自分が見れるいちばん遠い夢について語ろう。
それは、旋律と歌詞、メロディーとリリックが同じ歌である。
詞とメロディーが分かちがたく結び付いている歌、というのがある。絶妙な歌詞の乗り方をしたメロディーもある。前も述べたように、ヒカルの『ともだち』なんかは、「よくそのメロディーとリズムにその歌詞を当てはめたな!」と感心する。『ともだちにはなれない・にはなれない』だなんて、意味も忘れて言葉を転がしてしまいそうな位。
嗚呼、でもヒカルの書いた最高の歌詞は『traveling』かもな。あのメロディーに『トラーベリン♪』と当てた瞬間に21世紀最高のPop Songの到来を確信させた。発売前CMのインパクトについてはここでも何度も語っただろう。確かに、あの歌詞とメロディーは分かちがたい。まさに「歌」である。
私の云う「メロディーとリリックが同じ歌」は、そんなレベルの話ではないのだ。分かちがたいとか2つで1つとかそんなのじゃない、全く言葉通りの意味でその2つが「全く同じ」歌が、恐らくこの世界には1つ以上存在する。或いは、存在し得る。確信をもって、私はそう断言しよう。
何を言っているかわからねーと思うが、それも当たり前である。私だってそれが具体的にどんなものであるのか見当もつかない。果たしてそれは、現在のホモ・サピエンスに知覚可能かどうかも定かではない。我々ではまだ進化が足りていないかもしれない。毎日が日進月歩ならまだいい。一進一退だったり、二進も三進もいかなかったりするのが、私らの"日々"なのだから。
自分が生きている間に人類がその「歌」に辿り着けるとは思えない。或いはもうその歌は世界に溢れていて、でも人間には気がつけていないだけかもしれない。それは、私が、朧気ながらも見せる事ができる「究極の夢」である。その歌は、あまりに遠い。
ヒカルですら、そこに至れるとは思えない。もっと言えば、しかし、その歌になれるとしたらヒカルしかいない。私の知る限りに於いては。なるものなのか作るものなのか生まれるものなのか。その歌は、どうやってあらわれて私らに知られるのか、わからない。しかし、ある事だけは確かである。ないのなら、私もあなたも宇宙も存在しない。デカルトに告ぐ。我思う、故に歌在りと。
メロディーとリリックが同じ、旋律と歌詞が同じ。即ち、節と詞が同じ歌だ。喜びと悲しみが同じ5g程度では足りない。そこでは、不死と死すら同じなのだと示唆されているのだ。それですら、まだほんのとっかかりに過ぎない。まだ生きている我々に、不死と死が同じ風景であるようにはとても見れない。節と詞が同じ地平は、そこよりも遥か向こうにあるのだから、最早我々が届くかどうかという話ではない。
作詞家作曲家、そして歌手に私が与えられるいちばん遠い夢は、以上だ。節と詞が同じ歌。不死と死が同じになってもまだ遠い。しかし、だから、今は、いつでも、まずは歌を作って歌ってみる所から始めるしかない。その歌はどの歌かはわからないが、歌である事だけは確かだ。ならば、歌おう。歌う自由の有る地に在る限り。
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