上記のようなシステムをいち早く構築して更なる発展を遂げるべきだった。しかし、20世紀に巨大な成功を収めたシステムからの脱却には、時間が掛かっている。シェアラジオのような、技術的には何も困難のないサービスですら2016年まで待たなければならなかったのだから、全世界的な著作権使用料支払システムが稼働するのはひょっとしたら来世紀まで待たないといけないかもしれない。それくらいに現行のシステムは巨大なのである。しかし、夢は語っておいて損はない。未来への予測は往々にして外れるものだからだ。出来れば私らが生きている間にそのキッカケでも掴んでくれたらと思わずにいられない。ミッキーマウスもそれを望んでくれたらいいのに。

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梶さんが何やら質疑応答で混乱しているので私も把握出来てないんだけど、つまり「『30代はほどほど。』仕様のヴァーチャル・リアリティ・ゴーグル」が発売されるのっ!? よし、買おう。でも生中継は2Dで見るけど(笑)。

だってねぇ、落ち着いて歌聴いてられないようなガジェットは、全部邪魔。ヘッドフォンやイヤフォンですら煩わしいと感じたりするのに(重さとかコードとか肌触りとか)メガネよりデカいもん着けて歌声に耳を傾けるとか罰ゲームだよ。コンタクトレンズサイズになったらまた呼んで(それは極端)。

繰り返すが、コンテンツ次第なのだ。14年前と同じ基本1人喋り&アコースティック・パフォーマンスなら、3DVRはおろかマルチアングルも要らない。歌に集中するというなら俺なんか目ぇ瞑っちゃうかもしれない。最早0D。それは流石に勿体無いけれども3DVRを使うより遥かに確率は高い。だってあーた、宇多田ヒカルの生歌の中継だよ!? 21世紀の歴史に残る音楽家の生パフォーマンスをリアルタイムで聴きましたと後世に自慢出来るのだから気掛かりなのはただ1つ、途中で通信が途切れないかどうかだけだ。

例えば今回のコラボ・テクノロジーが「5G」とかだったらどうだったか。こんなに高画質で高音質なのに音飛びひとつコマ落ちひとつ無い、なんて事になったら有料でも勿論観る。てか逆に凄い値段の有料にして視聴者数を絞った状態で快適にストリーミングに触れたい。そういう企画は「宇多田ヒカルらしくない」から率先して却下だが、でもそっちの方が嬉しい。


でも、まだあと1ヶ月近くあるからね。その間に3DVRやマルチアングルを活かせる企画が出来ればよい。或いはもうあるのかもしれない。繰り返すが(くどいぜ何度も)、前回と同じ内容なら要らない、と言っているだけだ。違う内容でそれの焦点が定まっているなら大歓迎である。

しかし、「生配信のみ」だけは、どんな内容だろうといただけない。3DVRやマルチアングルといった「ユーザーの選択で体験が変化する」コンテンツが一回こっきりってリスクが高すぎる。テレビのカメラ・スイッチングを我々素人がやったら高い確率で「失敗」する。せめて、12月9日までに、ヒカルは出てこなくていいから(出てくれるなら嬉しいですが)、何度かテスト配信をしてコツを掴ませて貰わないと。人によっては既にヘッドマウントやリモコンの操作に慣れていたりするかもしれないが、一回こっきりの『30代はほどほど。』のフォーマットがどんなものであってもすぐに対応出来ると言い切れるんだろうか。私持ってないからわかんないんだけども。

本当なら、生パフォーマンスを生中継するんだったら「全国101局のラジオ局が同時生中継」がいちばんインパクトがあったろうに。枠なんて10分でいいのだし。いや放送枠10分確保するのどんだけ大変なんだって話ですが。

それは夢の見過ぎとしても、9月10月にテレビで聴けたあの上質のパフォーマンスを低い音質で聞かされるのだけは避けたい、という気分はどうしても拭えない。いや勿論低音質だからってヒカルの歌が聴けるならもうそれで十分なんだけど、わざわざ3DVRだマルチアングルだとそういうのに帯域を割いておきながら低音質だったら流石に怒りを覚える。嗚呼、そうね、ゴーグルを買うより、USBDACでも買ってパソコンやガジェットのストリーミングでも高音質で聴ける準備を整えておこう。そっちの方がずっと大事だ。もうね、何度でも言うよ(…やれやれ)、「何が大事か忘れてやしませんか?」って。




…これで「生パフォーマンス」が生歌じゃなくて「宇多田ヒカル、覚えたての手品をストリーミングで初披露」とかだったら萌える。滅茶苦茶萌える。種を探してヘッドマウント&マルチアングルだな。こういうのなら楽しい。でももう皆生歌と思っちゃってるから今更無理だろうな…さて、どうしたものですかねぇ。

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うむ。何度見ても『30代はほどほど。』、説明が多過ぎる。色んなものが過剰過ぎて、全然ほどほどじゃねーじゃんね。もっとコンセプト自体をほどほどで統一すればいいのに。クレームが来ても「ほどほどに頑張りますんで」って返すとか。(炎上案件)

でも実際、トップページ位はもっとシンプルでよかった気がする。『イケイケ!』のYouTube貼って「あの感動をもう一度」とか何とか(そんなベタなフレーズでなくていいけどなw)一言だけ書いとけば。3DVRやマルチアングルはおまけでしょ? どっちが主役?

まぁ今更言っても仕方がない。あとは滞りなく実施されるのを願うだけだ。

しかし、30分か。どういう狙いでそんな短さにしたんだろうね。その中で3DVRやら何やらの説明もしなきゃいけないんでしょ。そんな暇あったら1つでも多くファンからの質問に答えて欲しいよ。貴重なヒカルの時間割くんだから。3DVRなんて5年もすりゃ陳腐化(或いは衰退)してんだし(おぉ、言い切ったねぇ)。ファンからすりゃその時貰えた一言でそこから10年は引っ張れる。ヒカルからリプライ貰った事あるってだけで話が弾む。いい思い出になるってそういう事でしょ。邪魔すんなって感じ。(言うねぇ(ニヤニヤ))

放送が3時間あって途中で中だるみするかもしれないから何かスパイスを、ってんならわかる。1人喋りって大変だからね。でも今回は30分でしかも生パフォーマンスもあるだなんて、挨拶して一息ついたらもう歌でしょ。流石に何を考えてるのかわからないわ。30分全部スタジオライブ、って企画ならわかるんだけども。

あと3DVRが応募抽選ってのは何なんですかね。アクセス人数に技術的な上限があるって事かい。いいかい、今はSNSの時代なんだ。幾ら面白い体験をしたからって、それを他者と共有する所までいかないと価値は半減なのよ。倒錯してFacebookに写真を上げる為に旅行に行くのが現代人なのよ。3DVRを応募抽選にするなら、当選者に体験共有の手段まで用意しないと見れなかった人の不満が噴出するだけで終わるよ? 大丈夫?


…ま、文句あるヤツぁ大人しく2D通常版見とけって事ですね。そっちの方が楽しかった、っていう感想が大半を占めたら、痛し痒しだなぁ…。なんとか、全方位好評価でいけるアイデアってないもんですかねぇ。

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昨日だったか、オリコンが漸く"ダウンロード・ランキング"の発表を始めたそうな。その栄えある初回のアルバム・ランキングの第1位に輝いたのが『Fantome』という事で、誠にめでたい。

とは言うものの、勿論本音は「今頃かよ」(笑)。いよいよ日本でもストリーミング・サービスが本格化してくるかというタイミングでダウンロードランキングなんて今更過ぎる。これから市場の縮小が予想される分野だというのに。

だとしても、やらないよりは遥かにマシなのだから、賞賛もまた本音だ。あと1ヶ月早く集計してくれていれば『Fantome』は5週連続1位だったのかどうなのかという興味もあったが、それはまた次のアルバムで獲ればいい記録だ。次の自分のアルバムが発売になるまで第1位に君臨し続けれればずっと…っていう荒唐無稽を過去に実現させてしまった人が居てそれが母である事実に戦慄する。冗談みたいな母娘である。

未だに、「ダウンロード価格が150円のままだったら歴史が変わってただろうな」という気持ちは拭えない。過去にも書いたが、150円ならライバルはペットボトルやカップラーメンである。Pepsi Nexや南アルプスの天然水、そして今日は日清カップヌードルである。それが現行の250円なら同価格帯は数百ページが掲載された漫画雑誌がライバルになってしまう。一曲5分でその満足度を与えられる曲なんて皆無だろう。いや『桜流し』なら100倍の値段でも即購入しますけど。1000倍だとちょっと考える。(無駄にリアリスティックに弱気)

要は、スマートフォンでワンタップ(わんたっち?)で曲を買う習慣さえ身につけて貰えれば、もっと曲は売る事ができたんじゃないか、っていうね。ペットボトルを買うくらいの気軽さ。それがあればね。なんか、勿体無い事をしたなぁと。アメリカじゃ1ドル、日本円にして100円だよ。そりゃ買うっちゅうねん。

という訳で日本では、ダウンロード文化は盛り上がりのないまま衰えていきそうだ。ポテンシャルは高かった。着うたをみればわかる。800万ダウンロードとかあったのだ。その熱気を引き継げなかったのが総てかもしれない。

このまま行くと、CDランキングは音楽ファンの支持によってどこらへんかで衰退が収まり、ダウンロード・ランキングの方が先に終わる、なんて事にもなりかねない。なんだかカセットテープとMDの関係みたいだけど、それが業界の体質の反映なのであれば、歴史がまた繰り返されてもなんら不思議ではない。最初の1位が宇多田ヒカルで、最後の1位も宇多田ヒカル。そうなったらそうなったで、また歴史に名を残せるな。それが嬉しい事なのか嘆くべき事なのかどうかは、流石に計りかねるけど。

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では話を戻しまして。『30代はほどほど。』。

「よくある質問」にハッキリ「生配信のみ」と書いてある。正気か。よくある手でこのあと「ご好評につき/多数のご要望にお応えして、DVDリリース!&有料アプリ配信!」に切り替わるかもしれないがそれは一旦脇に置こう。

最大の懸念は、たった30分の枠で新しい技術を導入されては肝心の中身に集中できない事だ。ヘッドマウントに慣れてる人なら兎も角、生パフォーマンス中にマルチアングル的な動きを入れられるとなったら落ち着いて歌も聞いてられない。そんなのその人の自由だと言われそうだが、本当にそうやって聴いて欲しいの? 少なくとも歌の最中はあらゆる特殊効果をオフにするべきでしょう。

まだアーカイブスが残るのならわかるよ。生配信はじっくりと通常版で鑑賞して、録画で後ろに回り込んだりして「この時はこうなっていたのかー」と探ったりというのなら楽しい。ヘッドマウントもゆっくり購入出来るし、当選者のみにする必要もない。「生放送でこれが出来るから凄いんだ!」って見せつけたいのかもしれないけれど、今回に限って言えばこちらが観たいのは宇多田ヒカルであってあなたの技術力ではない。そんな所に力を入れるなら通常版の配信の安定性・高画質・高音質に腐心して欲しい、というのがこちらの本音だ。

大体、もう何度も書いてきた事だから鬱陶しいのだが、3Dを導入した時点でそれは「鑑賞する作品」ではありえない。必ず、いいですか、"必ず"「ゲーム・アトラクション」の類いになる。つまり、参加型の体験になるのだ。

CDをプレイヤーで再生している時、ボタン操作さえしなければ我々が聴いている最中に起きてようが寝ていようが再生される作品に変化はない。至極当たり前の事だ。しかし、3D作品は必ず変化してしまう。ヴァーチャル・リアリティに没入したあと、最初のアクションとしてプレイヤーAは空を仰いで星を眺め、プレイヤーBは地に俯いて泥をみるだろう。既に鑑賞する作品として両者は別物になる。ゲーム・アトラクションとはそういう体験を言う。

だから、もし仮に『30代はほどほど。』が「VRでHikkiと遊ぼう!」という企画だったら、大歓迎だったかもしれない。しかし、このままだと14年前と同じトークと生歌になりそうだ。つまり、超A&G+みたいな“簡易動画配信つきラジオ放送”をやる予定だと。本質的にラジオだったら、VRとかあるだけ無駄だ。技術と企画が噛み合っていない。

裏を返せば、そこを考慮した30分になっていれば私はテノヒラクルーで内容を大絶賛するだろう。コンテンツとテクノロジーは常に相互作用の中で語られなくてはならない。ただ新奇性を追うだけでは全世界に黒歴史をバラまくだけになっちゃうかもしれませんよ。…それはそれで面白いか(笑)。

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自分が見れるいちばん遠い夢について語ろう。

それは、旋律と歌詞、メロディーとリリックが同じ歌である。

詞とメロディーが分かちがたく結び付いている歌、というのがある。絶妙な歌詞の乗り方をしたメロディーもある。前も述べたように、ヒカルの『ともだち』なんかは、「よくそのメロディーとリズムにその歌詞を当てはめたな!」と感心する。『ともだちにはなれない・にはなれない』だなんて、意味も忘れて言葉を転がしてしまいそうな位。

嗚呼、でもヒカルの書いた最高の歌詞は『traveling』かもな。あのメロディーに『トラーベリン♪』と当てた瞬間に21世紀最高のPop Songの到来を確信させた。発売前CMのインパクトについてはここでも何度も語っただろう。確かに、あの歌詞とメロディーは分かちがたい。まさに「歌」である。

私の云う「メロディーとリリックが同じ歌」は、そんなレベルの話ではないのだ。分かちがたいとか2つで1つとかそんなのじゃない、全く言葉通りの意味でその2つが「全く同じ」歌が、恐らくこの世界には1つ以上存在する。或いは、存在し得る。確信をもって、私はそう断言しよう。

何を言っているかわからねーと思うが、それも当たり前である。私だってそれが具体的にどんなものであるのか見当もつかない。果たしてそれは、現在のホモ・サピエンスに知覚可能かどうかも定かではない。我々ではまだ進化が足りていないかもしれない。毎日が日進月歩ならまだいい。一進一退だったり、二進も三進もいかなかったりするのが、私らの"日々"なのだから。

自分が生きている間に人類がその「歌」に辿り着けるとは思えない。或いはもうその歌は世界に溢れていて、でも人間には気がつけていないだけかもしれない。それは、私が、朧気ながらも見せる事ができる「究極の夢」である。その歌は、あまりに遠い。

ヒカルですら、そこに至れるとは思えない。もっと言えば、しかし、その歌になれるとしたらヒカルしかいない。私の知る限りに於いては。なるものなのか作るものなのか生まれるものなのか。その歌は、どうやってあらわれて私らに知られるのか、わからない。しかし、ある事だけは確かである。ないのなら、私もあなたも宇宙も存在しない。デカルトに告ぐ。我思う、故に歌在りと。

メロディーとリリックが同じ、旋律と歌詞が同じ。即ち、節と詞が同じ歌だ。喜びと悲しみが同じ5g程度では足りない。そこでは、不死と死すら同じなのだと示唆されているのだ。それですら、まだほんのとっかかりに過ぎない。まだ生きている我々に、不死と死が同じ風景であるようにはとても見れない。節と詞が同じ地平は、そこよりも遥か向こうにあるのだから、最早我々が届くかどうかという話ではない。

作詞家作曲家、そして歌手に私が与えられるいちばん遠い夢は、以上だ。節と詞が同じ歌。不死と死が同じになってもまだ遠い。しかし、だから、今は、いつでも、まずは歌を作って歌ってみる所から始めるしかない。その歌はどの歌かはわからないが、歌である事だけは確かだ。ならば、歌おう。歌う自由の有る地に在る限り。

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『30代はほどほど』。やった。

有言実行、と梶さんが言ってたがそれは『90代はここどこ?』まで確約されたという事で宜しいか。ほんのちょっぴり気が早かったですかね。申し訳ない。

14年前は誕生日だったが今回はデビュー記念日か。『人魚』のタイアップまでの間をどう埋める気かと気を揉んでいたのだがこうくるとはね。大歓迎。

それはそれとして。特設サイトに飛ぶとごちゃっと説明が書いてある。読むのめんどくせー。飛ばしてしもても大丈夫?

14年前は画期的だったストリーミング放送。今やiphone1台あれば誰でも出来るようになった。SNSを利用した同時チャット状態も完備。今『20代はイケイケ』をやったとこで「予算ケチったなー」と言われるのがオチだが当時の有名人でこれをやったのはヒカルが初めてだった。私なんかそれを高画質で見たくてブロードバンドに切り替えたのだから。当時は動画ストリーミングサイトもなく、あらゆる動画はダウンロードしてから楽しむものだったので急がなければナローバンドでもそんなに問題じゃなかったのだ。

そこらへんは特設サイトに書かれている通り。当時の最先端の技術と財力で100万人ストリーミングと8000人チャットを実現させた。動く、それも生放送のヒカルが見れる、運がよければ会話できるという本来の魅力とともに、技術の御披露目という色彩が強かった。ブロードバンドが普及したらこういうストリーミングが増えるな、嬉しいな、という展望までみせてくれたのが『20代はイケイケ』の意義だった。

14年経ってその未来への展望が現実となり最早陳腐化して過去のものになりつつある今、今度もまた最新技術を見せつけるような企画をぶち込んできた、のだが。

アルファベットとカタカナばかりで訳がわからないよ。

HMDで3DVRを、って何の呪文かと思うよね。「ヘッド・マウント・ディスプレイでスリー・ディメンショナル・ヴァーチャル・リアリティを」なんだそうな。へー。私も知ってる呪文唱えようか。「スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドゥーシャス」とか「ニューモノウルトラマイクロスコピックシリコボルケイノコニオシス」とか「フロックシナウシナイヒリパイリフィケイション」とか知ってるぞ。でも日常で使うかもしれない最長の英単語は「インターナショナリゼイション」くらいじゃないかなぁ。

…細かい文句は次回に言うとして、要点だけかいつまむと、14年前は皆が「できたらいいな」となんとなくでも思っていた事、或いは聞いた瞬間に「そんな事が出来たら素敵!」と言える事(それ即ち動画生放送とか大人数チャットとかだったのだが)を技術で実現したのに対して、今回は「うわぁ、そんな事が出来るんだ」という技術に対する感銘が先に来て、後に何が残るかわからない、ってのが今回の問題点だ。「それが出来たら凄い」というのと「それが出来たら凄く嬉しい」というのは、似ているようで全然違う。

今回、そこのところが欠けている。立体感や操作感を実現したとして、それを使って何が出来るかを示せるかどうかが分かれ目になる。こちらとしては、そんな事してる暇あったら超高音質でその生パフォーマンスを聴かせて欲しかった。そのニーズも随分少ないと自覚はしているけれども。次回はもっと突っ込んで文句垂れてやるのだし。

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